スターター

@nekowanko

第1話

 初めて彼女を見たのは、小学生の陸上大会だった。

 わたしは他校の教諭として生徒を引率して会場にに来ていた。

 基本は地域の5.6年生参加の陸上大会であったのだが、彼女の学校は生徒数が少なく、特例で4年生の参加も認められていた。

 スタートラインにだった少女は、スタートラインに並んだ年上の少女達に見劣りしない上背があった。まっすぐ前を見る整った顔立ちに、わたしはハッと心を惹かれた。

 長い髪を耳の後ろでツインテールに結んでいるところが少し幼さを感じる。

 位置について

 よーい

 たーん 

 と、スタート合図のピストルがなる。

 少女はウインテールを靡かせて、音と同時に飛び出すと、風の流れになるかのように100メートルを走り切った。

 速い。

 どこか近くでほう、と、誰かの感心する息が聞こえた。

 

 彼女は陸上を進む。

 その大会でわたしは確信した。

 この逸材を逃す陸上関係者はいないだろう。

 もし、誰も母をかけなければ、わたしが指導者になってもいい。

 そうだ。

 わたしが指導するという可能性だってあるのだ。

 

 小学校の教諭というとある程度オールマイティな能力がなければならないが、わたしは陸上経験は全くなく、さらに言うと運動神経も褒められたものではない。

 だが、実践は難しくても、理論で指導はできる。できるはずだ。

 

 わたしは小学校で生徒を教える傍ら、自分の空いた時間で、陸上の知識を頭に詰め込んだ。そして、公式指導者や陸上競技公認審判員の資格など、取得可能な資格の獲得に挑んだ。


 もちろん、ごく僅かなものであったが、手に入れられる限りの少女の情報も入手した。

 転出先の希望は彼女の学校のある地域にした。

 だが、わたしの希望は叶わず、残念ながら彼女の通う小学校に着任することはなかった。


 わたしは年に何度か陸上大会に参加する髪の長い少女を見つめ、どうすれば彼女に近づけるか頭を捻った。

 

 6年生の最後の大会が終わる。

 わたしが彼女と同じ会場で過ごす機会はこれが最後だ。

 では、どうする。

 今から中学の教員免許の取得を目指すか。

 いや、それも小学校と同じように、彼女のいる学校に赴任できならば、なんの意味もない。


 わたしは彼女の進路に注目した。

 私立に行くのか、地元の公立に行くのか?

 中学は地元の公立に進むらしい。

 部活は?部活は陸上を選ぶだろうか?

 陸上を選んでくれたら、この先、わたしとも陸上競技で巡り合える。

 巡り合うようにしてみせる。


 選んでいないなら、なんとしても彼女を陸上競技に向かうよう説得しよう。


 わたしは6年生の担任となり、色々理由をつけて、彼女の進学した中学校の部活を見学に行った。

 いた。

 長かった髪をバッサリ切って、すらりとした姿体で運動着を着るショートカットの彼女がいた。

 陸上部だ。

 陸上部の顧問は、有望な短距離選手です、と、わたしと並んで練習や様子を見ているときに彼女のことをわたしにそう説明した。

 そんなこと、言われなくてもわかっている。

 すぐにそんな思いが湧き上がったが、もちろん、その思いは押し殺して、そうなんですか、と、無関心を装って頷いた。


 中学の部活で、思った通り、彼女は成績を残す。全国までは、もう少しだ。

 もし、わたしが指導すれば、と、当時のわたしは、情報収集のために契約した地元新聞を読みながら悔しく思ったものだ。


 そして、彼女は陸上な力を入れるため、地元の公立ではなく、推薦で私立の高校に進学した。


 わたしは小学校教諭を辞めて、彼女の通う高校のある都市に引越した。

 スポーツクラブのコーチの仕事につき、陸上大会があればスタッフとして参加した。


 もちろん、彼女の出る大会にもわたしはなん度か参加した。

 会場の通路で、すれ違ったのが一番近づけた時だ。

 わたしはスタッフの白いバケツ帽子を被って、向かい側を通り過ぎる彼女にがんばってください、と声をかけた。

 彼女は、少し驚いてから、どうも、ととても小さな声で頭をぺこりと下げた。


 いつも応援席に、笑顔で両手を挙げて応えている彼女なのに。

 わたしは通路の奥に彼女を見かけた時、もしかしたら、いつも見守ってくれているお兄さんですか?(是非彼女には、わたしのことを〈お兄さん〉と認識していて欲しいものだ。間も無く40を迎えるわたしだが、まだ腹もそんなに出ていないし、髪だってちゃんとある。)と、あの元気な笑顔で彼女から声をかけてもらえるのではないかとワクワクしていたのに。

 9年もの間彼女を応援してきたわたしを彼女は全く気づいていなかったのだ。


 この大会でも彼女は優秀な成績を収めていた。

 次は大学だ。

 彼女が大学生になったときには、わたしももう少し積極的なアプローチを考えなければ。


 そう思いつつ会場に戻ると、

 きゃー、と、女の子達の黄色い声が挙がる。


 見ると彼女が部活の仲間に囲まれている。

 うわー、おめでとう。

 やったね。

 と、囲まれた彼女は、仲間に祝ってもらっているらしい。

 今日の成績についてだろうか。


 少し歩みを緩めて、少女たちの話し声に耳を傾ける。

 

 イエス、だって?

 うんうん、と、顔を赤らめて少女が答える。

 彼女を囲む輪が、また、きゃー、と、黄色く騒ぐ。

 来年からアメリカだがら、

 と、彼女が言う。

 

 わたしはぎょっとする。

 アメリカなのか?

 彼女は留学すると言うことか?


 じゃあ、遠距離じゃん。


 遠距離。確かに、アメリカは遠い。


 離れ離れでも大丈夫?

 だ、大丈夫だよ。

 と、彼女はムキになって答える。

 ハルトー、と、輪の中の一人の女子が自分のチームの方に向き直って、手を挙げている。

 声が届いたところにいる男子の集団が、こちらを向く。


 おめでとー、と、女子が一堂に声をかける。


 男子軍団も、ヒューヒューと、仲間の一人を囃し始めた。


 泣かせたら承知しないぞー


 女の子たちが騒ぐのを、やめて、やめてよ、と、顔を赤らめながら彼女が静めようとしている。


 なんだ?

 なんでだ?

 これから彼女にはわたしと出会う物語が待っているのに。


 日本の陸上のスタートの合図は

 位置について

 用意

 どん

 となっている。


 次の大会に向けて、わたしも位置について、用意をしよう。

 

 緻密に緻密に、しつこく、しつこく、時間をかけて調べていけば、ネットの世界には、様々な闇が埋められている。

 わたしはそれを掘り起こす。


 彼女にとっての国内でも最後の大会に向けて。


 国際大会なら、もっと色々調べられるのだろう。

 国内大会はスタッフに対してのチェックはそれほど厳しくなかった。

 それに、ぱっと見で、こらがなにかわかることはないだろう。


 わたしは同じものを3つ手に入れて、この日に向けて、練習を繰り返してきた。


 わたしは、本当に本当に彼女を愛してきたのだ。

 真剣に。

 彼女をどこかにやるわけにはいかない。

 誰にも渡すわけはいかない。


 この日、わたしはスターターを受け持っている。

 この日スターターになるために、わたしは嘘もついたし、少しのお金を使った。


 だが、はした金だ。後悔はない。

 これで彼女は永遠にわたしのものになるのだから。


 スタートの位置に彼女が立つ。


 位置について。

 用意。


 どの位置に彼女が来ても、外さないように練習を重ねてきた。


 3Dプリンターで作られたピストルを握る手が汗ばむ。


 どん


             (終)

    









 




 

  

 

 

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