「さよなら。」

生ぬるい春風が通り過ぎて、デニムのタイトスカートに包まれた私の足を撫でていく。

大きな坂を越えたその先は、この街に17年間住み続けた私でも立ち入ったことがない、大きくて古い団地があった。その大きさに対して見るからに管理が行き届いていない、そう思わせる住宅の壁の傷や落書きが多く見える。

その中で、お世辞にも日当たりが良いとは言えない建物の一角に軽トラックが停まっていて、ポニーテールの女の子が荷台に荷物を運び入れていた。

何も言わずに、その人に近づく。女の子は、図ったようなタイミングで軍手を外し、こちらを振り向いた。諦めたように空気を吐き出しながら、力なく微笑んでいた。


「ばれちゃった。」




ここなら虫が来ないよ、と言って、皐月は団地のすぐ裏の公園に私を案内した。無言でスポーツドリンクを渡すと、「ありがとぉ」と笑い、キャップを取ると首が90度曲がるくらい豪快に上を向いてそれを飲んだ。16時頃、子供たちは元気に遊んでいて構わない時間なのに、何故か誰もいない。そもそもここに来る子供たちが近くに住んでいない、ということを思いつくのに数秒かかった。

皐月はきっと、私がここに来ることを分かっていただろう。白石くんが伝えたのかもしれない。だから妙ににやにやしていて、”私はどうってことないですよ”という雰囲気を作っていた。対する私は表情も体もがちがちに見えているはず。実際、変な力がこもってしまって、嫌に体が重い。


「姫は、女中の秘密をどこまで知っちゃったんだぁ?」

くすくすと笑いながら、皐月は私の顔を覗き込んだ。あくまでも茶化した調子を崩さない予定らしい。目鼻立ちが整った顔に妙な作り笑顔は似合わなかった。

「皐月、この前は、ごめん。」

やっとのことで言えたのは、たった一言、それだけだった。

私のおちゃらけた言葉と、落ちる紙コップ、去っていく皐月の髪の毛が、スローモーションで頭の中を巡る。とりあえず言わなくちゃいけない、そう思って用意した一言だった。ただこれだけなのに、私の体は震えてしまう。皐月のこの振る舞いの理由を、私は知っているから。これだけはさせたくない、それをしてしまった、いや、していることに、甘ったれた私は恐怖を感じているから。

「いいのいいのぉ。だって私、もういなくなっちゃうんだからさぁ。」

言いふらしたりいじめに寝返ったりしないよ、よかったじゃん。皐月の唇は、いつもより軽く、簡単に動く。皐月も用意している、そのことに気づいたけれど今更だった。


「ごめん、私、今まで桃世のこと騙してたんだ!」

あんなに桃世のこと心配だなんて顔しながら、見えてるはずのいじめを見ないふりしてたの。ごめんね、だって、こんな私の目の前で、ゆるぅい不幸の話をさぞ”可哀想です”って顔して言うからさぁ。そりゃあ自分の境遇を言わなかった私が一番悪いんだけどぉ、ねぇ?これ見て桃世も私に幻滅したでしょぉ?頭おかしいよねぇ晴れてるのに雨漏りしてくる妙な家に住んでるの。四階なのにネズミが出るような家に住んでるの。そんな友達嫌でしょぉ?よかったね、だって


もう私はいなくなるからさ?ばいばいするからさ?




にこにこしながら皐月は一息にそう言ってみせた。目に光がなくて、どことなく後ろ暗い。何が皐月をここまで走らせるんだろう。いや、ここに来ても、まだ私は逃げている。皐月が虚勢を張っていることに気づいているのに、見ないふりをしている。

最後の時までも、私たちは仮面を被ったまま潔いふりをして”さよなら”なの?拳を固く握りしめて、私は口を開いた。


「違う。皐月、私、これまでずっと皐月に悪いことばっかりしてきたの。そうだよ、皐月の言う通りだよ。不幸ぶってた。世界で一番私が”可哀想だ”って思ってた。知らなかったけれど、でもそれを言い訳にはできない。だから、」

「あのさぁ」


皐月の声は、多少怒気をまとっていた。スポーツドリンクをだんとベンチに叩きつけ、鋭い目でこちらを睨む。

「もういいって、そんなの。何をしたって私たちは”さよなら”なんだよ。それに対して今更『仲直りしたい』みたいなの、無駄だと思わない?自己満のためにしてるんだったら勘弁して。明日には出ていくのに、まだ積み終わってないんだから。」

そう言って皐月は遠くに見える軽トラックのほうに顎をしゃくった。私は、この状態の皐月が強がりなのを分かっている。なのに、それを解消する手筈がわからなくて。取り繕うだけの薄い言葉が口から出ていく。

「そんなふうに言わなくてもよくない?私、ここに喧嘩しに来たわけじゃないんだけど。ただ皐月の本当の気持ちを聞きたいの。」

「だからそれをして何になるのって言ってんの。友情、青春みたいなお涙頂戴物語いらないって。」

「違うから。そんな枠にはまった付き合いがしたいわけじゃないの。」

「だからぁっ」


やばい、言い過ぎた。そう思った瞬間に、皐月は固く握った拳をベンチに叩きつけていた。ごんとさっきより鈍い音がして、茶色いベンチに鮮血が飛ぶ。小指の側面が切れていた。

皐月はそれも気にせずに、血が出ている方の人差し指を私の心臓に突き立てた。それから立ち上がって、私がベンチについている手のすぐ側に足を乗せて、声を荒げる。こんな皐月見たことない。やばい、と本能が無情に告げていた。


「そんな流暢なことよく言えるよねって言ってんの‼‼

あのね、私は桃世に付き合えないよ。自分の気持ちが一番大事だなんて、心が繋がれば何とかなんて、そんなこと言ってる次元で生きてないの‼‼

ねぇ知ってる?知らないでしょうね。

私がどんな思いでずっと桃世のそばにいたか‼‼

ばいばいって帰り道で別れたあと、毎日どんなふうに生きていたか‼‼」




私のお母さんはホステスだよ。その客の誰かかお気に入りのホストが私の父親。どこまで聞いてるか知らないけれど、私は父親の顔を見たことがないよ。別に見たくもないけど。

お母さんは妊娠が分かってからも、一度も病院に行ってなかった。お金がなかったから。初めて行ったのは、陣痛が始まってからって聞いてる。嘘じゃないんでしょうねぇ、だって私の身体にくっきりその痕が残ってるもん。

お産が始まってから助産師さんが気づいたんだって。お母さんがクラミジアってこと。クラミジアの母体から出てきた赤ちゃんは、病原菌がある産道を通って生まれてくるから、母体とおんなじ運命を辿ることになるの。それが私。処女だけどクラミジア。この烙印を押されることがどれだけ辛いかわかる?…わからないでしょ。いいよ、説明してあげる。

喉は他の新生児より極端に悪かった。治療が終わった今だって砂埃の多いところはきついよ。喘息の発作が出ることもある。でもそれよりもっと大変なのは…まぁこれは姫でも知ってるか。そう、不妊だよ。生まれたばっかりの子供、まだ1歳にも満たない小さな可愛らしい私は、女として、母親の卵としての資格を失ったの。

生まれてからずっと、私はお母さんと暮らしてきた。葉月はうちのお母さんのこと、なんて言ってた?…悪い人じゃないって?あぁ、なるほど、ね…。じゃあクラミジアとか客のこと知らないんだ。過保護なママがシャットアウトしてるのかな。まぁもう会うこともないだろうから別に何でもいいけど。

確かにお母さんは、悪い人じゃない。ホステスで稼いだお金をほっとんどホストに入れ込んじゃうのには困ってるけど、私に対して夜の職業を強要することはないし、メイクも上手だし、休みの日に遊びに行ってたまに贅沢をさせてくれることもある。でも、私がお母さんのことが大好きだって、世間はそれを許してくれない。”ホステスの娘”だって目で私を見て、一般的なイメージに落とし込もうとする。まぁ間違ってもないのかな、って思うときもあるけど。

今回の引っ越しもそれが原因。お母さんがしつこい客にストーカーされてるの。…え、警察に相談すればいいって?無理無理。まるで役に立たないよ。警備を強化しますって、笑えるよね、ここから一番近い交番まで2キロ。ふふ、見捨てられた集落を助ける気なんかないくせに。

今回は長く住めた方かな。桃世が覚えているか知らないけど、この街の小学校に通ってたときも丸一年で引っ越したの。あれは…何が理由だったっけ。子供だから忘れちゃった。まぁ隣町に引っ越しただけだったから、ばったり葉月に会ったりもしたっけ。

ほんと、2年もまともに同じ場所で過ごしたことないくせに、バレーが続けられたのは幸いだったね。バレーはボールと壁さえあれば練習できるから、コスパがいい種目だったよ。楽しかったなぁ。でも次の場所じゃできないかも。さすがに三年生から参入ってちょっと私でもできないかもね。

あと、桃世は私の恋愛観によほど興味があるように見えるけれど、もう分かるよね?あのね、今はジェンダーレスだかなんだかって世間は言うけど、私みたいな人間もいるんだよ。どのような人を愛するか、子孫を残すかを選ぶ以前に、そもそも自分の生殖機能が死んでるの。高校生ながらにそれが判明しちゃってるの。こういう人で、それでも恋愛がしたい人の結末が何か知ってる?『妊娠しないから』って好き勝手に扱われて、都合よくおもちゃになって、必要なくなったら捨てられる。これ誰か分かる?

…私のお母さんだよ。いっつもそう。ホストにのぼせ上がって、やりたいだけめちゃくちゃにされて、お金がなくなったらぽい。そういう生活がばれたせいでいじめられたこともあったっけ。『お前のかあちゃんあばずれ女』ってさ。よくそんな言葉知ってたよね。もう死語じゃない?まぁでもその頃はまだましだった。”クラミジア”って言葉が分かるようになってからは、それが広まると本当に目も当てられなかったからね。ふふ、嫌になるなぁ。

そういう理由で、私はこういう人間になりたくない。だから自分を守る手段として、私は恋をしないよ。これを言う気はなかったけど、そういうのに無頓着そうな桃世が言うから、ついかっとなっちゃった。この前はごめんね。まぁもう今更だけど。


これで一通りの不幸話はおしまい。ごめんね、汚い部分ばっかり見せちゃってさ。毎日こんな生活だから心も荒んでるの。今思えば、桃世に見せられるのなんて、ほんの一部だったの。うっすい付き合いだったよね私たち。まぁ高校生の友情ごっこなんてこんなもんだよ。これが真実だよ。


「ね、分かった?」




何と言ったらいいのか、私には全くわからなかった。『分からないでしょ?』皐月が何度も言った言葉を思い出す。その通りだ。私には分からない。ずっとこの街で家族と同じ場所に住んできて、当たり前のように毎日ご飯が出てきて、それなりに大人の世界に憧れて、ただ行き場のない妙な感情から来るいじめなのか怪しい程度の嫌がらせにびくびく怯えている私には。分かって良いはずがないんだ。

ただ皐月の目を見つめることしかできなかった。皐月の小指は乾いて、赤黒い血の塊がこびりついている。心臓に触れている人差し指はふるふると震えていた。

ややあって、皐月はどんともう一度ベンチを蹴って私の身体を開放した。そして力が抜けたように、青臭い芝生に寝転んだ。顔を腕で覆って、沈みかけた太陽から逃げる。

「帰ってくれるかなぁ?

聞きたいこと、もう聞けたでしょ。

…さよなら、だ。」

その声は震えていた。わざとらしく余裕な顔をした、皐月の仮面が完全に剥がれていた。そこにはただ、気丈なふりをした、細い腕で必死に自分を守ろうとする小さな子供がいた。




「さつき…っ」




もうどうでもよかった。ただ、目の前の皐月があまりにも傷ついていて、彼女を攻撃する何かから皐月を守りたかった。ただそれだけだった。

私は覆いかぶさるようにして寝転んだ皐月の身体に自分の身体を密着させた。いつも邪険に扱っていた皐月の身体を、丁寧に抱きしめた。

「馬鹿じゃないの、クラミジア感染っちゃうよ」

うわ言のような皐月の声は全くあてにもならない。そんなの迷信だ。だいたい、それを知ってようが知りまいが、私は、

「正しい、知識を、身につけなよっ」

たった一日ぶりの皐月の温もりが、痛いほどに嬉しかった。勝手に溢れてくる涙が苦しい。改めてしっかり抱きしめた皐月の身体は細いというより薄かった。こんな身体で、バレーをして、私のお守りをして、人生の制約を受けていたんだ。

「ばぁぁぁか」

なおも強く抱きしめる私に観念したのか、皐月は脱力して、その後に私の身体をぐっと引き寄せた。肩がゆっくりと湿っていく。そのうちに嗚咽が漏れて、どんどん水気を増していった。

「桃世が羨ましかったっ。誰かに抱きしめてもらいたかったっ。」

息を吸って吐いて、そんなことがままならないくらいに、皐月は泣きじゃくっていた。その隙間に、今までの中で初めて、本音を見る。

「普通に恋がしたかったっ。好きな気持ちに嘘つきたくなかったっ。いじめられたくなかったっ。」

ぎゅうと私のパーカーの背中が握られる。どうしようもなく泣けてきて、私も腕に力を込めた。

「ごめんなさいっ、ずっと、ずっと、羨ましかったっ!

桃世は桃世の世界で必死に足掻いてるのに、目を、逸らして、辛いことに、代わりは、ないのに、それでも、ましだって、何甘えてんだ、って、何度も何度も、見ないふり、してっ」

「違うの、私だって、同じことしてたんだから、ね、皐月、」

こっちを見て、と身体を起こしてから、皐月の背中を支えて、起き上がらせた。初めて見る皐月の泣き顔は、目も真っ赤で鼻もずるずるだし、正直不細工だ。でもそんな姿を見せてくれるのが、もし、××なんだとしたら。

隠すものがなくなった皐月は、小さい子供のように怯えた顔でこちらを見上げた。皐月の膝に乗り上げている私は、その頬を両手で捕まえて私の額と彼女のそれをこつんとくっつける。

「白石くんに、私のこと”親友だ”って紹介してくれてありがとう。

皐月は、離れてても、さ…」


私の親友で、いてくれる?


一瞬だけ頷いた皐月は、また大きな声で泣いてしまった。これが、私が用意していたもう一つの言葉だった。これが言えたなら、もう私は満足だ。たった一人の親友のために、その門出を祝うために、今日は全力で身を捧げよう。

そんなことを思いつつ、気丈に大人ぶった私も、いつしか泣いていた。

いつも鬱陶しいと思っていた皐月の温もりを抱きしめるのは、今日が最後、だろうか。いや、白石くんが偶然、皐月に会ったように、もしかしたらまた会えるかもしれない。それこそ、前座に過ぎない桃の花が舞う、こんな季節に。ぎりぎりで何とか間に合った、段取りが悪くて意地っ張りな私たちには、これくらいがちょうどいいから。

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