第五章

ヴァイオリンの弓は本来の役目に使われずにヒュン!と空気を切り裂く音を立てて振り上げられると、勢いよく振り下ろされ6歳になったばかりの少女の背中に打ち付けられた。

少女は固く目を閉じてソファにしがみついて痛みに耐えていた。

弓は、何度も少女の背中に打ち付けられた。

少女を叩いているのは、その少女の母親だった。

「もう一度、言ってごらん、ジェシカ。おまえは、ママと同じ楽器を始めたいのよね?ピアノなんかじゃないわよね?」

ジェシカと呼ばれた少女はソファにしがみついたまま大きく首を振った。

ふんわりとした柔らかいウェーブの金色の髪がふわふわとジェシカの頭の動きよりも遅れて動いた。

その態度を見た母親は更にカッとなり、また弓でジェシカの背中を打ちのめした。

「おまえは、私を捨てようとした男と同じ楽器を目指すというの?」

弓で何回も執拗に叩かれた背中は服と共に裂けて彼女の服に血が滲んできた。

ジェシカの父親は少し前に、この母親に離婚を申し入れ、逆上した母親に頭を割られていた。

「どう、して…?」

激痛に耐えながら母親にジェシカは訊いた。

「どうして?…ピアノ弾いちゃダメなの?」

痛みで意識が朦朧としながら、それだけ言うと母親の答えを待たずにジェシカは気絶した。

ジェシカの母親、ローラはヒステリックに叫ぶと気絶した娘に水をかけた。

ローラは素晴らしいヴァイオリニストだったが家庭にも母親にも向いてなく、家庭も娘を育てることすら疎かにすることが多かった為、意を決したピアニストの父親は離婚を申し入れたのだった。

ローラにしてみれば突然の申し入れで離婚は受け入れ難く、気持ちの整理がつかないところに娘がピアノを練習したいと言い出した為、自分から去ろうとしている夫と同じ楽器を始めたいという娘に嫉妬と怒りを向けたのだった。

気持ちが荒れているローラは、まだ気絶している娘の髪を掴み、更に暴力を加えようとした。

ドアチャイムが鳴り響いた。

ローラは玄関を開けた。

髪を振り乱し、呼吸も荒々しいローラに出迎えられて来客は一瞬怯んだが、すぐに挨拶して用件を伝えた。

ローラの夫を迎えに来たビジネスパートナーでフルート奏者の華奢な女性だった。

「…あの、ご主人、ジェイムズは御在宅ですか?仕事の打ち合わせを約束していたんですけど…もし自分が来るのが遅ければ迎えに来て欲しいと言われていまして…」言いかけた女性にローラは無言で平手打ちした。

大きな誤解だったがローラは冷静でなかった。

「何するんですか!」

「あの人なら書斎にいるハズよ。あんたが離婚の原因ね!訴えてやるから!この泥棒猫!」

「何言っているんですか?私にも夫がいますから大きな誤解です!」

華奢なフルート奏者の女性は、やり返さず、そう言い捨てると書斎に向かった。

ローラに頭を割られたジェイムズは病院で死亡が確認され、ローラは逮捕されジェシカは保護された。

病院で背中の手当てを受けたジェシカは涙を流すこともしないでズキズキする痛みに耐えていた。

誰かを待つ、というわけでもないがジェシカは治療を受け終え病院の通路にあるベンチに腰かけて何を考えるということもなく床を見つめていた。

「ジェシカ、だね?」

男性はジェシカに、そっと声をかけた。

母親に打たれた背中の痛みに目を少し潤ませながらジェシカは声をかけてきた男性に顔を向けた。

髪をきちんと整え、グレーのスーツを着こなした三十代くらいの男性だった。

「はじめまして。僕はジョージ・ノースケッティア。その背中の治療をするために、何回か病院に通わないといけないのだけど…その後はね、ジェシカが習いたい音楽の先生に紹介するのが僕の仕事でね」

「習いたい楽器を習っても、いいの?」

ジェシカは青い綺麗な瞳を驚きで大きく見開きジョージに向けた。

「もちろんだよ。背中の傷が良くなってからだけど。ジェシカは何を習いたい?」

「ピアノ!…でも習いたいって、ピアニストになりたいってパパに言って、パパとお話してたら、ママに物凄く怒られて背中ぶたれたの。パパは…パパは?さっき、あたしの前で倒れちゃったの。パパは何処にいるの?」

美しい青い目から涙が溢れる。

ジョージはかぶりを振って泣きだしたジェシカの前にしゃがみ、綺麗にアイロンがけしたハンカチを渡すと話し始めた。

「そうか…ママは、とても辛いことがあったからジェシカにあたってしまったんだね。大人でもね、どうしても耐えられないほど辛いことがあると自分よりも弱い者にあたってしまう弱い人間が時々いるんだ。あまり良いこととは言えないけど…完璧な人間なんて何処にもいないからね。ママは、とっても辛いことがあったんだと思うよ。パパはね…ちょっと遠い所に行ったんだ…」

ジェシカは静かにジョージの話を聞いていた。

ジョージはジェシカを一時的に引き取って暮らせる施設に預ける為に電話したが、どの施設も満員でジェシカを引き取る余裕がなかった。

「参ったな…どれだけ、そんな困ってる子供が多いんだ」

受話器を置き深くため息をつくジョージに若い看護師が声をかけて来た。

「お困りですか?ノースケッティアさん」

看護師は明るい茶色の髪を三つ編みに束ねた小柄な女性だった。

ジョージは時々子供を保護して虐待されて怪我した子供は、この病院に連れて来ていた為、看護師とも顔見知りになっていた。

「うーん…あの子を引き取る施設が、ね」

「厳しく罰せられるというのに…虐待は後を絶ちませんね…あの子の背中、ひどい怪我で…」看護師が涙ぐんだ。

「まったくだ」

「あの、ノースケッティアさん、差し出がましいかもしれませんけど…小児科の病室に、かなり空きがありますし、あの子の怪我の状態から見ても一週間くらい入院した方がいいかもしれませんわ。もちろん医師に確認しますけど…施設が見つからないという事情も事情ですし」

ジョージは、施設に空きがないことで、この病院の顔見知りの医師に頼もうかと思っていたところだった。

「察しがいいね。シュタイン医師に訊いてみてもらえると助かるのだが」

「心得てますわ。少々お待ちください」

看護師は軽快な足どりで確認しに行った。

三十分後、ジェシカは医師の再度の診断で2週間ほど入院することに決まった。

ジェシカの背中の腫れは様々な傷を見慣れた医師ですら顔をしかめるほどだった。

「じゃあ、ジェシカ、傷が良くなって退院できる頃に迎えに来るからね」

ジョージはジェシカの頭を撫でて言った。

ジェシカは頷いた。

医師にジェシカの入院を確認した看護師は、かなり親身にジェシカの世話をした。

「こんなに腫れていたら仰向けには寝られないわね。横向きかうつ伏せに、眠れる?」

背中の腫れが酷すぎる為に入浴が難しいので蒸らしたタオルで、そっと身体を拭いたり何かとジェシカに声をかけて心配りした。

「看護師さん、名前、教えてくれる?」

入院3日目にジェシカは看護師に声をかけた。

看護師はリンゴを手に病室に入ってきたところだった。

ジェシカの問いかけに微笑むとリンゴをテーブルに置きながら答えた。

「スージーよ。覚えてくれたら嬉しいわ。ジェシカ、リンゴは好き?」

「うーん、たぶん好き。あまり食べたことないの」

「そうなの?これはね私の実家のリンゴ農園から送ってきてくれたの毎回凄い量だから食べきれなくて皆に配っているのよ。さぁ、背中に薬を塗りましょうね」

ジェシカの背中に手際よく薬を塗った看護師は後でリンゴを剥きに来るからと言って他の患者の世話をしに行った。

背中の腫れと傷は、かなり酷かったのでジェシカは3週間後に、やっと退院が決まった。

退院の日にスージーは手作りのアップルパイをジェシカに持たせた。

「元気でね」

優しく抱きしめるスージーにジェシカは抱擁を返した。

「スージー、ありがとう」

スージーはジェシカの髪を撫でると迎えにきたジョージに挨拶してジェシカを引き渡すと快活な足どりで病院の中に入って行った。

ジェシカは、その後2年間、施設で暮らしながらピアノを学んだ。

2年後、ジョージが再びジェシカを迎えにきた。

「ジェシカ、この施設は卒業だよ。これから、ちょっと遠いところに行って、また別の先生に習うんだよ」

ジョージはジェシカを連れて、列車を乗り継ぎ、駅から馬車に乗って、親友のエドワードの住む館に到着した。

「エドワード、新しい生徒を連れてきたよ」

エドワードは十五歳の頃とほとんど変わらない外見でユラリと現れた。

「ジョージ、せっかくだけど僕は生徒に教えるのを辞めたんだ」

「イヤ、エドワード、それは出来ないんだ。この子に関しては」

「どういうことだい?」

「とりあえず、長旅だったから休ませてやってくれないか。この子も僕もクタクタでね話は、それからで」

エドワードは通いのメイドのサラにジェシカを任せるとジョージを居間に通し自らコーヒーを淹れて運んだ。

「で、どういうことだい?」

コーヒーを勧めてエドワードは椅子に腰かけた。

「あの子にピアノを教えてやって欲しいんだ」

「だから、それは、どういうわけで?僕は去年で教えるのを辞めたんだ。子供たちが通うにも、ここは僻地で不便過ぎる。かといって僕が都会に出てピアノ教室を開くのも億劫でね」

「あの子が持つ才能が素晴らしくてね。引き受けてくれたら国から援助もある。そしてね、エドワード。何よりも国からの御指名だ。是非とも君にジェシカの先生になって欲しい、とね。名誉あることだと思うよ」

ジョージは封筒を取り出すとエドワードに渡した。

エドワードは封筒を開けて手紙を読んだ。

「ここに住まわせて教えてやって欲しい。それから、全寮制の音楽学校に入学させるという段取りだ」

エドワードは深々とため息をついた。

「そんなに気が進まないかい?もちろん、強制ではないけど…君を一流のピアニストを育てる教師として国が認めたんだよ」

「ここは、あんなに小さな女の子が住むような環境に向いていないと思うんだよ…。それに…レイモンドも離れで暮らしているし」

「お兄さんは相変わらずか?」

「ああ…寝たきりだ」

エドワードはコーヒーを飲み干した。

サラが嬉しそうな表情でケーキを持って運んできた。

「坊っちゃま、あの女の子これから、こちらで暮らすんですか?私は自分の子供が男の子しかいないから、なんだか娘が出来たようで♪」

サラは現在は通いのメイドだが、エドワード達が子供の頃に住み込みのメイドの娘で小さな頃から働いていたのでエドワードの幼なじみのようなものだった。

レイモンドとエドワードの事情も理解していた。

「エドワード、そうしたら本決まりにはしないで、とりあえず住まわせて教えてやってみてもらえないか?サラは、あの子の世話をしたそうだし」

ジョージはサラにウィンクして見せた。

サラは微笑むと居間から出て行った。

「…解った」

エドワードはコーヒーを注ぎながら答えた。

「サラに、あの子の部屋を用意させよう。ジョージ、泊まっていくだろう?客間を用意するから」

エドワードは立ち上がった。

「それから、あの子にピアノを弾くのを、まず聴かせてもらおうか」

ジェシカはサラから紅茶とクリームたっぷりのケーキとオレンジジャムが載ったクッキーを勧められて頬張っていた。

サラは、ニコニコしてジェシカの様子を眺めていた。

エドワードが入ってくると、ジェシカに声をかけた。

「食べ終わったら、ピアノを聴かせてもらえるかな?急がなくていいよ。ゆっくり食べて」

ジェシカはクッキーを頬張っていたので首だけ大きく縦に振った。

1時間後、ジェシカの演奏を聴いたエドワードは彼女の教師になることを決めた。

数年後、ジェシカはピアノの腕をめきめき上達させコンクールで金賞を受賞した。

そして、初めてエドワードに会った頃から全く歳をとったように見えない不思議なエドワードに惹かれつつあった。


「どうしても、行かなくちゃダメなの?」

ジェシカは半泣きになっていた。

エドワードの元を離れ全寮制の音楽学校に入学することになっているのをエドワードから聞かされたところだった。

「もう僕のところは卒業だよジェシカ。僕のところで教えられることは終わったんだ」

エドワードは、窓辺に佇み見ていた外からジェシカに顔を向けた。

「卒業って、卒業したら、もうここに来ちゃいけないの?」

ジェシカは十五歳になったばかりだった。

背はスラリと伸びてエドワードを追い越しそうで明るく柔らかで天然パーマの金色の髪は背中に届き、濃い青い瞳は一度見たら忘れられないような綺麗な色だった。

美しく成長していた。

「だって、だってパンフレットを読んだら全寮制でも夏休みとか冬休みは皆家に帰るのよ。私は寮にいなくちゃダメなの?ここに帰ってきたらいけないの?」涙声になっていた。

「そ、それに、わ、私、エドワードのこと…」

エドワードはジェシカが言い終わらないうちに素早くジェシカの傍に行くと人差し指を自分の唇に、そっと近づけた。

ジェシカが淡い想いをエドワードに抱きつつあるのを察していたので早めに摘み取っておこうとエドワードは決心した。

「ジェシカ、僕は、いくつだと思う?」

「解らないわ。十七歳くらい?」

エドワードはジェシカの生真面目さに思わず笑いだしそうになって一度、下を向いた。

「僕はね、ジョージと同い年、なんだ。もう四十歳半ばだ」

「嘘、見えないわ!」

エドワードはジェシカの頭を優しく撫でた。

「本当なんだよ…」そう話すエドワードは、とても悲しげでジェシカは、それ以上は、そのことに関して言ってはいけないと悟った。

「それとね、僕はジェシカを自分の子供のように思っているんだ」

ジェシカは無言で涙で潤んだ瞳でエドワードを見つめた。

「いいかい?ジェシカは、これから学校に行って学ぶことが必要なんだ。学校には様々な国から学びに来ている子達がいる。ジェシカよりも上手にピアノを弾く子だって沢山いる。だから学んで、さらに成長していくんだ」

黙ってエドワードの話を聞くジェシカの頬に涙が一筋零れた。

エドワードはジェシカの前髪を、そっとかきあげると額に優しくキスをした。

「僕は血がつながったジェシカのお父さんではないけど、本当のお父さんに負けないくらい、ジェシカのことを思っている。さらに勉強して立派なピアニストになって欲しい。学校に行ってくれるね?」

「…はい」ジェシカは涙声で返事をして頷いた。

エドワードはジェシカの頭に手をポンポンと優しく置いた。

「もちろん、夏休みや冬休みは帰っておいで」


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