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 以後、変な夢を見ることはなかった。だが一方で奇妙な出来事が起こった。水が減ったのだ。

 溜め池や湖、学校のプールなど、蓄えられた水がそこここで減少した。残ってはいるから完全に消えたのではない。しかし、明らかな水位の低下があちらこちらで囁かれた。徐々に起こったことだから最初がいつなのかは分からない。そういえば数日前、雨上がりに陽音が「やけに水溜まりが速く乾くなぁ」と言っていたが、もしかしたら事の前兆だったのかもしれない。

 あまりゆっくりなものだから噂は種々に及んだ。地下に空洞ができたとか、未知の敵の謀略だとか、宇宙人が盗んだんだとか。傑作ともなれば、魑魅魍魎が柄杓で夜な夜な掬っているのだという荒唐無稽ぶりだった。

 面倒なのは、その辺の水がなくなるという事実が、生活用水の危機を予想させたことだ。そのせいで巷の飲料水が軒並み品薄となった。プチ・オイルショックである。水道局は当座の供給量には問題ないとの見解を出していたが、とはいえ多少なりとも生命に直結しかねない事態であるため、不安を覚えずにはいられない人も多かったに違いない。迷惑極まりない話ではあるが。

 そうこうして太陽が巡るうちに、じわじわと池の水が減っていく。私は陽音との登下校の道中にある溜め池--「蓮蛇れんじゃ池」と呼ばれていた--を眺めて適当な噂話をした。「この町、沈むんじゃないかしら」

「水が減っているのに?」

「ほら、潮が急激に引いたあとって、津波がくるらしいじゃない」

「一理ある。陽音はいい脚本家になれそう」

「馬鹿にしてるでしょ?」

 自動販売機があった。ある日の下校時、ふと見るとボタンには赤い「売り切れ」の文字が並んでいた。消費が速すぎて補充が間に合っていないのだろう。そんな中でも唯一残っていた品は、不人気さからきっと姿を消すと思われる。可哀想だから一本買った。しかし飲んでみると甘すぎて気分が悪くなり、もう二度と買わないと心に決めた。

 家に帰ると、段ボールいっぱいに詰められた二リットルのペットボトルが置いてあった。家族は念のための備蓄だと言った。母親が用意したらしい。

 蛇口をひねれば今でも極々普通に水が流れる。これといった変化はない。強いて言うならば夏が近づいてきて幾分温かくなったくらいだ。だから私には危機感というか、水不足に関する現実味を覚えられていなかった。

 それ故か、目の前に用意された一ダースのペットボトルは、迫りつつある恐怖を却って白々しく見せつけてくるようで嫌な気分になった。いや、帰路で胸焼けのするジュースを飲んだからに過ぎないかもしれない。だがいずれにせよ、愈々いよいよわけの分からない災いだか怪物だかが襲い来るんじゃないかと、そんな思惟が根拠もないのに頭をよぎったのは慥かである。

 そうなると、水という水の振る舞いが何らかの意味を持っているのではないかと勘ぐるようになる。馬鹿馬鹿しいと振り払っても、どうしても気になってしまう。

 シャワーや風呂の水を流せば「あぁ毎日文句も言わずに流れているんだなぁ」と値打ちのない思考を口から零した。下がっていく湯船の水位を眺めれば「これが戻ってきて呑み込まれたら嫌だなぁ」と気味の悪さを覚えた。かび予防で冷水を撒けば「水の底は冷たくて暗いんだろうなぁ」と怖気を感じた。それでも脱衣所に出て髪を乾かしているうちに自然と元の心情に戻っていくのが不思議だった。

 玄関近くに置かれた備蓄水をもう一度覗くと、水位は下がっていない。何の変哲もない。閉じ込められているのだから当たり前だ。しかし冷静になってみると、この程度の量でいったい何になるのだと思えてくる。

 四人家族だから一人三本。しめて六リットル。清貧生活でも水はいる。せいぜい二日か三日を凌ぐのが限度だろう。なんだか浅ましい足掻きのように思えて、実際どんなものなのかと父に尋ねてみたが、父は「無いよりはましだろう」と言った。確かにそうだなと腑に落ちた。

 だが最後の一言だけはまったく理解できなかった。父はこう言ったのだ。

「そうだ、一本だけは蓮蛇んとこの神社に納めるから」

 私は「あぁそう」とだけ返して寝た。

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