第十章

トニーは、せっかくバンドが決まったのに、ジェシカの連絡先を教えてもらうのを忘れていた。

…マヂかよ、俺、バッカぢゃね?また食事しようって言ったのに電話番号を訊かないで、どうするよ…

自分の電話番号が書いてあるハンカチは返してもらっていたのでジェシカから連絡が来ることは望めなかった。

やっとバンドが決まった嬉しさがあるのに、もうジェシカに会えないかもしれない寂しさが喜びを半減させていた。

また会って話したい、時間を共有したい、ジェシカが弾くピアノを聴きたい。

ホテルのロビーを自身の演奏を聴いた客で満員にしてしまい拍手喝采を浴びて頬を染めていたジェシカ。

表情豊かで、白い花が咲き誇り、そよ風に揺れるような笑顔のジェシカと話しているとトニーは癒されたのだった。

トニーはジェシカが宿泊してロビーで演奏したホテルを訪ねて行ったがジェシカは既にホテルを引き払っていたし、オーナーで彼女の父親代わりのジョージは商談で留守にしていた。

ジェシカが危ない目に遇ったのを助けたのがトニーだと知っている従業員は、ジェシカの引っ越し先を知らなかったのでジョージが戻ったらトニーのことを伝えてくれると言ってくれたのに、トニーは自分の連絡先を伝えるのをウッカリ忘れて自分の部屋に帰ってきた。

気持ちは晴れなかった。

自分の家に帰ると、トニーはソファに沈み込むように座って悶々としていた。

俺は、また会って話したいって思ったし食事だって一緒にしたいと思ったけど…彼女の方は…どう思っているのか解らないもんなー。

バンドが決まったらお祝いなんて社交辞令かもだし。

それにクラシックのピアニストじゃあ畑違いで俺なんか見向きもされないのがフツーじゃないか。

あのホテルのオーナーの娘同然だっていうし…。

俺が危ないところを助けたらしいけど…少しは何となく覚えている…あの子、変な奴らに囲まれて怯えていた…なんか奴らに無性に腹が立って…その後は、あまり覚えていないけど、だからと言って助けたんだから俺と会ってみたいに思われて恩着せがましい感じに思われても嫌だしな。

あ~でも、あと1回くらい、会いたい!

だけど…きっと1回会えたら、また絶対に次も会いたくなるかもしれない。

イヤ、会いたい!何回でも。

女の子と、あんなに楽しく話したのは俺初めてだし。

あの子…めちゃめちゃ可愛いし。…もう1回食事くらい、いいよなぁ…

って思うのは俺だけか。

トニーはソファに横になると天井を見上げて、長いため息をついた。

実は、トニーはジェシカがハンカチを返したいと言って会った時から一目惚れしていた。

可愛い、というだけなら、こんなに夢中にならなかっただろう。

トニーはジェシカが奏でたピアノの音色にも心を奪われていた。

クラシックには全然詳しくないけど、トニーはジェシカが奏でた音色を忘れられなかった。

一方、ジェシカはアパートに越してからジョージに連れられてピアノを弾くことになっているレストランを訪ねて行ったが、レストラン側の不手際でピアノが調律されていなかった為、仕事をするのが先延ばしになってしまっていた。

「いやぁ~すまないねジョージ。調律師が来るのが来週末になってしまってね。もっとも、このピアノは殆ど飾り同様でね。長年誰も弾いていないし調律出来るかどうか」

オーナーは、ジェシカをチラリと見たがジョージにだけ話し続けた。

オーナーとしては昔からの知り合いのジョージに頼まれて、仕方なく、というところでジェシカに期待しているわけではなかった。

毎日、閑古鳥が鳴くような店内に適当にピアノが弾ける子を飾りのように置いておくような気持ちだった。

「仕方ないね、ジェシカ」

帰り道すがらジョージは、ため息混じりに言った。

ジェシカは静かに頷き無言でいた。

「ピアノが弾けるスタジオを借りておこうか。それとも、また私のホテルのロビーで演奏してもらえるかい?大勢の人に聴いてもらった方がいいかな」

「はい、スタジオよりロビーで演奏させて頂けたら嬉しいです」

スタジオはレンタル料金が高いのでジェシカは気が進まなかった。

小さな頃からジョージには世話になっていて、エドワードが亡くなってからはさらに何かと一段と気遣ってくれるのが痛いほど解って感謝していた。

ジョージは自分のホテルに電話してロビーコンサートの手配を始めていた。

元々、彼のホテルのロビーは様々な演奏家に開放していたのだった。

ジョージはロビーに置いてあるグランドピアノを時間が許す限りジェシカが弾けるようにスケジュールを組んだ。

そうこうしているうちに時間は瞬く間に過ぎ、レストランのオーナーから連絡が来てジェシカはジョージに連れられ再びレストランに出向いた。

オープンからラストオーダーまで、自由に弾いてもらって構わないという契約だった。

「じゃあ、まぁ…とりあえず少し私にも聴かせてもらえるかな」

オーナーが面倒くさそうに首をピアノに向けジェシカに言った。

ジェシカはオーナーの横柄な態度に少し嫌な気持ちになったがジョージの知り合いだし、ピアノが弾けるなら、と気持ちを切り替えてピアノに向かった。

数分後、ジェシカの演奏を聴いたオーナーは、すっかり態度が変わりジェシカを歓迎した。

こうしてジェシカは当初の予定通りにレストランで演奏する仕事を始めることになった。



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