ありがとう

「え、ちょ、何してんのっ…」


聞こえた声は、抑揚の少ない男子のものだった。私が呆然としている間にその人はフェンスを乗り越えてこちらに向かって来る。そしてためらいもなく上から水が降るシャワーの下に来て、きゅっと蛇口をひねった。

「どうしたの」

色素の薄い髪の毛と綺麗な二重瞼が目立つ、顔の整った男子生徒だった。こちらに来たせいで水を止めた左手から頭の半部くらいまでびしょびしょになっている。ぼんやりとそんなことを考えていて、ふと、顔をまじまじと見られるくらいその人に近づいていることに気づいた。


細身ではあるけれど筋張った腕、しなやかな筋肉のついた足。こんなのに手を出されたら、女の子は絶対に反撃できない。たとえその人が病気を持っていたって…。


「やだっ、こっち来ないでっ」

突然怖くなって、シャワーの水が溜まったスペースから出ていこうとした。でも、冷えた身体は重だるくて、気分も悪いし、足元も大量の水でおぼつかない。3歩目を踏み出そうとした途端にばたんっと転んでしまった。びしゃんと音が鳴るほどに水飛沫が飛び散る。

「ちょ、危ない、」

コンクリートの床に容赦なく叩きつけられた身体はかなり痛い。また浮かんできた涙を何とか飲み込んで、私は差し伸べられた手を避けた。

「いやだ、」

「わかった、わかったから、」

座り込んだままお尻を擦って後退りする私に、その人は諦めたのか、両手を高く上げて、敵意なしのポーズをとった。それから数歩後ろに下がって私から距離をとる。

「これならいい?」

「いやだ、出ていって、」

「それは無理。びしょ濡れのまんま放っておくとか無理だから。」

「どうでもいいでしょ、」

「よくない。」

強情にそこを離れようとしない。どうして私に構うの。こんな変な人に話しかけてどうすんの。

「もうどっか行ってよ、」

「いやだ、…ってうおっ…」

ふいにめまいを感じて、重力に押しつぶされそうになる。コンクリに頭を打つ、そんな当たり前のことがわかって、私はぎゅっと目を閉じた。楽になりたい、そう思った瞬間に、ふわりと人の体温を感じて、それを最後に意識が刈り取られた。




「…長田さん?大丈夫?」

ながたさん?意味のない羅列のように聞こえたその声が、私を呼んでいることに気がついて、目を開いた。

その瞬間に襲ってくる、頭のずきずきとした痛みと、鐘にでもなったのかというほどのぐわんぐわんとしためまいが酷くて、今度は寝返りを打とうとすると、後頭部にえぐられるほどの衝撃を覚えた。それでようやく意識がはっきりと冴える。

「いっっっっっ」

「あぁぁ、大丈夫?」

どうやらここは保健室らしい。目の前には保健室の先生がいて、安心したように眉を下げていた。


「あぁよかった。あと五分目を覚まさなかったら、病院に送ってたところだった。」

そう言いながら椅子に座って、横を向くように促す。頭の後ろにたんこぶができちゃってるからと言われた。

「あ…私、どうしてここへ、」

「白石くんが運んでくれたの。災難だったねぇ、水たまりで転んじゃったんだって?」

「え…」

どうやらあの人は白石くんというらしい。そして言い訳もしてくれたようだ。どう見ても水たまりって量の濡れ具合じゃなかったけど…。

「ずぶ濡れだったから、とりあえず全部脱がして、ジャージだけ着てもらってるよ。そこに下着の替えは置いておいたから、あとで着替えてね。

それと…」

「先生?」

気づいたら、声が出ていた。そのことを考え始めると、また一層頭が痛くなる。一度起こした頭を枕に預けながら、ぼんやりと聞いた。


「クラミジアって、抱きしめたり手を繋いだりした女の子同士でも伝染るんですか?」


「…」

歳若い先生は少々動揺して、私の目をじっと見つめた。

「それはどういうことだろう。長田さんにそういう疑いがあるってこと?

…だったとしても、性行為とか、キスとか、そういう接触がなしでは感染しない、めったにしないけれど…」

不正出血とか、排尿痛とかない?そう言われて首をほんの少し横にふると、先生は安心したようにふにゃりと笑った。まるで子供みたいな大人だ。頼りない、ように見えるけど、これが俗に言うところの可愛げがあるというやつなんだろう。

「気になるなら、匿名で診断を受けられる病院があるから言ってね。」

そのあとに、何気ないふうに先生はこう言った。

「相談してくれてありがとう。」


…ありがとう?どうして先生が”ありがとう”なんだろう。私が言いこそすれ、先生は労力を割いてくれただけなのに。

「どうして、ですか。」

「ん?」

荷物持ってきてくれてたよーと私のスポーツバッグを抱えてきた先生は、唇を突き出して聞き返してきた。

「どうして先生が”ありがとう”なんですか。」

「どうして…か。どうして…だろう…」

椅子に座り直して、真剣に考え始める先生。何気なく投げた質問にこんなに真剣になってもらってしまった…。あ、そんな大真面目に答えていただかなくても、と言いかけたときに、先生は「あ、」と言った。

「私の夢、かもしれない。」

「へ?」

夢?そんなゆらゆらしたものが大人の口から出てくるとは。

「私の夢は、学校に来る生徒皆が、身体的にも精神的にも健康で毎日を過ごしてくれること。だけど、見た目に出にくい病気も悩みもたくさんある。私がいくら注意深く見ていたって、本人が申告してくれないとどうしようもならないことだってたくさんある。

だけど今、長田さんは私に、悩んでることを伝えてくれたでしょ?今の私の答えが、長田さんを完全に元気にできたかと言えばそうではないんだけど、それでも、」

皆が健康でいてくれること、私の夢に一歩近づいてくれてありがとう、って言いたかったんだよ。

そしてまた、先生はふにゃりと笑った。でもそれはさっきとは違って、頼りないことはなく、大人の余裕にも、損得勘定を超えた何かのようにも見えた。

「誰だって一人じゃ抱え込めないよ。特に子供は。」

だから甘えてね。そうでなければ、


助け合ってね。


先生はそう言うと、じゃあちょっと事務処理を、と言って私に諸々の質問と説明を始めた。それに何となく答えながら、さっきの先生の言葉を反芻する。

子供は、どちらかがどちらかに甘えられるほど、成熟していない。生まれた時期はだいたい一緒なんだから、求める手助けもほとんど変わらない。だから、片方がよりかかり続けることはほぼ不可能。

だけど、お互いがお互いに体重をかけあうことができたら。それなら、もしかしたら…。


「…じゃあこれで一応説明は終わり!

今日は絶対安静だから、保護者の方に迎えに来てもらったほうがいいと思うんだけど…」

それでもいいかな?

そう言われて考える。確か、お父さんもお母さんも今日は仕事だったはず。朝練の日だから、時間はまだ昼頃だ。迷惑はかけたくないし、でもこのめまいはかなりきつい。

「えっと、二人とも今日は仕事で…」

「んー…友達と帰れたりする?」

「友達…はちょっと、」

脳裏に皐月の影がちらつく。何となく、夕暮れの公園で、たった一人でブランコを漕いでいる、皐月の姿が思い浮かぶ。

どうしよう、そう思っていたときに、カーテンの向こうから、とんとんとノックの音が聞こえた。

「あら、誰か…ごめんね、ちょっと待っててね。」

先生は立ち上がり、出たあとにカーテンをしっかり閉めた。ややあって、扉を開く音が聞こえる。

「はぁい、どう…って、あ」

「あの子、もう帰りました?」

「え、」

聞こえたのは、プールでひと悶着合ったあの男子−白石くんの声だった。ちょっと勘弁して、と自然に頭にフレーズが流れる。今思えば、プールでのはかなりの狂い具合だった。もう少し冷静になってから、大真面目に謝りに行こうと思っていたのに、こんなに早く会ってしまうなんて。

「あ、いますね。」

声で気づいたらしい。なかなか敏感な耳だ。

「うん。いるよ。もう少しで帰るところなんだけど、」

「だけど?」

「あ、の」

たまらなくなって声を上げた。ちゃんと謝るくらいはしなくちゃ。

「せんせ、私が話します。」

「あ、本当?」

カーテンの端と端をぎゅっと持って、自分の顔だけをこちらに出した先生は、

「カーテン開ける?」と聞いてきた。

「え、開けます、けど、」

何でこんなことを聞いてくるんだろう。そう思っている間に、少し不安そうな顔をした先生がカーテンを開けてくれた。


そこには、おぼろげに覚えていた服装とは違う、制服を着た白石くんがいた。短い髪の毛がぺたりと倒れていて、多少水気を感じる。

「あの、さっきはごめんなさい、ほんとに、」

「気にしないで、制服で来てたし。そのジャージ、似合うな。」

俺のジャージなんだけど、そう言われて、え、と先生を見た。

「どういう、」

「あーーー、保健室に替えがなくって、それをぼそっと言ったら、白石くんが貸してくれたんだよ。」

そう言われてみて、布団から腕を引っ張り出すと、袖が存分に余っている。何も意識しなくても幽霊スタイルだ。

「っ、何から何まで、本当に、ごめ、」

「もう良いから。で、帰れないの。」

「あ、いや、そんなわけじゃ、」

「俺と一緒に帰る?」

「へ、」


一緒に、帰る?

「てか、帰ろ。俺、バッグ持つし。」

なかなか強引だ。せんせ、と助けを求めると、なぜか「ありがたい。」と白石くんを拝まんばかりの勢いだった。

「何で、そんな私に、」

「断れる?」

そう言われてはっとした。この人、私を追い詰めている…。さっきまでの粗相のやり返し?でもこれは確実に私に負い目がある。結論は最初から見え見えだった。

観念した私は、先生の手を借りながら立ち上がった。ふらりとめまいがして、やばい、と思ったら、「大丈夫?」と支えられる。

さっきまで″怖い″と思っていたその腕に助けられるなんて。


「送ってあげる。」


まだ少しぼんやりとした頭に、何故か懐かしいと感じた抑揚のない声が響いた。

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