day30.握手

 戻り梅雨も明け、気温は体温に迫ろうかという晴天の昼下がり。

 久しぶりにあの廃墟の前を通ると、柵に沿った一角に向日葵が咲き揃っていた。

 人が住んでいないというのに、随分と綺麗に咲いている。誰かが手入れに来ているのだろうか。

「ああ、キミ」

 向日葵を見ながらゆっくり歩いていると、背後から誰かに呼び止められた。振り返ると、身なりのいい壮年の紳士がニコニコと立っていた。

「済まないね。キミから懐かしい人の匂いがしたもので、思わず呼び止めてしまったよ」

「はあ」

 毎日風呂に入ってしつこいぐらいに体を洗っているのだが、匂うだろうか。思わずシャツの襟元を鼻に近づけた。

「いや、体臭的な話ではなくて、知り合いの残り香があるような気がして……。どちらにせよ、こんな見知らぬおじさんに声を掛けられて迷惑だったね」

 悪かった、と上品な仕草で頭を下げる様子を見て、彼がこの廃墟のお屋敷の持ち主なのではという考えが頭に浮かんだ。それとなく男性に尋ねてみると、そうである、とのこと。

「この屋敷には、辛い思い出が多くてあまり来なかったんだがね。それでもいいことだってあったと、また訪れてみたんだ」

 あなたのようなお若い方には想像しづらいかもしれないが、と言われ、ごく最近こんな台詞を聞いたなと思う。

「恥ずかしながら、若い頃に駆け落ちをしたことがあってね。結局失敗して、彼女とはそれきり二度と会うことがなかった。以来、彼女との記憶が色濃く残っているこの屋敷に来るのが辛くなってしまったんだが、今となっては彼女を偲ぶ数少ないよすがだから」

「ということは、彼女は……」

「それからずっと、行方不明なんだ。それも、彼女をひとりにした僕が悪かったんだ。あの日の夜、森を抜けて隣町まで逃げようとした。その途中、後をつけてくる追っ手の気配に気付き、血気盛んだった僕はすぐにそいつらをやっつけてやるつもりで、彼女の元を離れたんだ。彼女にちょっといいとこを見せようなんて、甘い考えもあった。だが、思ったより追っ手の数が多くて、多勢に無勢であっという間に僕は捕まってしまった。彼らは僕の母に彼女を引っ捕らえるよう命じられたらしく、森の中を方々探し回ったようだが、とうとう彼女は見つからなかった。危険な夜の森に女性を一人きりにするなんて、僕はとてつもなく馬鹿なことをしてしまったんだ。見つからないだけで、きっとどこかで幸せに暮らしている、なんて思い込もうとしているあたり救いようがない」

 男性はそこまで一気に語るとふう、と息を吐いた。その表情からは最初の笑みが消え、深い後悔と悲しみで憔悴したものになっていた。

「年寄りの長話に付き合わせて悪いね。一年ぶりなものだから、感情が抑えきれなくなってしまって」

「じゃあ毎年夏にこの屋敷に様子を見に来ているんですね」

 十中八九、彼があの日傘のひとの婚約者だろう。彼女があの暗い森でどうなったのか、私から伝えるのは憚られるが、雨の日に来てもらえば彼女と再会することができる。

「うーん。様子を見に来ている、というよりは、ね」

 なぜか男性は困ったように顎に手を当てた。苦笑いで、何かを言い淀んでいる。

「びっくりさせるといけないから今まで黙っていたんだけど、僕って実は幽霊なんだよ」

「はあ」

「あまり驚かないね。もしかして霊感があるとか?」

 まあそんなところです、と曖昧に答えながら、全く別のことを考えていた。もし彼が幽霊でこの辺りを漂っているなら、彼女はどうして未だに婚約者に会えないでいるのだろう。

「なら話が早い。いつか彼女とまた会える、と思っておじさんになるまで生きたのだけれど、結局会えないまま僕は死んでしまった。それでもどうしても会いたくて、彼女との思い出があるこの屋敷に僕の亡骸を埋めて、その上に彼女が好きだった向日葵を植えてもらったんだ。彼女がいつかここを訪れたら、絶対に見つけられるように」

「えっ、それって法律的には……」

「アウトだろうねえ。でも、何事も大金を積めばやってくれる連中がいるものだよ。それはさておき、段々と向日葵が育つにつれて根が僕の死体に絡みついて、一体化してしまったみたいなんだ。普通なら一年草であるひまわりが、僕の体を核にして毎年育つようになった。そして、向日葵の力なのか夏になって花が咲いたら、日の光を浴びている間だけこうやって人の目に見える姿で外をうろつくことができるってわけさ」

 真昼の幽霊なんて洒落てるよね、のんびりとした調子で続ける男性をよそに、私の背中を冷たい汗が伝った。

「花が咲いている日中以外はどうしているんですか?」

「土の下で眠っているみたいだね。意識がないからよく分からないけれど」

 つまり、彼は夏の晴れた日だけ外に出ることができる。一方、彼女は雨の神である雨師さまの眷属なので、雨の日しか出歩けない。織姫と彦星以上に、出会うのが絶望的だ。

「長々と話を聞いてくれてありがとう。キミから彼女がよく使っていたコロンの香りがした気がして、懐かしくなって色々話してしまった。こんなおじさんの昔話に付き合ってくれるなんて、キミは本当にいい子だね。記念に握手をいいかな?」

 握手の習慣があまりないので、少しまごつきながら差し出された右手を握る。今度雨が降ったら、日傘のひとに会いに行って何も言わずに握手をしよう。

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