第2話 素描

 家に着いた頃には、もうすっかり真っ暗になっていた。

 母は心配そうな顔をしたが、先回りして図書館で本を探していた言って、自分の部屋へ駆け込んだ。

「は…………」

 ドアを後ろ手に閉めて、一つ息をつく。

 別にあの白い男に義理立てしたわけじゃない。説明してもしょうがないことだし、ああ言った方が安心すると思ったから。ただそれだけ。

 でも本当を話したところで、信じて貰えるとも思えない。きっとますます心配顔をして、こっちの額に手を当てるに違いないからだ。

 ベッドに腰掛けて。鞄から件の色鉛筆を取り出してみた。

 魔法の色鉛筆。ご丁寧に箱にそう書いてある。文房具屋に普通に置いてあるようなデザイン。 ただ『魔法の』という一言があることを除けば。

 うさんくさい。

 一言で言うとそうだ。

 あの格好や話し方からしてそうだが、よりにもよって魔法の色鉛筆なのである。 しかし、その『魔法』という言葉には、理屈や通念を無視した惹かれるところがあるのも事実だった。

「ものは試しっていうから」

 そう言って、里美はスケッチブックを取り出して、ひざの上で広げた。語尾が楽しそうに跳ねていたことに、本人は気付いていない。


 ——絵に描いたものがその通りのものに、そう本物になるんだ。


 白いコートを身に纏った男は、確かにそう言った。

 絵が本物になる。

 それなら何を描こう。

 たとえば、食べ物を描いたら、ちゃんと食べられるのだろうか? ショートケーキは本当に甘いのだろうか? 見かけだけで、紙の味とかがしないだろうか?

 そんなことを思いつつ、赤い色鉛筆を手に取る。元々絵を描くのは好きなのだ。

 とりあえず、リンゴでも描いてみよう。

 半信半疑ながらも魔法の効果に期待を膨らませて、白い紙面に色鉛筆を走らせた。 件の男は下手でも問題ないと言っていたけれど、上手に描くに越したことはないだろう。

 ややもせず、スケッチブックには実物大のリンゴが描かれていた。何も見ないで描いたにしては、かなりの出来映えと言っていい。

 色鉛筆を置く。

 完成を宣言したつもり。

 男の言うことが本当なら、リンゴがスケッチブックから浮き上がり"実体化"するはずだ。

 絵は完成している。

 赤一色ではなく、ヘタや太陽が当たりにくい下の色の薄いところもしっかり描いてある。

 里美は高まる期待を隠さず、絵を見つめた。

「………………」

 何も起こらない。

 少しだけ待ってみたけれど、何も変わらなかった。

「……はぁ」

 ためいきが出る。 信じていた自分が馬鹿らしくなりかけたところで、ふとやり方が悪かったのかもしれないと思い直した。

 なにせ、魔法だ。

 ちょっとしたことで成功しなくなるのかもしれない。ちょっとしたことが失敗を招くのかもしれない。

「じゃあ……」

 下りてきた髪をかき上げ、里美は想像と色鉛筆を動かした。試せることは幾つもあったし、夕飯までの時間はまだあった。

 素描エスキースの奏でるささやかな音律が、彼女を包んでいった。



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