第七章
馬車が白い森の前にある屋敷の前で止まるのとほぼ同時にジェシカは馬車から飛び降りた。
冬休みになって帰省したのだった。
「ただいま!」
サラが出迎えた。
「あらまぁお嬢様、おかえりなさいまし」
ジェシカはサラを抱きしめた。
「ただいま、サラ。ねぇお願い。サラが焼いたアップルパイが凄く食べたかったの。学校の寮から支度しながら汽車に乗って馬車の中でも、ずっと思っていたの。もちろんお手伝いするわ、お願い!」
サラは優しくジェシカを抱きしめ返した。
「まぁまぁなんて光栄な。もちろん喜んで作りますよ」
「ありがとう!エドワードは?」
「ピアノのお部屋にいらっしゃると思いますよ」
ジェシカはバタバタと屋敷の中を走ってエドワードを探した。
ピアノの部屋には居なかったが、エドワードは2階の書斎から出てきたところをジェシカとぶつかりかけた。
「エドワード!ただいま!」
はしゃいだ仔犬のようにエドワードの腕に飛び込んだ。
「ジェシカ、おかえり。古い家だから、あまりバタバタ走り回らないようにね」
エドワードは仔犬の頭を撫でるようにジェシカの髪を撫でた。
「ごめんなさい」
「学校は、どうだった?よく手紙を書いてくれたけど」
ジェシカは息急ききって学校の様子を伝えた。
手紙で知らせたことも重複しながら。
エドワードは微笑み、ジェシカの頭を撫でながら言った。
「なかなか強豪なライバルも多いみたいだね。一休みしよう長旅で疲れただろう?」
「帰ってこれるのが嬉しくて、あまり疲れていないの。あ…私、サラにアップルパイお願いしたの。作るのを手伝うって約束したから」
ジェシカは再び仔犬が飛び跳ねるような勢いで階段をかけ降りていった。
「そろそろお嬢様が帰っていらっしゃる頃だろうと思って、パイの生地は先ほど仕込んでおいたんですよ。リンゴの準備は夕べ仕込んでありますし」
「嬉しい。帰ってきたら絶対に一番最初に食べたかったの♪」
焼きたてのアップルパイと紅茶を囲んでジェシカとエドワードは穏やかな午後を過ごした。
「みんな、とても上手なのよ。エドワードの言うとおりに学校に行って良かったと思うわ。負けられない!って凄く思うもの」
ジェシカは学校で仲良くしているクラスメイトの話や習っている担当の先生の話をした。
「エドワード、ピアノを弾いてもいい?」
「もちろんだよ。後でぜひ聴きたいし」
「わ!練習しなくちゃ」
ジェシカはティカップを下げて部屋を出た。
エドワードは書斎に戻って本を読んだ。
ジェシカは母親から虐待され、父親とも無惨な別れ方をしたけど素直な良い子に育っていた。
学校でも並みいる強豪なライバル達と切磋琢磨してピアノの腕も成長していくだろう。
エドワードはジェシカの成長が楽しみだった。
ジェシカはピアノの部屋に入って弾き始めた。エドワードの家には3台のグランドピアノがあって、ジェシカは小さな頃から、この部屋に置いてある白いピアノを弾いていた。
3台のうち1台のピアノがある部屋はピアノが壊れているとかで部屋自体、入れなかった。
それはレイモンドが錯乱して自分の手を鍵盤に叩きつけた為に血まみれで壊れたままだった。エドワードは自分にとっても忌まわしい思い出で部屋に入ることも辛くピアノを処分することも出来ないでいた。
ジェシカの手は軽やかにピアノの鍵盤を舞うようにピアノを弾いていた。
エドワードに習った曲、学校で習った曲、テストで勉強した曲。
それは突然、ピアノを弾くジェシカの背後に現れた。
包帯で巻かれたグローブのような、それが人の手だと理解するのに後ろを振り向くまでジェシカは判らなかった。
包帯だらけの手は演奏中の鍵盤の上にバアーン!と乱暴に置かれ、ジェシカの演奏を中断させた。
ジェシカは声も出ないほど驚いて、ゆっくりと振り返った。
背後に立っているのは髪が真っ白く、顔は痩せこけ、眼球は頭蓋骨にやっと収まっているかのようで、少しでも動いたらこぼれ落ちそうだった。
まるで骸骨のような容貌の人物は、かつて白い森に住んでいた吸血鬼の一族の娘に音楽の才能を全て吸いとられた、エドワードの双子の兄、レイモンドだった。
ジェシカは、屋敷の離れに住んでいるエドワードの双子の兄の話は聞いてはいたが離れには近寄らないように言われていたので、今、初めて会ったのだった。
もっとも、レイモンドだとは思いもしなかった。
だが、演奏を乱暴な形で遮られ、どうして生きているのか理解に苦しむような容貌の男の登場に心底驚き、ヨロヨロと立ち上がりピアノから離れた。
「私…の……くれ…」
骸骨のような顔が唇を殆ど開かずに言葉を発した。
「え…なんですか?」
怯えたジェシカは聞き取れずに、やっと声を出せた。
なんて言ったの?
一方、エドワードは書斎にいて微かに聞こえてきたジェシカが弾くピアノが変に中断したのが気になってピアノの部屋に向かった。
目の前の骸骨のような男は再び言葉を発した。
「私の…だ!」
眼球だけの目をジェシカに向けて。
ジェシカは何が何やらワケが解らなかった。
私の?何?
よく聞こえないわ…。
もしかして、このピアノ?
この人の物なの?
「このピアノですか?勝手に弾いて、ごめんなさい…」
ジェシカは目の前の骸骨のような風貌の男の突然の登場に怯え震えながらも、なんとか言葉を発した。
しかし、男の両手は包帯で覆われていてグローブのようでピアノを弾けるような手ではない。
男は…レイモンドは、涙を流した。
「アーリット、もう…もう返してくれ…私の才能なんだ…」
ハッキリと聞こえた。
しかしジェシカにはさっぱり理解出来ず困惑していた。
「あの、私は…」
言いかけた、その瞬間、レイモンドはヨロヨロとジェシカに近寄ってきた。
ジェシカを指のないグローブのような手で押し倒したが、レイモンドには、それ以上発する力はなく、押し倒したジェシカの上に崩れるように倒れた。
ジェシカは、それでも身の危険を感じレイモンドを押し戻すようにして逃れようと押し退けた。
だが、レイモンドは逃げようとするジェシカを背後から再び押し倒すと首筋に歯をたてて血をすすり、ゴクリゴクリと飲み続けた。
ジェシカは恐怖心で声もあげられず、血を飲まれているおぞましい感覚から逃れようとしたが恐怖で体に力が入らず気が遠くなっていった。
エドワードが部屋に駆けつけると、レイモンドは、ゆっくりとジェシカから離れ、立ち上がりピアノに向かうところだった。
そして包帯だらけの手を鍵盤に置いて音を立てレイモンドはこと切れた。
目から涙を流して。
レイモンドは十五歳の時に白い森に住む吸血鬼の一族の娘に才能を吸いとられ生きた狂気から死をもって解放された。
「サラ!サラ!来てくれ!」
エドワードは倒れていたジェシカを抱き起こすとサラを呼んだ。
「頸動脈を傷つけられた感じではないけど医者を呼んでくれ」
エドワードはサラにジェシカを任せるとピアノの鍵盤に頭を載せ涙を流して死んでいる兄レイモンドを抱き起こした。
寝たきりだったのに…ジェシカが弾くピアノの音に引き寄せられ、アーリットに才能を吸いとられたことを思い出しジェシカを襲ったのだろう…。
エドワードはレイモンドが住んでいた離れに遺体を運んだ。
ジェシカが目を覚ました。
サラがついていたので、パニックを起こして泣き叫ぶジェシカを抱きしめた。
「大丈夫ですよ、お嬢様。もう、もう居ませんからね」
怯えて泣きじゃくるジェシカの髪を背中を撫でた。
エドワードはレイモンドの葬儀の手配を済ますとジェシカの様子を見に行った。
サラが付きっきりでいてくれた。
「サラ、申し訳ないね。まさか、レイモンドが歩いていくとは…」
「レイモンド様…お気の毒に…」サラは呟きながら眠っているジェシカの髪を優しく撫でた。
「あの、エドワード様、今夜はお嬢様に付いていて差し上げたいのですが。可哀想に怯えきっていて…」
エドワードは頷いた。
かつてはレイモンドが歩けば女性たちは必ず目を奪われ振り向いたのだが…
「頼むよ、サラ。僕も付いていよう」
医者が来てジェシカの首の傷を消毒して包帯を巻き、パニックを起こして泣き叫ぶので鎮静剤を射った。
2日、3日と経ちジェシカは次第に落ち着きを取り戻していった。
エドワードはジェシカに白い森の吸血鬼伝説と一族の娘に襲われたレイモンドの悲劇、自分達の母親も白い森の吸血鬼一族であったこと、自分に降りかかった事全てを話した。
「白い森の話は聞いたことあるわ。それが、この屋敷の前にある森だったのね…それじゃあ…私も、吸血鬼になってしまうの?」
話を聞き終わったジェシカは自分の首に巻かれた包帯に指先を滑らしながらエドワードに問いかけた。
「それはないと思うよ。ただ…僕も兄に血を吸われた結果…」
エドワードは十五歳から年齢を重ねたようには見えなくなっていた。
ジェシカは他の部屋にあるピアノを弾いてみたが才能を吸いとられてはいなかった。
レイモンドに襲われた恐怖がフラッシュバックして自分が襲われたピアノの部屋には近付くことが出来なかった。
「私も、エドワードみたいに?」
エドワードは、かぶりを振った。
「解らないんだ、どうなるのかは」
ジェシカ自身も、どうしたらいいのか解らなかった。
「私は、どうすればいいの?」
誰に問うでもなく呟くように言ったが、もちろん答えは誰にも解らない。
レイモンドの葬儀にはジョージも駆けつけてくれた。
エドワード、サラ、ジョージの3人でひっそりと送られた。
ジェシカはエドワードの兄だと解っていても襲われた恐怖からは立ち直れず葬儀には行かれなかった。
「ジョージ、来てくれて、ありがとう」
居間で紅茶を勧めながらエドワードが呟くように言った。
ジョージ自身も子供の頃に、この屋敷には何度も遊びに来て、レイモンドの素晴らしい演奏に聞き入ったのだった。
あの忌まわしい事件がなければ…ジョージもレイモンドの境遇に心を痛めていた。
ジョージは無言で頷き紅茶を飲んだ。
「ところで、さっきの話だが…ジェシカが?」
ティーカップを静かに置いたジョージが口を開いた。
エドワードは険しい表情で頷き、うつむいた。
「可哀想に物凄く怖がらせてしまった…僕は、まさかレイモンドが起きて歩くとは思っていなかった」
だが、起きてしまったことだ。
エドワードは顔を上げて立ち上がり机の引き出しから封筒を取り出してジョージに渡した。
「今回の帰省でジェシカに話そうと思っていたのだけど…もう少し落ち着いてからがいいかな。ジョージ、君には今、話しておくよ」
エドワードはジェシカを養女として迎え入れ、屋敷や財産を相続させる手続きをしようと考えていた。
「僕は以前、ジェシカには自分の娘だと思っていると話したことがある」
「うん、いいんじゃないか。ジェシカにとっても。彼女の父親は、もう…」ジェシカの母親は、この国で最も重い罪を犯し服役中で出てくることはない。
「ただ…ジェシカの身に今後…」
エドワードは言葉を詰まらせた。
レイモンドに血を吸われたことでエドワードのようになってしまうかもしれない。もしかしたら吸血鬼になってしまうかもしれない…
「様子を見る為に学校を休学させるのは、どうかな?もちろん、ジェシカがどう思うか、どうしたいのか…ではあるけど。未成年でも成績優秀な学生なら社会勉強として働けるシステムがあるから。ジェシカの成績なら、そして君と私が後ろ楯になれば容易いだろう」
ジョージが言った。
「…そうだな。ジェシカとも話し合ってみよう」
ジェシカは首に包帯を巻かれ青ざめた表情で現れた。
エドワードとジョージとの3人の話し合いは一晩中続いた。
話し合いの結果、学校には社会勉強として働く為に外国に申請して休学することを連絡して、そしてジョージの友人がオーナーで経営しているレストランでピアノを弾く仕事をしながら様子を見ようということになった。環境を変えた方がいいだろうと、エドワードとジョージの目が届かない学校に通い続けて、何か起こるよりはいいかもしれないと、ジョージの知り合いの店で働いていれば目が届き易いだろうという結論だった。
「外国暮らしは初めてで不安だろうけど、言語は同じだし、私がオーナーをしているホテルも同じ国内にあるから時々は会いに行くよ」
ジョージはジェシカが暮らしていけるように自身のパソコンでアパートの手配もした。
ジョージが力強くジェシカを励ました。
エドワードは養子縁組の話はしないでいた。
明け方まで話し合いをして、ジェシカは眠る為に部屋に戻っていった。
「ジョージ、頼みがある」
「なんだい?」
「僕の身に何かあったら、ジェシカを頼む。養子縁組の話や、この屋敷の相続のことも…あと、万が一を考えて遺言状も書いてあるんだ。弁護士にも渡してある。君にも今、コピーした物だけど渡しておくから」
エドワードはポケットから封筒を取り出しジョージに渡した。
ジョージは受け取った封筒でピシャリと軽くエドワードの肩を叩いた。
「一応は今、差し出されたから受け取っておくが。縁起でもないことを言うなよ。だいたい自分の娘の幸せを見届けなくちゃダメじゃないか」
エドワードは寂しげに微笑み頷いた。
しかし、エドワードは、この後、自分のベッドで眠るようにして、この世を去ってしまった。
「一週間の間に二人も送ることになるとは、な…」
エドワードの葬儀が終わってジョージは疲れた様子で深々と椅子に腰掛けた。
ジェシカはサラに付き添われて、なんとか立っていた。
「お嬢様、少しの間、私の家にいらっしゃいませんか?狭いですけど」
サラが一生懸命に気遣っていた。
外国に出発する予定をエドワードの急逝で延ばしていた。
「ありがとう、サラ。でも、なるべく早く出発したいの…」
ジェシカは涙ぐみながらも、しっかりと答えた。
クリスマスと新年を楽しく迎えるはずの冬休みが、こんな事になるなんて。
何事も起こらなければ、幸せな冬休みだったであろう。
雪が降り積もっている広い庭に立ち尽くしジェシカは一人堪えきれなくなって涙を流しながら呟いた。
「…私が、私が帰省しなければ良かったの?」
私が帰省しなければ、レイモンドは安らかに逝けたの?
エドワードは?もしかしたら、こんなことが起こらなかったら生きていてくれた?
しかし帰省する規則になっていたため帰ってくることは必然だった。
運命なんて、どうなるのか想像がつかない。
ジェシカは涙を拭いて屋敷の中に入って行った。
屋敷の管理はサラに任せ、将来的にジェシカが成人してから相続することになった。
それまではジョージに後見人になって欲しいということがエドワードの遺言状に書かれていた。
ジョージもエドワードのように、ジェシカを自分の娘のように思っていた。
「じゃあ、ジェシカ、私は一足先に行っているから。駅に着いたら連絡して。このホテルに泊って翌々日にはアパートに案内するからね。このホテルは私がオーナーだから何も心配しないで大丈夫だよ」
ジョージはジェシカにホテルの場所の地図と電話番号を書いたメモを渡した。
ジョージは、どうしても先に行って片付けておかねばならない仕事がある為に先に出発した。
エドワードは横たわるでもなく、立っているでもない不思議な感覚で暗闇の中に漂っていた。
僕は、いったい、どうしたんだろう?エドワードの脇を無数の光がスウッとすり抜ける。
遠くから微かに泣き声が聞こえてきた。
それはレイモンドの声だった。レイモンドは死んだはず。いや、そうか…僕も死んだのか…なんとなく解る。そしてここは…もしかしたら行き場が解らない魂がさ迷う所なのかもしれない。だからレイモンドの声が聞こえるのかもしれない。レイモンドが、さ迷い悲しんでいるのならば見つけなくては。
エドワードはレイモンドの姿を探し始めた。
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