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「じゃあ、また後で」

 陽音はるねが教室の戸を開けながら言った。竹刀を担いだ後ろ姿が、颯爽と廊下を駆けていった。

 私は特別棟にある合唱部の練習場所に向かった。他の部よりも開始時刻を遅くしているが、なぜなのかは判らない。今更変えようとする風潮もないからそのままにしている。だが無理に早めて意欲を削がれては意味がないし、私も変えないで良い思う。ちょうど良い塩梅だから続いているのだろう。

 中庭を横切るとサツキがちらほらと咲き始めていた。モンシロチョウが二羽、戯れるようにしてあちらこちらと舞っていた。中央にある噴水は枯れている。入学式のときには吹き上がっていたように思うが、催し事の他は稼働しないようだ。雨が降った後だけは水が溜まるので庭園らしさがある。

 中央棟を抜けて特別棟へと足を向ける。比較的新しいそれは、上空から見ると中途半端に開いた蝶番のように、中央棟に対して斜めに建てられていた。なぜか天井の高さが違うので階が高くなると共に接続部分に階段がある。それを越えた所の廊下がいつも練習している場所だった。

 階段を登ると既に遥香はるか一蕾かずらが譜面台を立てていた。私を認めるなり「お疲れ」と声を掛けてきたため、私もオウムのように返した。それから電池式キーボードを取ってきて机に設置した。

「今年は新入生、一人かなぁ」

 遥香が窓外のプールを眺めながらぼやいた。横で一蕾が「かもなぁ」と言いながらメトロノームの撥条ぜんまいをぎりぎりと巻いた。話している内に部員が集まったので軽いミーティングをしてから練習が始まった。

 開始の慣例として、適当に選んだ音階の和音を部員皆で合わせるというのがあり、今日は変ロ長調だった。どの音かは決まっておらず、日ごとに順に割り振られていた。今日の私は第三音だった。これを終了時にも行う。担当の音はまたその時に決まる。この大雑把加減は私の好む所だった。

 特別棟の片隅に細々と続いている活動だが、私はこの部活が好きだった。学校が嫌いというわけではないが、勉強だのそれに付随する時間だのに縛られるとどうしても息切れが生じてくる。だからこの場所は憩いだった。各々の喉から飛び出した声が流れを持って宙を舞い、混じって一つになって、時には分かれて別とつがいになる。そんな音符の演劇を感じると悠久を漂う船に乗っている気分になれた。船は昔から救済と安寧の乗り物である。

「そういえば昨日の夜、変な夢を見た」

 休憩中、水筒を片手に一蕾が言った。

「なんか自分が水になった感じで、確かどっかの山を流れてて。そのうちに魚に食われて目が覚めた。たぶん鮎だろうけど」

 遥香が、本当? と意外な顔をした。

「私も似たような夢、見たよ。私は真っ暗な中で浮いてて、でも蛍烏賊が綺麗だった。しばらくしたら急に海の上に飛び出して何だと思ったんだけれど、引き上げられたんだろうね。満月が見えた瞬間に目が覚めた」

「まだ綺麗でいいじゃん。魚に食われるとか、僕は寝覚めが悪かった」

「それでいつも以上に辛気くさい顔なのね」

「ほっとけ」

「ねぇ理沙は?」

 私も今朝に見たと、雨になった夢を話した。「変なこともあるもんだなぁ」と一蕾は目をこすった。

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