5

 祭りの前日。とうとう池はすっからかんとなった。

 むき出しの地面は湿っているが、普段水の底で静かに眠っている地肌が泥で黒光りしているのを見ると奇妙な気分になった。しかもごみが多い。ただ多いと一言で片付けてよいものか迷うほどである。排水路の近くはことに無残だった。もはや泥と化した廃材置き場だ。瓶や缶は当たり前。他に袋と思しき塊、砕けた角材、縄のようなもの等が泥濘に浸かっている。ぼろぼろの自転車が二台もあったのには呆れかえった。

 準備を手伝えだのと朝から布団を剥がされて招集された訳だったが、詰まる所はただの掃除である。出がけにツナギに足を突っ込まされた時に確信した。心底気乗りはしなかったが、小遣いを弾むというから渋々引き受けた。

 重いものは大人が引き上げ、私たち子どもは空き瓶拾いといった軽い仕事を請け負った。しかしこれもなかなか多くて一苦労だった。土手から始めたはいいものの、池の内部のごみが数も質量も桁違いだった。一番ぶつくさと文句を垂れ流していたのは一蕾である。

「なんだって休みの日にこんな労働せにゃならんのだ」

「口調が変になってるよ」

「しっかし水が減ったのってもしかしてこれのためか? いやでも去年はなかったし、祭りも急に決まったんだよな。となるとやっぱり裏で何か……」

「先生もプール掃除って言ってたしねぇ」

 遥香が素知らぬ顔で言った。本当かなぁと尚も訝る一蕾は、父親に呼ばれて気怠そうに駆けていった。

 一蕾が不審に思うのも当然だ。時折雨は降っていたが、開放された場所に堪った水は、最近はまるでざるにでもかけられたが如く立ち所に空となっていた。だというのに社会における水分の供給は滞りがない。それが却ってこの引き潮のような現象におぞましさを纏わせていたように思う。

 ツナギはいつしか泥だらけになった。腕にも顔にも乾いた泥が貼り付いていて、隣の遥香を笑ったら鏡を見せられ、私の顔がもっと酷いのに大笑いした。

 ところで、池に張り出した東屋があった。仮の拝殿が設けられ、陽音はそこで手伝いをしていた。なんでも彼女は巫女姿で口上を述べるらしい。それから瓢箪を割って、中の水をぶちまける。それも盛大に。

「そこだけ急に荒いのよ。最初、信じられなくって耳を疑ったわ。そしたら前回の役だった人が『練習の時に手加減なしでやったら、簪落としちゃったのよ。あとで宮司さんに怒られちゃった。気をつけてね』って。余計眼が点になったわ」

 陽音は学校でそう語った。一々身振りで説明した彼女は、えいやとか言いながらまき散らす動きを練習していた。滑稽な演技がとても楽しそうだった。

 東屋の近くに来たとき、池の底から仰いでみると陽音はいそいそと祭壇の飾りを運んでいた。手を振って声をかけると彼女も気づいて見下ろしてきた。庇を越えて射し込む日光で髪と頬が白く映えていた。しかし私が見蕩れる間もなく、たちまち泥の顔を笑われたので私と遥香は一緒に空き缶を投げる振りをした。陽音は「勘弁して」と大袈裟に驚いて逃げていった。

 あらかた綺麗になった所で解散の号令がかかり、皆方々へ散った。私は友人たちと帰ると言って家族と別れた。

「あぁ疲れた」

 いの一番に声を上げたのは一蕾だった。ペットボトルのお茶を荒々しく喉に流し込んでいる。

「あっちこっち大変そうだったわね」

「陽音だけ泥まみれじゃないの、ずるくね?」

「そうよね。今からでも遅くないと思うの」

 私が一蕾に追従すると、二人の頭に一本ずつ遥香の手刀が落とされた。

「八つ当たりはやめなさい」

 いやでもなぁなどと尚もぶぅぶぅ言っている一蕾だったが、耳を引っ張られてとうとう温和おとなしくなった。

 並んで土手に腰を下ろし、枯れた蓮蛇の池を眺めた。相変わらず底はむき出しである。だが廃棄物はすっかり取り払われ、荒涼とした茶色は幾分見るに堪えるものとなっていた。

 陽音が手近にあった笹で船を作っていた。私も一つ作って、できた船は一緒に東屋の傍に添えた。一蕾がそれを神妙に見終えてからおもむろに言った。

「明日には水、戻ってんのかな」

「大丈夫よ。雨になって戻ってくるらしいから」と陽音が言ったが、彼女は一寸思案してから、

「口上の後、理沙に簪を渡すから近くにいてね」

「なんで?」

「さぁ。でも水云々は、簪を渡した人が帰ってきたら終わるって」

「え、私、どっかに行くの?」

「知らないわ。まぁ頑張ってね」

「えぇ……」と、私はおそらくここ一番の嘆息を吐いた。いつの間にやら変な役を押しつけられたようだ。祭りが終わった暁には小遣いを余分に請求しなければならない。

 西日が背中から当たって、池の底に四つの長い影が伸びていた。向かいの山から吹き降りてくる風が涼しくて、東の空が薄紫になるまで私たちは座り込んで談笑した。

 帰り際、陽音も誘って、和音の合わせをすることにした。陽音は一寸まごついていたが私と同じ音で歌わせた。大きな器みたいな池に聲が満ちるようだった。

「陽音の巫女姿、楽しみだなぁ」と茶化したのは私。

「やめてよ、緊張してきたじゃない」

「噛むなよ」と、一蕾が追い打ちをかける。

「だからやめてってば」

 斜陽に染まる陽音の顔がとても美しかった。驚いて振り返ると、不気味な程の赤い夕焼けに真っ赤な太陽が歪んでいた。

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