信じる、

「いってきまーす」

いつも通り、朝練のある日は午前7:30に家を出る。キッチンのカウンターに置いてある水筒とパンを手に取ると、ソファーで夜中に洗った洗濯物を畳んでいるお母さんが口を開いた。

「桃世?」「何?」「昨日何かあったの?」

おっとりした性格のお母さん。女子大出身で、子供目に見ても大人しい人だけど、妙なところで鋭さを見せる。どうやら、昨日家に帰ってきてから口数が少なかっただけで見抜かれたらしい。

「うん、ちょっとね。」


皐月のことを考えると、少し気が滅入る。あれからいくつかメッセージを送ったけど、何一つとして返信は帰ってこなかった。既読もつかない。昨日は見たことがないくらいの動揺だったから、何かやったんじゃないかって正直今でも心配だけど、そこは強い皐月を信頼しよう。

今日は絶対に謝る。皐月が何であそこまで恋を嫌うのか、わからなくてもいい。でも、皐月が苦しんでいるなら、声をかけたい。寄り添いたい。

「桃世も…大人になったね。」「え?」

「何かね、高校生になってから、桃世は感情を見せなくなってたから…、

それが大人になった証拠だって言う人もいるけれど、私はあんまりそうとは思わないから。」

どういうことだろう、とそんな困った表情をしていたんだろう、お母さんはくすくす笑った。


「言いたい人に、言いたいことを言える人。自分が言うと同時に、相手にもそれを促して対等に渡り合える人。隠し事をしなくてもいいくらい胸を張れる人。それが大人かなって思うよ。」

「へぇ…」

正直、意外だった。お父さんとお母さんは仲が良い。それも、磁石のS極とN極みたいに、自然と波長が合うタイプに見えていた。二人の間に言葉なんて必要ない、てかそもそもそんな事考えること自体が無粋、なんて考えているタイプかと思っていた。こんなに明文化できるほどのしっかりとした定義があるなんて。


「大丈夫だよ。」「そんな不安そうな顔してた?」「ちょっとね。」

そう言ってお母さんはふふふと笑う。こう見えて視野が広いタイプの人だった。

「いってきます。」

「いってらっしゃい。」

ちょっとだけ体が軽くなっていた。本当は、ついさっきまで怖かった。

本当に皐月が私のことを嫌いになっていたらどうしよう。もう話せなかったら。部長たちに加担し始めたら。

でも向き合うしかない。今の話でわかった。相手に自分をさらけ出してほしいと思うんだったら、まずはこちらが動くしかない。それができる相手かどうか、それで私たちの関係があらわになる。


裸で飛び込める?


自分に聞いて、その答えは胸に押し込めた。

玄関の扉を開けた。その動きで、庭に植えてある勿忘草の葉の朝露がふらりと揺れる。




「えっ…」

「そういうことだから。」

顧問はそっけなく言うと、何が気まずいのか、そそくさと私から離れて部長たちの元へ行った。私と彼女たちの仲が悪いのをわかってそうしているんだろう。つくづく小癪な若造だった。

それより、皐月のことだ。部活が始まる20分前に学校に着いた私は、いつも通り一人で準備をしながら開始時間を待っていた。包み隠さず言えば、実は、この時点で妙な気味の悪さを感じていた。それもそのはず、いつもぎりぎりに来る部長たちはともかく、電車とバスを乗り継いで学校に来る私より、バスだけで来る皐月が遅く来たことなんてなかったから。


内心落ち着かない心を冷やしながら開始時間まで準備していたけれど、ついに皐月は姿を現さなかった。

私の知る限り、これまで皐月が部活をサボったことなんてない。何かあったんだ。

そう思って顧問に詰め寄ったら、あの対応だ。要約すると、皐月から病欠の連絡があったらしい。でも、本当に休まない皐月が休んだからと言って、あそこまで動揺する必要はないだろう。何か隠している。もしかしたら、『部活にはもう行かない』くらいは言ったんじゃないか、なんて…。


私は愕然とした。本格的に皐月を傷つけてしまった。私は皐月の家を知らない。だから今できるのは、メッセージを送り続けることくらいだ。一応、ついさっき送ってみたけれど、反応はない。昨日と変わらない、気持ち悪い沈黙に体が苛まれるだけ。

何をしたらいいんだろう。本当なら今すぐ外にに飛び出して皐月を探したい。でもどこにいるのか、検討もつかなくて。こんなことなら、家くらい聞いとけばよかった。いつも私たちの中で、中心にいたのは私だった。皐月のこと、こんなに知らないなんて。


わからない、わからないとぐるぐる考えているうちに部活の時間はあっという間に過ぎて、コート練習前の対人に移った。いつも皐月とするせいで、今日の私には相手をしてくれる人がいない。仕方がないから壁打ちをしていた、その時だった。


「えへへへっ、まじぃ?」

響く下品な笑い声、わざとらしい舌っ足らずな言い方。

部長たちが我が物顔で体育館の真ん中を占拠し、おざなりにボールを弄びながら大声で話していた。

私は思わず顔を顰める。皐月がいないせいか、いつもよりうるさい。普段は従順な1年生も、迷惑そうな顔をしている。

本当は注意してやりたいけれど、しょうもないことがきっかけでまたいじめられるのも嫌なので黙っていた。それをいいことに部長たちはさらにうるさくなる。いや、これは作為的に、間接的に私を追い詰めている気なのかもしれない。

「ね、そういえば今日、皐月いないよね〜。」

「確かに。病気なんてかかったことありませんみたいな顔してるけど。」

「あ、それはないよぉ。」

妙に間延びした声は部長の声だ。嫌に聞き取りやすい。でも、何で否定したんだろう。

「どういう?」



「え、だって皐月の母親、クラミジアにかかったまま皐月を生んだんだよぉ。

だから皐月もクラミジア〜。」



「え…?」


わざとらしく放たれたその言葉。思わず声が漏れて、まんまとその罠に嵌ってしまった。でもそれは聞き捨てならない。何も考えずに私は部長たちに近づいた。

「どういうこと?」

いちいち芝居臭い彼女たちはゆっくりと振り返って私の焦った顔を見、ねっとりと微笑んだ。

「長田さん、珍しい〜。どうしたの?」

自然と周囲を囲まれる形になる。2年前と全く一緒だ。ただ一つ、状況だけが全く違う。今回は、自分のことなんてどうでもいい。殴られてもいいから、情報が欲しい。

「今言ってたの、何。」

「なにって、」

部長はハッと鼻で笑って、優越感に浸った意地の悪い顔で言った。


「皐月の母親、風俗嬢なんだよぉ。

皐月は、誰ともわかんない客の子で、堕ろす金がないから産んだんだってぇ。でもその時、母親がクラミジアでぇ、治療せずに産んじゃったからぁ、皐月も罹っちゃったんだよねぇ。」


信じられなかった。皐月の家の事情なんて聞いたこともなければ話をされた覚えもない。ただ、何も言わないってことは、普通に両親がいて、普通の高校生らしく生活しているんだろうなって、勝手に思っていた。だからいじめられている私のほうが不幸だって、皐月は羨ましい、なんて、

「そんな、根拠のないことを吹聴しないで!」

「はぁ?」

部長は嘲るように言った。

「あ、やっぱり性病の友達は嫌?さんざんくっつかれてたもんねぇ。でもパパが言ってたもん。間違いないよぉ。

知らない間に長田さんも性病、かもねぇ?」

きゃあやだぁ、と部長は笑う。でも、手を出してくるようなことはしない。

それがどういうことかわかって、悪寒が走った。

気がついたら、私は勝手に走り出していた。


やりようのない気持ちが体の中を駆け巡る。どうして隠していたの、とも、どうして私を騙したの、とも言える後味の悪い感情がぐるぐるしている。

せいびょう。身近に感じたこともない、保健の授業で、恥ずかしいと目を背けていたそれを、必死に頭の中で反芻する。

『知らない間に、大切な相手に移してる可能性だってあるのよ』

皐月は完全なる被害者だ。だからといって、それを簡単に消化することはできない。だいたい、私と皐月の間になんてないんだから、私がそうなっているなんてありえない。…はずなのに。

身体の至る所が疑わしくて、怖い。


たまらなくなって、私は近くにあったプールに駆け込み、シャワーの蛇口をひねった。頭の上から、容赦なく冷水が降り注ぐ。

冷たいのと、水の勢いが痛いのと、信じていた皐月に裏切られた思いと、勘違いしている自分が醜いのと、色んな気持ちがないまぜになって、私は泣いた。

これから、どうすればいいんだろう。


信じたい、信じれない。でも一体、何が原因でそんなこと思ってるの。誰が悪いの。何がしたいの。


そうやって泣いていたとき、ふいにプールを囲うフェンスの向こうから、大声が聞こえた。




「え、ちょ、何してんのっ…」

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