私の危機一髪

阿々 亜

私の危機一髪

 10年近く昔のことである。

 当時、私はとある二次救急病院の呼吸器内科に勤めていた。

 その日、私は週に一度の内科当直業務についていた。

 二次救急病院は三次救急病院のように重症が運ばれてくることは稀で、軽症の対応が多いのだが、これがなかなか楽ではない。

 熱、咳、腹痛、頭痛等々、軽い症状ながら一晩中ひっきりなしに患者さんがやってきて、なかなか寝る時間が確保できないのだ。

 しかも、当時の医療現場は労働基準法の治外法権(比喩表現)であり、日勤業務をして、寝ずに当直業務をやって、翌日通常業務もやるというのが普通だった。

 17時15分日勤帯から当直帯に移行した。

 私はなんとかかんとか日勤の業務を片付け、当直業務についた。

 解放されるのは明日の夕方。

 まだ折り返し地点も過ぎていない。

 私はそこから先の長い道のりを考えると、とてもとても憂鬱だった。

 そんな憂鬱な夜の一人目の患者さんがやってきた。

 聞くと17時15分を過ぎた瞬間に飛び込んできたらしい。

 もうさっそくか~と私はため息をつきながら、その患者さんを救急診察室に呼び込んだ。

 患者さんは初老の女性だった。

 仕事帰りにスクーターに乗って帰宅途中に、急に腰背部が痛くなったとのことで、通り道にあったこの病院に駆け込んだのだという。

 熱もなく、痛みだけということで、私は最初急性腰痛症(ぎっくり腰)かな? と思ってしまった。

 あとから振り返ると、特に何かの動きをしていたわけでもないのにという点にもっと意識を向けるべきだった。

 症状を聞きながら、さてどうしようかな……と考えていた矢先、そこに看護師が飛び込んできた。

 私の外来のかかりつけ患者さんが呼吸困難で救急要請をしたのだそうだ。

 その患者さんは重い呼吸器疾患で風邪などちょっとしたきっかけですぐに呼吸不全をきたす人だった。

 話を聞く限り、十中八九緊急治療を要する。

 私はその救急搬送を当院で受け入れるよう指示した。

 さて、忙しくなる……と思いつつ、意識をその腰背部痛の患者さんに戻した。

 今現在も強い痛みは続いている。

 こちらの患者さんを早く片付けなければならないと思った私は、とりあえず体幹部CTで内臓疾患を否定して翌朝整形外科を受診してもらおうと思った。

 私は体幹部CTをオーダーし、患者さんは歩いてCT室へ向かっていった。

 数十数分後、CTの画像が電子カルテに飛んできた。

 私の意識はこれから運ばれてくる呼吸不全の患者さんに向いており、何の気なしにCTをチェックした。

 そんな私の目に本来あるはずのないモノが飛び込んできた。

 大動脈の中に一層余分な膜が見えるのだ。

 私の頭のなかで、急性発症の腰背部痛という症状とこの画像所見が一瞬でつながった。


 急性大動脈解離だ……


 私はその患者さんをすぐに救急のベッドに案内し、安静にするよう指示を出した。

 大動脈解離が普通に歩いてくるなんて、そんなのありか!? と内心で絶叫しながら、患者さんに大動脈解離であることを説明した。

 そして、血圧、脈拍などバイタルサインを測定し、点滴ルートを確保する。

 当院に循環器内科医は一人だけで、心臓血管外科はない。

 保存的に経過をみる可能性もあるが、状況によっては緊急手術になる。

 すぐに高次医療機関に転送しなければならない。

 搬送先の候補を頭に思い浮かべていた矢先、遠くから救急車のサイレン音が響いてきた。

 もう一人の呼吸不全の救急搬送が到着してしまったのだ。


 くそ、このタイミングで!?


 私は二人の患者さんを同時進行で、スタッフに指示を出していきながら、高次医療機関に電話をかけた。

 幸い一件目で受け入れをOKしてくれた。

 急変のリスクが高く、搬送には医師同乗が望ましいが、もう一人の呼吸不全の患者さんもなかなか重症でとても手を離せない。

 私は外科当直に救急搬送の同乗を依頼した。

 そんな経過で、来院からなんとか30分程度の時間で大動脈解離の患者さんを救急搬送で送り出すことができた。

 気を取り直して、呼吸不全の患者さんの治療に専念しようとしていたところに、2学年上の先輩医師がやってきた。

 私より遥かに優秀でとても厳しい先輩だ。

 そんな先輩が退勤間際に救急の騒動を聞きつけてやってきたのだ。

 先輩はいつもは絶対に見せない満面の笑顔でこう言って去って行った。


「やるじゃん」


 いつもは絶対に言って貰えない言葉を聞いて最初はとても誇らしく思った。

 だが、すぐに私は考えを改めた。

 私は大動脈解離を想定していなかった。

 歩いて普通に診察室に入ってきた患者だったので重症ではないだろうという思い込みが頭のどこかにあった。


 完全に“危機一髪”だったじゃないか……


 そんな自戒の念に押しつぶされそうになりながらも、もう一人の呼吸不全の患者さんが自分の前にいることを思い出す。

 立ち止まってはいられない。

 私は気を引き締め直して、その夜の当直業務に臨んだのだった。








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