第八章
ジェシカは汽車の遅延があって到着するのが大幅に遅くなり、その国に降り立ったのは真夜中に近かった。
あらかじめオーナーであるジョージに到着時間を連絡していたが大幅な遅れの為、迎えに来ているはずの従業員は一旦引き返していた。
ジェシカは改めてジョージに連絡した。
ホテルの従業員が、すぐに向かうとのことだった。
しかし見ると、ホテルは駅から見える場所にあった。
たぶん5分とかからない距離だ。
歩いていこうか…でも、迎えが来てくれるのなら動かない方がいいわね。
「カーノジョ~!こんな夜遅く1人ぃ?俺達と遊ばなーい?」
ふいに背後から声がした。
振り返ると十七~十八歳くらいの男たちが3人、ヘラヘラしながらジェシカに近付いてきた。
「悪いけど遊ばないわ。今着いたばかりだし、これから迎えの人が来るの」
毅然として答えた。
「え~?俺達が送って行くよぉ♪いいじゃん付き合いなよぉ」
1人の少年がジェシカの背後に回って乱暴に肩を掴んだのと同時にジェシカは驚き悲鳴をあげて持っていたバッグで少年を叩いた。
少年は油断していた為、バッグの一撃で吹っ飛んだ。
「おいおいおいおい!」
少年達がいきり立った。
「ちょっとちょっとちょっとぉ~可愛い顔してぇ、それはないんじゃなーい?」
吹っ飛ばされた少年を含む3人はジェシカを囲んだ。
「痛ったかったなぁ彼女ぉ~、ヒドクね?俺ぇ肩掴んだだけなんだけどぉ」
「それは、ごめんなさい…でも…」ジェシカはバッグを両腕で抱きしめるようにして立ちすくんでいた。
「付き合いなさいよぉ御礼にイイコトしてあげるからさぁ!」
「お断りするわ。通して」
ジェシカは自分を囲んでいる少年達の間から無理に通ろうとしたが男の一人がジェシカの腕を掴んだ。
「放して!」
「放すワケないでしょお~せっかくなんだから付き合ってもらおうかぁ!可愛いねぇ~」
男がジェシカを抱き寄せて頬擦りしようと顔を近付け、ジェシカは再びバッグを振り回したがロクに当たらなかった。
「おい、俺の車持ってこいよ!」
一番年長らしい男がジェシカの腕を掴んだまま、片方の手で他の少年にキーを投げて渡した。
「ドライブしようぜぇへへへっ」
「嫌!放して!」
男の手を振りほどこうとしてジェシカは掴まれた腕を引っ張って暴れたが男の力が強くて逃げられなかった。
「やめて!」
やっと声を振り絞って抵抗するも男は手を離さなかった。
少年の1人が車を運転してきた。
「はいはーい!一名様ご案内~♪」
バッグで吹っ飛ばされた少年が車のドアを開けた。
ジェシカの腕を掴んだ男が車の中に連れ込もうとした瞬間、男は背後から思い切り背中を蹴飛ばされた。
衝撃で男はジェシカの腕を掴んでいた手を放して膝をつき、ジェシカは地面に倒れた。
「なんだよ、お前!」
蹴飛ばされた男に駆け寄った少年達が蹴っ飛ばした相手に向かって言った。
蹴飛ばしたのはジェシカに絡んできた少年達と同い年くらいの少年だった。
長く伸ばしたまっすぐな髪は黒に近いダークグレーのような髪色をしていて、夜中の街を照らす街灯の光を浴びて暗い色なのに優しい輝きを放っている。
「だって、その子めちゃめちゃ嫌がっているじゃん。そういうの一番良くないでしょ~」
現れた少年が口を開いた。
「はぁっ?お前に関係ねーだろーが!」
「関係ある!」
「何言ってんだコイツ」
「どう関係あるっつーんだよ?」
少年二人がオラオラと詰め寄る。
「あの子、俺の彼女だもん。ここは大人しく引き下ってくれない?」
「おい、構わねーから女とソイツを車に乗せろ!」
蹴飛ばされた男が二人に命令した。
少年達が現れた少年に飛びかかったが少年は身軽に二人をかわして背後に回り二人の頭を掴み、
「あんまり調子に乗るんじゃねぇよ!」と言いながら頭同士をガツンとぶつけさせ軽く背中を蹴った。
少年達は地面にへたり込み、男は、それを見ると車に乗り込み逃げて行った。
頭をぶつけられた少年達も、ヨロヨロしながら立ち去ろうとした
「それで逃げちゃうの都合良過ぎじゃね?喉元過ぎたら、また悪いことするだろ」と、逃げようとする二人のジャケットで上手く縛りつけ、少年は携帯を取り出し警察に通報した。
「大丈夫?怖かったよね」
少年は地面に座り込んだジェシカに手を差しのべた。
「俺の彼女なんて勝手に言ってゴメン。でも大抵は、そう言えば引き下がるから言ってみたんだけど、アイツら、ちょっとしつこかったね」
ジェシカに手を貸して立たせるとハンカチを渡した。
「…あ、ありがとう…」ジェシカは震えながらも、やっと口を開いて少年にお礼を言ったがほとんど涙声になっていた。
別の車が近くに止まった。
「お嬢様!」
制服を着たホテルの従業員が車から降りてジェシカに声をかけてきた。
「遅くなって申し訳ございません!」
二人の従業員が足早に駆け寄ってきた。
「いいえ、私の到着が遅くなってしまったんですから」
「どうなさいました?こちらの方は?」従業員がジェシカの傍に立っている少年を見てジェシカに訊いた。
「あ、あの今、少し前に変な人達に絡まれていたのを助けて頂いたんです」
涙声で震えながらも、なんとか言った。
「そうでしたか、ありがとうございます。お怪我はございませんか?」従業員は少年に礼を言ってジェシカに声をかけた。
ジェシカは膝を少し擦りむいていた。
少年が立ち去ろうとしたところを従業員が声をかけて引き止めた。
「あの、失礼ですがお名前を伺ってもよろしいでしょうか?お嬢様を助けて頂いたことをオーナーに報告いたしますので」
従業員が少年に尋ねていたが少年は、従業員に何か二言三言伝え、かぶりをふって笑って去って行った。
「あの方の、お名前を伺えなかったですけど…何か酔っていらして。仕方ないですね。もうすぐ警官が来るらしいですから、この二人は引き渡しましょう…さあ、お嬢様、行きましょう」従業員に促されジェシカは服を軽くはたいて迎えにきた車に乗った。少年の姿は既に何処にも見当たらなかった。
ジェシカはホテルの部屋に着いてから暫くは力が抜けて長い間ソファに座っていた。
ジョージは商談で留守にしていた。
シャワーを浴びて着替えると、さっき助けてくれた少年から渡されたハンカチを広げて見た。
擦りむいた膝にと貸してくれたけど、汚してはいなかった。
淡いブルーのハンカチは綺麗にアイロンがかけられていたが、手書きでT.オルセンと書いてある。
アイロンがけされたハンカチに少し乱暴に書かれた文字がアンバランスだった。
T.オルセン…ハンカチをひっくり返して反対側を何気なく見てみると名前が書かれた反対側には携帯番号が書かれていた。
どうしてハンカチに携帯番号が書いてあるのかしら…でも、とても大切にしているハンカチなのかもしれない…返さなくては。
疑問に思うもジェシカはハンカチを丁寧に洗ってアイロンをかけた。
翌日、ジェシカは、その番号に電話をかけた。
会ってハンカチを返して助けてくれた御礼をキチンと言いたかった。夕べは半泣き状態でロクに礼を言っていなかったのだから。
「はい、もしもし」
電話に出た声は間違いなく昨夜ジェシカを助けた少年の声だった。
「もしもし、あの私、昨日助けて頂いた者です。ジェシカ・アンダーソンと言います。貸して頂いたハンカチをお返ししたくて、お電話しました」
沈黙。
「あの…もしもし?」
沈黙に不安を感じてジェシカは再び声をかけた。
「あ、はい。えっと…助けたって俺が?」
「はい、夕べ。あの…水色のハンカチにT.オルセンって書いてあって…あなたはオルセンさんじゃないですか?」
「水色のハンカチは俺のだと思う。さっきから探していたんだ。オルセンは俺の名字だし」
「夕べ、私を助けてくれましたよね?」
「…夕べ、って言われても俺、酒飲んでいたから酔っぱらっていて、あんまり、その…なんか、なんとなく覚えているような…」
らちが明かないのでジェシカはオルセンという少年に、とりあえず会ってもらう約束をした。
オルセンが夕べのことを覚えていなくてもジェシカは助けてもらったことを覚えているし、薄暗い街灯の下だったけど顔もちゃんと覚えている。
黒というより濃いダークグレーのような濃い髪色でバンドでもやっているのか腰くらいまで長くした髪だった。
歳はジェシカと同い年くらいだろうか。
整っていて優しい顔立ちは…何か見覚えがあるような気がしたが、それは思い出せなかった。
約束した時間にオルセンは、現れた。
洗いざらしのTシャツの上に革のジャケットを着てジーンズ、スニーカー姿で。
夕べ薄暗い所で見た時もファッション誌のモデルかと思うような顔立ちだと思ったが明るい所で見ると彼のルックスの良さは際立っている。
ブランド物の服を着て髪をきちんと整えたらファッションモデルとして通用するだろう。
現に、ありふれたTシャツとジーンズという出で立ちでも通りすぎる女達は彼の姿を見て振り返っている。
間違いなく、夕べ助けてくれた人物だった。
ジェシカがハンカチを持って駆け寄るのに気がついて、笑顔になり開口一番、
「さっき電話してくれた人?俺のハンカチ拾ってくれたんだよね、ありがとう!」
と、爽やかに言った。
優しい笑顔でジェシカを見つめている。
「★★★★★」
ジェシカは返す言葉に詰まった。
夕べ、助けてくれた御礼を言ってハンカチを返したいと伝えたのに…拾ったんじゃないのに。
覚えていたのは待ち合わせの時間と場所だけ?
「あのう…さっき、お話ししたことと、夕べのこと全然、覚えていないの?」
ジェシカは予想外のオルセンの反応に礼を言うより先に質問が出てしまった。
「う~ん…さっき、さっきは電話もらって約束したんだよね。ここに来るって。俺、起きたばかりだったから、ごめんね。最近やけ酒ばっかりしていて記憶がないことがあって…ヤバいよね」
オルセンは笑って空を見上げてから真顔になるとジェシカを真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「…夕べ飲んだ酒、抜けてなくてまだ少し残っている感じかな」
ジェシカはため息をつくとオルセンの手をとり、ハンカチを、そっと渡した。
「ハンカチ、どうもありがとう。余計なお世話かもしれないけど、そんなに記憶がなくなるほどお酒を飲むのは止めた方がいいんじゃないかしら…」
(この人…さっき私が電話して会う約束した時も酔っぱらっていたってこと?)
「うん。そうだね。ところで俺、もしかして夕べ酔った勢いで君に悪いことしちゃった?」
彼は不安げな様子でジェシカを見つめた。
ジェシカは、この質問に軽く眩暈を覚えた。何か噛み合わない。
(この人、本当に本っ当に覚えていないんだわ…ちょっとショック…)
ジェシカは深々と息を吸い込んでからマシンガンのように言葉を発した。
「何も、なぁんにも悪いことしてないわ!悪いことどころか私は変な人達に絡まれて凄く危なかったところをあなたに助けてもらったの。膝を擦りむいたからって、このハンカチを貸してくれたのよ。私はあなたに会って改めてキチンと御礼を言ってハンカチを返したかったの…夕べは本当に凄く…こ、怖かったところを助けてもらったんだから。絶対に御礼を言いたくて」そこまで一気に言うと涙が溢れ出てきた。
柄の悪い男たちに絡まれて怖かった思いがよみがえってきた。
ここまで言うと息をついたが、すぐに涙声のままで言葉を続けた。少年は真顔でジェシカの話を聞いていた。
「ちなみに…今も酔っぱらっているの?オルセンさん?」
「夕べの酒は少し残っているけど酔っぱらってないよ。トニーで、いいよ。良かった。その…俺が酒の勢いで見ず知らずの君に悪いことしてなかったなら、安心した。…泣かないで」
優しく言うと綺麗な歯並びで人懐っこい笑顔を見せながら手渡された自分のハンカチでジェシカの涙を、そっと拭いた。
「嫌な思いをさせられていたら、こうして連絡したりなんてしないわ。酔っぱらってないなら良かったわ。夕べは危ないところを助けて頂いて本当に、ありがとうございました。凄く…怖かったのよ。本当に、ありがとう」
ジェシカは御礼を言った。
トニーは、身じろぎしハンカチを弄びながら今一つ解せない様子で口を開いた。
「あの、1つ訊いてもいいかな?」
「はい?」
「ハンカチを返してくれるにあたって、俺の電話番号、どうして判ったの?」
まさかの質問にジェシカは言葉に詰まってトニーの手からそっとハンカチを取ると開いて見せた。
トニーの顔が赤くなった。
「何これ?俺、その場で速攻でハンカチに電話番号を書いて君に渡したの?後で返してくれって?」
ジェシカは笑いがこみ上げてきて悶絶しながらかぶりを振った。
「か、書いてあっ、あったの」
(この人、やっぱり本当に覚えていないんだわ…)なんとか絞り出すように言ったものの、こみ上げてきた笑いは止まらなかった。
「なんだよ、それっ!」
トニーも笑いだした。
二人は長い間笑い続けた。
笑いが治まって一呼吸おいて、お互いに目を合わせると二人は、また笑い始めた。
「お、お腹痛い…」
「俺も腹いてー…たぶん酔った時に何かの勢いで書いたんだと思うけど、参ったな」
なんとか息を整えてトニーはジェシカに向き直ると
「だけど理由はどうあれ俺が自分のハンカチに電話番号を書いていたお陰で君と知り合えた。その~突然だけど食事とか、お茶に誘ってもいいかな?」
ジェシカは頷き、一呼吸おくと答えた。
「私で良かったら喜んで…でも、いつがいいかしら明日はアパートに行って色々と今後の用意をするから1日中忙しいと思うから他の日で良ければ」
「じゃあ、今夜は?このまま出掛けてもいいし、どうかな?」
と、トニー。
「私、夕べ、この国に着いたばかりなの。でも今夜は宿泊しているホテルのロビーでピアノの演奏をさせてもらうことになっているの…だから今夜だと…」ジェシカは考え考え答えた。
「ピアノ弾くんだ。凄いね。それなら俺も、聴きに行ってもいい?チケットとかあるの?何処で買えるの?」と、トニー。
「ホテルのロビーでの演奏だから、無料なの」
「何処のホテルなの?」
「実は、すぐそこなの…見えるでしょう…あのホテルなの」
ジェシカはホテルの場所を指差し時間を伝えてトニーと別れた。
社交辞令かもしれないけど、もしも本当に来てくれたらジェシカはジョージにもトニーを紹介したかった。
夕べは本当に怖い思いをしたのだから。
通りがかりとはいえ助けてくれたのだから。
トニーが現れて助けてくれなかったら…私は今頃…ゾッとする…。
トニーの方は、と言えば楽しい気持ちになってきていた。
自分が、たぶん酔っぱらった勢いでハンカチに名前と携帯番号を書いたことがキッカケではあるが女の子と楽しく話したのは初めてかもしれない。
しかも、可愛い子だ。
アイドル時代は過密過ぎるスケジュールに神経を磨り減らし忙しさの合間に同じようなアイドルグループの女の子と内密に会ってはベッドを共にすることがストレス解消になっていた。楽しい会話なんてした覚えはなかった。
虚しいアイドル時代から解放されたトニーは今、バンドがなかなか決まらなくて、やけ酒しているけどアイドルの時よりは毎日は穏やかで、ゆっくりした時間を過ごすことで充実していた。
早くバンドに入りたい思いはあったけれど。
今夜は、やけ酒なんかしないで彼女が弾くピアノを聴いて、まったり過ごそう。
ジェシカもエドワードが亡くなってから気持ちが沈んでいたところに着いたばかりの外国で怖い目に遭ったもののハンカチに名前と携帯番号を書いたトニーと笑い合ったことで少し気持ちが明るくなっていた。
通っていた学校では授業は厳しくても楽しかったが、あんなことが起きて様子見の為に休学する羽目になったし、いつ戻れるのか…戻れないかもしれない。戻ることが出来ないと解ったら…その時、私は、どうすればいいのだろう…。
先のことは、どうなるか解らないけれど。そうした思いはエドワードが亡くなってからジェシカの心の中で燻っていた。
夕方、トニーは花屋に寄るとジェシカにプレゼントしようと白と水色でアレンジされた小さくて可愛い花束を買った。
ハンカチに自分の名前と携帯番号が書いてあったからとはいえ、返しに来てくれた気持ちが嬉しかった。
残念なのは酔っぱらっていた為に、彼女を助けたということを、なんとなく…覚えていることだけだった。
トニーがホテルに到着するとロビーには、既にかなりの人数が集まっていた。
あらかじめ用意されていた座席は既に満席だったのでトニーは離れたところにあるソファに腰掛けた。
「オーナーの娘さんが演奏するらしい」とか、
「素晴らしい才能の持ち主」とか、
座席に座っている観客の話し声が聞こえてきた。
(そうか、あの子はこのホテルのオーナーの娘さんなんだ)トニーは聞こえてくる会話をボンヤリ聞いていた。
不意に拍手が起こり、ジェシカがステージに上品な水色のドレス姿で現れた。
―さっき買った、この花束が偶然にも彼女のドレスにピッタリだ。
トニーは思った。
ジェシカの演奏が始まるとロビーを足早に歩いている人達の足が止まり演奏者に注目した。
ホテルの従業員達ですら、自分たちの仕事をしながらも聴き入った。
途中、ヴァイオリン奏者も加わった。
予定されていたであろう曲目を弾き終わる頃には用意した席に座れなかった人が立ち見になりホテルのロビーとは思えないほど満員になってしまっていた。
拍手喝采の嵐。
ジェシカが頬を染め観客にお辞儀をした。
アンコールの拍手が鳴り止まない中を従業員が大変な混雑ですから、と演奏会の終了をアナウンスした。
トニーは、ホテルのロビーの人混みが捌けて落ち着いた頃にヴァイオリニストと楽しそうに話をするジェシカを見つけた。
花束を渡して帰るつもりでいた。
トニーが歩きだすと話していたヴァイオリニストは話し終わったらしく立ち去り、ジェシカはカーディガンを羽織ろうとした時に歩いてくるトニーに気付くと笑顔を見せて駆けよった。
「こんばんは。本当に来てくれたのね、ありがとう」
「こんばんは。こちらこそ素晴らしい演奏を聴かせてもらったよ。ありがとう。これ、受け取ってくれる?」
トニーが小さな花束を差し出すとジェシカは顔をほころばせた。
「私に?うわぁ嬉しい!お花もらうなんて初めてよ。ありがとう!あ!ジョージおじ様!」
ジェシカはロビーに現れた紳士に駆けよると早口で夕べの出来事を話しトニーのところに手を引っ張って連れてきた。
ジョージは既に夕べのことは従業員から聞いてはいた。
「夕べはジェシカが危なかったところを助けて頂いたそうで、私からも御礼を言います。本当に、ありがとうございます。トニーくん、今夜は、この後の予定はありますか?」
「いえ、特にないです」
ジョージは丁寧に礼を言ってトニーと握手するとジェシカとトニーに向かって言った。
「シェフに話しておくからホテルのレストランで一緒に食事をしてきては、どうかな。二人とも。なんでも好きな物を注文しなさい」
「わぁ!嬉しい。ありがとう、おじ様。私、着替えてくるわ、トニー、少し待っていてね」ジェシカは、そう言うと小さな花束を大事そうに両手で持つと軽やかな足どりで着替えに行った。
ジョージは仕事があるからと、その場を去った。
ジェシカは十分ほど経ってからシンプルな濃紺のワンピースに着替えてきた。
レストランに入り案内され二人はテーブルについた。
「さっきのあの人は、君のお父さんじゃないの?」
トニーが尋ねた。
ジェシカは静かにかぶりを振った。
「子供の頃から、とってもお世話になっている方なの。…私は、その…色々あって複雑なの」ジェシカは俯いて答えた。
「話したくなければ、無理には訊かないよ」
トニーが言いながら運ばれてきた水を飲んだ。
二人は蟹のトマトソースのパスタとデザートのセットに、たっぷりのグリーンサラダ、トニーはクランベリージュース、ジェシカはリンゴジュースを注文した。
「夕べ、この国に到着したって言っていたけど、何処から来たの?」
ジェシカはトニーと同じ国から来ていた。
それを聞いたトニーは一瞬、自分のアイドル時代を知っているのかと恐る恐るジェシカの表情を見たが、知っているような感じではないように見えた。彼女、深窓育ちのお嬢様なのかな…俺のこと知らないっぽい…良かった。
出来たらアイドルであったことは知られたくなかった。
「同じ国の出身なのね。あなたは、いつ、この国に来たの?」
この様子は絶対に知らない…トニーは更に安心した。
「俺は1ヶ月くらい前かな…」
ジェシカは、なんとなくトニーが、それ以上は訊いて欲しくなさそうに見えたので、それに関しては訊かないことにした。
「どうして、この国に来たのかは訊いてもいい?」
ジェシカはトニーに尋ねた。
「俺は…自分の環境を変えたいのと、ロックバンドのヴォーカリストになりたくて。現在いろんなバンドのオーディションを受けまくっているんだ。俺も同じこと訊いてもいい?」
「…私も…だいたい同じ…かしら…環境を変えるっていうところだけど」
今度はトニーが、なんとなくジェシカは、それ以上は訊いて欲しくなさそうに見えたので、それに関しては訊かないことにした。
料理が運ばれてきた。
「早くバンドが決まりますように」
ジェシカがリンゴジュースが入ったグラスを持ち上げた。
「ありがとう」
トニーもクランベリージュースが入ったグラスを持ち上げて二人は乾杯した。
デザートが運ばれてきた。
ピアニスト志望のジェシカとロックバンドのヴォーカリスト志望で目指す方向は違っていても同郷の出身であるであった二人は、とりとめもなく色々と話をした。
何故か話題が尽きなかった。
「それならバンドが決まったら是非、お祝いしたいわ」
ジェシカが言った。
「ありがとう。でも、オーディション落ち続けていて、バンドなかなか決まらないんだ。だからやけ酒しちゃって」
「そうだったのね。きっと決まるわ」
「う──ん…だと、いいけど…そうだな、決まったら、また一緒に食事してくれる?」
「私で良かったら是非!」
食事が終わって、トニーは自分の分を払うと言ってきかなかったので、ジョージが出てきて、ささやかながらジェシカを助けて頂いた御礼だからと言って聞かせた。
「その、正直に言って、俺、夕べのことを、あまり覚えていないんです、恥ずかしながら酔っぱらっていましたし。だから…」
納得しないトニーにジョージは、ジェシカを助けてもらったのは事実だからと最終的に財布を仕舞わせた。
「解りました…じゃあ、ご馳走になります。ありがとうございました」
帰っていくトニーをジョージはジェシカと一緒に見送った。
ジョージは大きくため息をつくと話し始めた。
「なかなか面白い青年だね。助けたのを酔って覚えていないとは。ところでジェシカ、ロビーコンサートは大成功だったね。明日はアパートに行って色々揃えるけど、落ち着いたら、またロビーで演奏するかい?今度は整理券を配って入場を規制しようね。今夜は、ゆっくりおやすみ」
「はい、おじ様。また是非。今日はご馳走様でした。おやすみなさい」
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