感情

えっちらおっちらカゴを運び終えて、ようやく私もボールを手に取る。いつも対人をする相手は皐月だ。まだ顧問と話しているのだろうか、そう思ってそちらを見るけれど、顧問がひなたぼっこをしているだけだった。

周囲では、とっくのとうに対人練習が始まっている。ボールを床に叩きつけるバシンバシンという音が体育館に響く。

この部活にいることを苦痛に思ったことがないかと言われたら、ないとは言い切れない。あの一件から私はポジションに立候補しなくなったし、そのおかげかあんなに露骨な嫌がらせを受けたことはないけれど、このカゴ運びみたいに、いろんなことを少しずつ押し付けられることは続いていた。

それでもここに所属し続けるのは、両親に心配をかけないためだけではない。純粋に、バレーボールが好きになったから。走り込みもきついけれど、そのあとに流し込む食塩水は美味しい。ただ対人を続けるだけでも、十分楽しめる。


「皐月…?あ、」

くるりと一周、体育館をまんべんなく見ていると、さっき寝転んでいた窓からほど近い扉の向こうに皐月がいた。この高校の体育館は校舎の三階にあたる場所にある。扉の向こうにあるのはグラウンドではなく階段で、そこを降りるとようやく地面にたどり着く。

そちらに近づくと、春風の気持ちよさを感じるとともに、野球部の大きな声が聞こえた。今日は我が高校の花形であるその人たちが、グラウンドを使っていたらしい。

皐月は野球部の方を向いて手すりに体重をかけていた。166cmの体軀が青空に映えて、なかなか様になっている。私は声をかけながら近づいた。

「皐月、対人し…」


途中までしか言えなかった。

皐月の、誰かを見つめているその横顔が、あまりにも寂しそうだったから。


見たことのない、少し潤んだ瞳をしていた。他のことには気づかないくらいに、集中して誰かを追っていた。普段の明るい皐月なら、気になる子に声くらいかけるような気がするけど、なぜか口を真一文字にきゅっと結んでいる。その真剣さと憂いをないまぜにしたような瞳に、言葉を奪われた。

「あ、桃世。」

皐月は私の足音に気づいたらしく、こちらを見た。もう、その目に憂いはない。いつも通りの皐月だった。

魅了されたくせに、なぜかのそれに安心している自分がいた。

「暑くてさぁ。普段来ないけど、ここ、いいね?」

皐月の言葉に、「そ、だね」となぜか私が動揺する。

「対人しよっか。」

うん、と言って振り返る直前、私は皐月の視線を見逃さなかった。

皐月が見ていたのは、マウンドでボールを投げている投手だった。一際大きな動きで、その一挙一投足に皆の視線が注がれている。いくつかボールを投げたあと、勝敗が決まったのか、グラウンドが歓声に包まれて、ベンチから同じユニフォームのチームメイトが出てきて、その人をもみくちゃにした。

誰だったっけ、去年クラスが一緒だった気がするんだけど…。


ぼおっとしている隙に、さっと手のひらからボールが奪われた。見ると、皐月がそれを手にとって、遠くの方でドリブルしている。

「早くしないと時間なくなっちゃうよぉ」

「皐月を待ってたんだってばっ」

さっきまでの皐月の視線が気になりつつも、頭を切り替えると、腰を低く構えてオーバーでボールを受け止める準備をした。コートに入れない以上、ボールに触れられる時間は今だけだから、最大限の努力をしたい。

「お願いしまーす!」

「はぁーいっ」




部活が終わると、外はもう真っ暗だった。今日は昼練だったから、終わりが押すのもまぁ想定内ではある。私は皐月と一緒に学校を出た。

他愛ない話をして歩く。これがいつもの流れだけど、私はどうしても気になって、一段落したあとに聞いた。

「ねぇ皐月?」

「ん?」

「昼間にさ、グラウンドのとこにいた野球部の子、見てたよね?

…もしかして、好きな人だったりする?」

純粋な好奇心だった。高校で再会してから、皐月とは恋愛の話をした覚えがない。私自身、いつも部活で大変だったり、テストがあって勉強をしないといけなかったりして、そういう話題に疎かったのもある。だからこそ、はっきり皐月の視線に含まれた感情が読み取れたことにびっくりしたし、興味を惹かれた。


皐月は、私の声を聞いた瞬間に目を見開いた。『どうしてそれを見られたの』、少なくともそう思っていることがわかって、これはつっこんじゃいけなかったかもしれない、と反省した。

「ごめ、見えちゃったから、」

咄嗟に謝罪の声が出る。あっけにとられていた皐月は、我を取り戻したように、いつもの笑顔を浮かべてみせた。

「私、そんなふうに見えたぁ?」

皐月は困ったなぁと空を仰ぎ、手に持った部活のポカリが入った紙コップをあおる。

いつもの皐月だ。よかったと胸をなでおろして、あのときはちょっと可愛かったな、なんて思いながら声を出した。

「ん、何か可愛かった。恋愛とか興味ないふうに思ってたから、こんな乙女みたいな顔するんだって…」


何気ないセリフは、紙コップが落ちてポカリがこぼれた音に遮られた。

ふいにぐっと両肩を痛いくらいに掴まれて、皐月がこちらを覗き込む。


「え…?」

「桃世、」

皐月の目は暗く、濁っていた。そんな瞳でこちらを真っ直ぐ見つめるから、怖くて、私は身を捩った。

「やめてよ、どしたの…」

「ね、私、そんなおちゃらけた顔してた?乙女、だっけ。そんなだらしない顔してたかな。」

皐月はどうやら、私の発言に腹を立てているらしい。肩に爪がぐいと食い込んで痛い。

あんたが『どんな顔してたか』って聞くから答えただけじゃない。どうしてこんな暴力振るわれなきゃいけないの。

私も皐月にあてられてカッとなる。『ごめん』と一言言えばよかったのに、私は皐月の腕をぐっと掴み返した。

「言われたことに返事しただけでしょ、何でいきなり掴みかかったりするの!」

「桃世がふざけたこと言うからだよ、親しき中にも礼儀ありってわかんない?」

「普通に見たまんまを言っただけだって。」

「は…」


そういったっきり黙り込んだ皐月は私を見た。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。どうしてそんな顔になるの!皐月の感情の起伏がわからない。怖い。

肩から手のひらが離れて、私の腕を振り払ってから、元の場所に戻っていく。

不可解なことが多すぎて、私はもう一度皐月の腕を掴む。このままじゃだめだ。

「ねぇ教えて。私謝るから。ごめん、皐月が何で怒ってるのかわかんないの。聞かせて。」

「私は‼」


顔を覗き込むと大きく逸らされた。長いポニーテールの先が腕にぴしっと当たる。

 

「私は恋愛とかしない…できないから…」


皐月は泣いていた。未だかつて泣いているところを見たことがなかった私は、どうすることもできなかった。振り絞るように言った皐月は、真っ白い肌に雫を落とすなり、ぼろぼろとあるがままに涙をこぼす。その姿は、コートで活躍するバレー部のエースではなく、私を守る気丈な友達でもなく、大きい子供のようだった。泣き方がわからない、感情のままに泣く子供。


「ごめん…でも、きっと桃世にはわかんない…」

「待って、」

皐月は私の腕を振り払って走っていった。すぐに追ったら間に合うかもしれない。でも、何て声をかければいいの。


、そう思っていたのは私だったのに。あんなに感情を露わにした皐月を初めて見た。でもあの言い方からして、ずっとそう思ってたんだろう。私と同じように…。


でも脳裏に焼き付いたそれは剥がせない。あの、グラウンドを見ていた皐月は、絶対に恋をしていた。経験したことはないけれど、「近づきたい」と「恥ずかしい」がせめぎあったあれは、まちがいなく恋だ。

なんであそこまで否定するの?私に嫌われるとか思ってるの?

…いや、違う。あれは、『私の知らない皐月』、もしくは『私に見せたくない皐月』に理由がある。何となく、確信する。


誰にも言いたくないこと、たとえ一番の友達だとしても、隠し通したいこと、それくらい人にはあるはずだけど、でも、


「あんなに拒絶しなくても…っ」


私は怖かった。皐月が私から離れていくのが怖かった。ずっと私を守っていてほしかった。そのかわりに、皐月を全て理解したかった。拒んでほしくなかった。全部言ってほしかった。どこか妬みがあったとしても、皐月が私を助けてくれるように、私も皐月に手を差し伸べたかった。


知らない間に目頭が熱くなる。皐月といつも通りじゃなかったら、私ってこんなに弱くなるんだ。羨ましいとか、思ってたのに、結局皐月なしじゃ、私…。

でも、今は泣く時じゃない。少なくとも、泣くときではない。

ぐいと目元を拭って水気を枯らした。

明日の部活で、しっかり謝らなくちゃ。明明後日の新学期には絶対、二人で楽しく学校に行くんだから。

私は落ちた紙コップを拾うと、しっかり歩きだした。

空には見えない朔の月が、静まり返った夜に闇を降らせていた。


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