火鍋屋でキレかけた話

白夏緑自

第1話

「あそこから水が流れてるのか」

 水野が天井を指さす。するとそこには、彼が言うとおり棒状のスプリンクラーがガラスの向こう──屋根に張り付いて絶え間なく水を流していた。

 この店は天上から四方八方の壁全てが透明なガラスで囲まれている。店奥に掲げられた千代の富士のポスターが直射日光や人の目を遮るのみで、外から中の光景は筒抜けだ。なんとも密会には向かなそうな構造だが、屋根から流れる水が天井と壁を伝ってカーテン替わりとなって、意外にも外の様子は気にならない。行き交う通行人や車はモザイク模様に変換して見える。

 

 なんとも金のかかりそうな仕掛けを見て、学校備え付けプールの蛇口を開けっ放しにしていた公立学校教諭のニュースを思い出す。無駄に垂れ流した分の水道代が果たしてその金額なのかどうかは知れぬところだが、彼らは決して安くはない料金の自費払い命じられていた。過失とは言え、業務上の失態をポケットマネーから補填しなくてならない事実には他人事ながら気の毒だった。


 他人に心を寄せられたのは、いくら安定した公務員と言っても、公立学校教諭が高給取りではないと知っていたことも大きい。大学時代の友人のほとんどが──同じ学部に友達が出来なかったことも相まって──地元で教師になったおかげで、彼らの給料事情は察せられる。せいぜい、僕のようなしがない一般サラリーマンより安定して年二回の賞与が貰える程度だ。……これが死ぬほど羨ましいことだとは、四年の社会人生活中で身に染みている。


 水野もそんな僕が羨む人間の一人だった。彼も大学を卒業して小学校の教諭になった。

 中肉中背で、顔立ちも悪くない。何となくノリがあって、学生時代に良くつるんでいた。


 今日はその水野の誘いで集まった。全員、同じ大学の、同じサークルで特に仲が良かった連中。男女複数人いるLINEグループで声をかけられて、集まったのは僕含めて男3と女1。僕たちにとって、珍しい比率ではなかった。


 男女の間で友情は成立するのか。様々な酒の席で議題に上がったであろう、この問題には一つの解があると思う。

 つまるところ、男女複数人であれば成立する。男Aと女Aがいるとして。男Aが女Aをその他女B、Cの三人のうちの一人だと認識していれば、友情以外の情は生れない。逆もその然りだ。

 ただし、男Aが女Aを女性三人の内の一人ではなく、ただ一人の、特別な女性。特別だと思う理由も顔が良いとか、胸がデカいとか、話が合うとか何でもよいがとにかく、一人の女性だと認識して接し始めると、そこには友情以外の感情──恋愛感情が渦巻き始める。


 そして、女Aが同様に様々な要因にて男Aにも恋愛感情を抱けば、しめて両想いとなり、様々なイベントといくつかのきっかけを見逃した末に、どこかで振り絞った勇気が実り、付き合い始める。というのが集団にて発生するカップル誕生経緯のモデルケースだ。

 

 僕も男Aだった時期がある。今日来ているただ一人の女性。相生 陽兎≪あいおい ひと≫が僕にとっての女Aだった時期もある。

 鷹の爪が浮いた火鍋スープから立ち上る湯気越しに見る、四年ぶりの元カノは相変わらず顔が良かった。


 付き合っていたころはボブだった髪が背中の真ん中にかかるまで伸びている。目に見える変化はそれぐらい。昔みたいにメイクは薄くて、面影は少女のままだ。当時、見せてもらった高校の卒業アルバムと大学二年生の陽兎に違いはなかった。だから、目の前にいる彼女も高校時代とそう変わらないのだろう。


 陽兎と会うのは実に四年ぶりだった。別れたのは大学四年生の夏ごろ。それからもなんやかんやとサークルの集まりで顔を合わせていたけれど、僕が就職を機に上京してからは連絡も取り合っていなかった。借りていた漫画を宅急便で送って、陽兎からの届いた旨のラインは既読無視したままだったはずだ。


 今日の集まりに陽兎が来ることを知って、少しも意識しなかったと言えば嘘になる。今さら“より”を戻そうだなんて微塵も思っていないけれど、僕の知らぬその後の動向というものが気にはなる。

 

 仕事は上手くやれているのか。飼っていた犬はまだ元気か。当時勧めてくれて、僕の方がハマったアーティストはまだ聴き続けているのか。色々。

 その後に彼氏が出来ているかどうかは聞かずもがな、わかりきっていた。彼女の性格。あるいは性質や生き様から、陽兎は誰かにとっての特別な存在になっている。そうではない期間のほうが短いはず。だから、彼女の恋愛遍歴について尋ねる気はなかった。これは、強がりじゃない。


 僕の向かいに陽兎が座っている。話しかけやすい位置だ。だが、個人的な話題を切り出すのは難しい。三人以上の集会では、人数が少ないほど二人の話をする難易度は上がる。

 残された側は否応なしに二人の話に耳を傾けるしかない。これがもっと、六人、七人と人数が増えていけば騒ぎに紛れて話しかけられただろう。しかし、今日の集まりは四人だけ。席も近い。ましてや、僕たちが付き合っていたことは他の二人も知っている。

 注目、されているのだろう。水野ともう一人の友人、高木が僕を捉える瞳には時折、好奇心の色が混じっている。二人には悪いが、見世物になるつもりはなかった。


 彼らが本人を目の前にして恋愛事で茶化すような奴らではないと知っているが、どうせ後日、僕たちがいない集会でネタにされるのだ。今日、僕と陽兎が会することはここにいない皆にも知られている。絶対に水野と高木に様子を訊き出そうとするやつらがいるはず。そいつらのことまで考慮すると、ますます陽兎へ話を振るのが億劫になる。


 四人で打ちあう会話のラリー。僕が陽兎へパスすることもないし、放ったボールを陽兎が拾うこともない。陽兎も僕へパスは出さないし、ルーズになりかけた陽兎のボールを僕が拾ったりもしない。適当な相槌を浮かべながら、水野か高木がボールを拾うのを待つ。

 

 埃が被り始めた学生時代の振り返り。ギリギリ酒が不味くならない仕事の愚痴。誰も傷つけない金の使い道。ひとしきり話をした。久しぶりに顔を合わせるおかげで、話題には困らない。お互いに知らない近況は山ほどある。

 だけど、会話が重なれば重なるほど、違和感はくっきりと浮かび上がる。


 恋愛に関する言及が一切現れない。


 色恋沙汰と切っても切り離せない学生時代にも。アプリが台頭しても、まだまだ出会いの場としては主流ではあるはずの仕事も、彼らが務める職場内の恋愛事情も。誰かのために使ってもいいはずの金銭事情でも。恋愛の“れ”の字も現れない。

 わざわざ通る必要もないが、意識していないと避けられないトピックのはずだ。恋愛は。


 もしかして、僕たちに気をつかっている? まさか。根拠はないが、それは絶対にあり得ない。

 水野と高木が浮かべるイタズラがバレるのを楽しみに待つような笑み。

 奥歯に秘め事を溜めたせいで、噛み合わせが悪くなった陽兎の歯切れの悪さ。

 三人の様子が証拠だ。


 こいつら絶対、僕に何か隠している。


 特に陽兎の態度はよく知っている。ロクでもない秘密を抱えているときだ。

 こんな時の彼女は黙っていれば良いことをさも申し訳なさそうな声色で平気に明らかにする。それは正直で大変良いことだ。後々膨れ上がって、取り返しのつかない爆弾になる前に風船程度の威力で収拾づけられる。


 三人が秘匿している、僕だけが知らない事実も大方予想は付いている。

 ただ、まずは陽兎から事実確認を行いたかった。一線引くスタンスを定めたものの、やはり、どうしても元カノ本人の口から事の次第を聞きたい。水野か高木か。相手はどちらかわからないけど、彼らから聞いても現実感が無くて、僕の身体をするりと通り抜けてしまうかもしれない。

 陽兎から聞くのは一番傷つく順番だという自覚はあった。だけど、誰の口から聞かされても痛いのは確実。だったら、陽兎に傷つけられたかった。


 さて、彼女にどう切り出そうかとアルコールによって熱を持った脳みそで考えていると、水野と高木が煙草を吸いに行くと言い出した。

 これは好機だ。

 僕も喫煙者であることは知られているから、喫煙所には僕も誘われる。


「ごめん、先に行ってて」

 鞄から煙草を取り出すのに手こずったふりをして、二人を先に行かせる。

 陽兎と二人きりになった。


 いざ、尋ねようとすると適切な言葉が思いつかない。いくつかの候補を喉の奥で転がしていると、「水野君たちのことだよね?」と陽兎の方から橋をかけてきた。僕が陽兎の異変に気付いていたように、彼女もまた僕の落ち着きのなさの原因に見当がついていた。


「ヤッたよ。これが聞きたかったんでしょ?」

 何の悪びれもなく、友達とパンケーキでも食べに行ったことを報告するようなカジュアルさで報告する。

 もちろん、彼女が僕に対して罪悪感を抱く義務は四年前に失効している。あのときは永遠だったかもしれない、二人一緒の人生は途絶えている。だから、僕が彼女に怒りをあげる権利も同様に失効している。


「そっか」

 と、だけ返事をする。幸せにやれよ、とは言えなかった。僕と付き合っていたときに出来た間男──結果で言えば最終的に選ばれたのはその間男で、僕が“間男”になったのだが──間男とはもう別れたのか、とも聞く気は起きなかった。

 むしろ、続いていてくれとも考えた。

 ほら、お前の彼女は理由ときっかけさえあれば誰とでもヤる頭と股の緩い女だった。知っていただろ。そのおかげでお前は陽兎と付き合えたんだから。陽兎へ怒る権利は僕よりも少ないぞ。わかっていて寝取ったんだろ。


 その間男が僕の人生にほとんど関わりのない人間でよかった。連絡先を知っていたら、電話の一本でも入れて意地悪に陽兎の不貞を知っているか探っていたかしれない。──知っていて、余裕を見せつけられたらさらに腹が立つだけだから、本当に連絡先を知らなくてよかった。


 そう、なぜだか腹が立つ。陽兎に対して腹を立たせる権利と義務を僕は持ち合わせていない。君の人生、好きに生きろ、だ。その一言で僕は自分を納得させることができる。


 ただ、やはり腹の虫が治まらない。冷たい水を飲んでも、鍋の底に残っていたナスを食べても、胸の引っかかりは腑に落ちない。腹の虫が暴れたそうに騒めいている。


「水野君たちのところ行かなくていいの?」

「そうだった」

 僕は煙草を取り出すのに手こずっていることになっているのだ。追いかけないと陽兎と二人で話したかった口実だとあからさまに勘づかれる。


 既にポケットに入っていた煙草とライターの形を布越しに確かめて、席を立った。

 そこで、違和感の正体に気づいて、陽兎の顔を見やる。


「どうしたの?」と小首を傾げる彼女へ「なんでもない」とだけ応えて、喫煙所へ急ぐ。

 なんでもない、訳がない。陽兎は言ったのだ。今日ここに来ている人とヤッた──セックスしたと。誰とかも明白に。「水野君たち」と複数形で、しっかりと。


 喫煙所に入った僕に気が付いて、水野が「おう」と小さく手を上げる。

 もしかしたら、僕の顔にデカデカと書かれていたのかもしれない。二人は僕の顔を見るなり、ついに隠していた、とっておきのイタズラがバレてしまったように楽しげな失敗を告発する。


「聞いた? 俺たちのこと」

「うん、二人ともだって?」

「あー、うん。二人、二人ね」

 

 そう言うと、高木がスマートフォンの画面を僕に見せてくる。

 他に誰もいないからか、それは動画だった。


 もう比喩とか描写は必要ない。目に飛び込んできたのは陽兎が複数の男に囲まれてセックスしている光景だ。声に聞き覚えのないやつが多い。二人以外は全員知らないやつだ。


 フィクションのような映像だけど、ひどい手振れとうるさい環境音が現実だと教えてくれる。

 言葉にならない僕に、二人が経緯を説明し始める。


 陽兎が仕事と彼氏との関係に行き詰まっていたこと。何度か飯を食いに行って、そのうち身体を重ねはじめたこと。それが複数の男に跨っていたこと。だったら、全員集まってヤッてしまおうということになり、動画の状況になったこと。


 彼らに悪びれる態度は欠片もなかった。強いて言えば、ここまで僕に隠していた程度にはやましさを覚えていたのかもしれない。それも、ここでバラした時点から優越感の方が勝っているようにも見える。


 水野と高木が僕を話がわかる穴兄弟として認めたのか、陽兎の身体の具合を揚々と語り始めた。肌の質感。胸の突起の硬さ。締まり具合。フェラの上手さ。まるで、アニメの好きなシーンを語り合うように彼らは言葉を交わし合う。

 

 腹の虫が熱くなって暴れだす。今すぐにでもこいつら二人のヘラヘラ気持ち悪い顔面をぶん殴ってやりたい。四年間の友情とか知るか。陽兎をAVみたいに汚しやがって。


「お前ら」

 まずは二人の顔をこっちに向けさせる。そのためになんでもなく呼びかけるつもりが、思いのほか声に怒気が孕んだ。


 水野と高木が顔を見合わせて、水野のほうが僕の肩に手を置く。

「まあ、そう怒んなって。もうお前には関係ないことだろ?」

「関係ない?」

「だって、そうだろ。別れて三年? 四年? とにかく、それだけ経ったんなら、もうお前と陽兎ちゃんは関係ない、ただのサークル仲間だろ。あ、もしかして、まだ好きだったりした?」

「そんなんじゃ、ないけど……」

「だったら、いいじゃん。お前に怒る資格ないよ」

 そこで、僕の拳は開いた。悔しいが、水野の言う通りだからだ。


 僕にはもう関係がない。他人の、それも女性の性的嗜好に口を出せるような身分じゃない。陽兎が望んで身体を男たちに預けたのなら、なおのことだ。


 本当に望んだのか? ──きっと望んだのだろう。輪姦の提案は水野たちからかもしれないが、なんだかんだと陽兎は受け入れた。それも、きっと後悔していない。あいつは常に愛を求めているし、愛を享受するのに身体を重ねるのが一番だと考えている節がある。

 

 この悪癖が目覚めたのは、僕たちが付き合って三年目のころ。波乱もなければ、目新しさもない、いわゆる倦怠期に陽兎はバイト先の先輩と寝た。次の日、もう何度行ったかもわからない水族館で、いつもより口数の少ない彼女にどこか体調が悪いのか。ただ、それのみを訊いただけで「実は……」と教えてくれた。少しだけ歯切れは悪かったが、あなたなら許してくれるでしょ、と言外に含ませた声色は簡単に思い出すことができる。

 

 陽兎はどうしようもないやつなのだ。記憶の中で美化していたメッキが剥がれて、生の記憶が蘇った。当時の僕も、彼女の生き様を変えることができなくて、結局そのバイト先の男に鞍替えされた。


 一緒じゃないか。あの時と今も。彼女はより新鮮で幸せを注いでくれる愛に寄って行ったのだろう。僕じゃもう力及ばない。 

 だから、ここで幕引きをしよう──とは思えなかった。


 まだ、僕の中で怒りは煌々と燃えている。彼らと彼女の行いを正当化しようとしても、まだ僕だけは納得できなかった。

 感情論だ。議論でどうにかなる範疇を越えている。最後に残った僕の感情が、この正当化されたクソな状況から陽兎を連れ出したいと叫んでいる。

 

 確かに、僕はもう陽兎にとっての特別じゃない。ただの、大学の同期だ。

 クソな状況を正当化できるなら、僕の感情論だって正当化できる。


 テレビの向こうの顔も知らない誰かさんを気の毒に思えるのだ。踏み込む権利のない他人の人生に、昔付き合っていたからという理由だけで介入したっていい。

 

 職場の水道を垂れ流しにして実費で六十万円ぐらい支払うはめになった馬鹿に同情もする。行ったこともない国で地震が起きたら、いつもは見向きもしないコンビニの募金箱にお釣りを落とす。


 これらと同じだ。たとえ、股を開くしか満ち足りる方法を知らない愚かな女だとしても、そこにつけこまれて、ただの男の性の捌け口にされていたら、違う生き方があるんだって教えたくなる。その生き方は、いつか絶対に破滅するから。その前に、考えを改めた方がいいと教えてあげなくちゃいけない。

 たまたま今回は、愚かな女が陽兎だった。まだ、救いやすい、心理的に手を伸ばせば届きそうな位置にいる人だった。


 関係がなくたっていい。見返りを求めていないかと問われれば、自信をもって頷けないけれど。ここで見過ごせば、目覚めが悪い。


 決めれば、僕にできることを考える。

 水野と高木に辞めさせるのは得策じゃない。仮に、二人が手を引いても陽兎は次の相手を探す。

 

 だったら、陽兎本人に変わってもらうしかない。なにをどう伝えればいいかわからないけど。とにかく、彼女と話をするべきだ。

 

 今の時刻は十八時。副業のコンビニバイトが二十二時からだから、あと四時間しかない。トぶか……? いや、ダメだ。バイト先が自宅と近すぎる。さすがにトんだバイト先に客として行く勇気はない。店長には体調不良と伝えて……。


 そこで、ふと、違和感が降りかかる。鉛色の空が割れる。遠くの方で犬が鳴く。


 僕はコンビニバイトなどしていない。自宅近くのバイト先として思い浮かべたのは、実家近くのコンビニだ。一人暮らし近くのコンビニではない。

「あぁ……」と世界がマジックテープを剝がすみたいに、僕の意識から離れていく。

 夢だ。これ。



 これが僕の初夢。気持ちを新たにするどころか、無意識に四年前の失恋を引きずっていることを自覚させられる、最悪なスタートだった。

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