day7.酒涙雨

 七夕の晩だというのに、あいにくの雨である。

 打ち合わせが長引いて、家路に就くのが夜になってしまった。傘越しに見上げる七夕の空は、厚い雲に覆われている。

 このまま歩いて行くと、例の日傘の女が出る廃屋の前を通ることになる。また遭遇するのも嫌だったが、いるかどうか分からないのに雨の日に遠回りする方が嫌なので、特にルートを変更するつもりはない。

 廃屋が見えてきた。目を伏せがちにしながら足を早める。普段は気にすることはないが、今はこの屋敷の広さが恨めしい。

 あと一メートル、通り過ぎてしまえば何事もなく終わる。と、ひたすら地面を見ていた目に、草履と足袋を履いた白い足元が飛び込んできた。

「わっ」

 ほぼ走っているような早足だったので、ぶつからないようにほとんど反射で飛び退いた。結果、彼女とまともに相対してしまった。

「あの、お忙しいところすみません……」

 いえ、あなたに会いたくなかっただけなので、特に急いでいたわけではありません。とは口が裂けても言えずに、代わりに唾を飲み込んだ。女は相変わらず、雨でしかも夜だというのに、白いバテンレースの日傘を差して一滴も雨に濡れていない。

「申し訳ありません、驚かせてしまって。この前も、勝手に触ろうと……ああ、私ったらはしたない」

 思ったより普通に喋るな、というのが正直な感想だ。うちに棲み着いている精霊的な何かもちょっとズレてるところもあるが割と常識的なので、近頃の怪異は皆こんな感じなのかもしれない。

「本当にごめんなさい。あなたがあの人にあまりにも似ていたから、この家に戻って来てくれたのかと思って……」

「いや、もう謝らないで下さい。それより、あの人って?」

 なんとなく安全そうだと分かると、作家の好奇心が面白そうな話を逃すなと告げる。傘を叩く雨音がどんどん強くなるのも、気にならなかった。

「この、今は廃墟となった屋敷の跡取りだった方。結婚の約束をしていたのですが、時代のせいでそれは果たされませんでした」

「それは……戦争とか?」

「いいえ、彼には親が決めた許嫁がいたの。それに逆らって結ばれるにはまだ難しい時代だったから、ふたりで駆け落ちをしました。彼に頂いたこの日傘以外、ほとんど何も持たずに。

 月のない夜のことでした。今の方には想像もつかないでしょうね、あの頃の夜の暗さは。

 その上雨も降っていて、彼と一緒に屋敷を抜け出し、町外れの森までたどり着くのも一苦労だった。そこで彼は、少しは雨を凌げる大きな木の下に私を休ませ、追っ手が来ていないか確認しに行ったわ。

 でも、その後、何時間待っても彼は戻って来なかった。本当は、不安な気持ちがそう感じさせただけで、大した時間ではなかったのかもしれませんけど。私は彼が追っ手に捕まってしまったのではと恐ろしくなり、彼を探しに出たの。その時は夜の暗闇よりも、彼と離ればなれになることの方が怖かった。

 でも、それがよくなかったのね。雨で大きな水たまりができているだけ、と思って進んだところが池だった。気がついた時にはもう戻れなくなっていて、そのまま溺れて死んでしまったわ。ふふ、こうやって人に話していると、なんて間抜けな話なのかしら」

 ねえ? と言われても素直に同意しづらい。それよりもこのお淑やかそうな女性が、それだけの情熱を持って駆け落ちをしたというのが意外だった。

「死んでしまった直後のことはよく覚えていないけど、私は気がついたら雨師さまのところにいた。雨師さまが、若くして死んでしまった私を憐れんで、眷属にしてくださったの」

「うしさま?」

「雨の神様なんですって。たまたま落ちた池が、雨乞いのときに供物を投げ入れる池で、雨師さまの聖域? だったみたい。その縁で眷属にして頂いておきながら、正直私も詳しくは分からないのだけれど。それで、雨を司る神様だから、雨が降る日には私は力を分けて頂いて、こうして彼を探しに来れるのよ」

「この家、廃墟になってしばらく経つみたいですけど、どこかに引っ越したんですか?」

「家の人に連れ戻された後、また駆け落ちなんてしないように、どこかもっと人の出入りが厳重に管理できるところに移されたみたい。結局、私の死体は上がらなかったから」

 確かに、死体が見つからず行方不明扱いであれば、どこかに潜んでまた駆け落ちを画策するのではと疑われるのは道理だ。それにしても、残された男の心痛は如何ほどだったであろう。愛する人の行方も生死も分からず、自分だけのうのうと生きる。私だったら到底耐えられないだろう。

「雨師さまの力が及ぶのがこの町の中なのだけど、いくら探してもその中に彼はいなかった。どこか遠いところに連れていかれたのね。それで、いつかあの人が思い出のあるこの屋敷に戻ってきてくれるのではないかと、雨が降るたびにここに様子を見に来ているの」

 それが雨の日に現れる日傘の女の正体か。正直よく聞くような怪談だと思っていたが、まさかこんな哀切を帯びた顛末が隠されていたとは。

「あの方がここに来ることはなかったけれど、今日、この七夕の夜に彼にそっくりなあなたに会うことができてよかった」

 雨で濡れることのない彼女の青ざめた頬を、涙の雫が伝った。


 そういえば七夕の夜に降る雨を表す、酒涙雨という古い言葉があった。

 織女と牽牛が別れを惜しむ涙とも、会えずに悲しむ涙とも言われているそうだ。

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