2.サインすればいいようです
もう夕食は済ませた、今日は疲れたと言い、
「……あ、
『何か? 何よ、第一声がそれ? ひどいじゃない』
笑いを含んだ艶っぽい葉月の声が耳に届く。いつもならそれだけで欲情する健太だが、今日はそんな気分にはなれない。
「里子の様子がおかしい。おまえが何かしたんだろ」
『何のこと? 何かしたって、何を?』
「あいつ、俺のこと忘れてるんだよ。南警察署の遺失物係まで
『えっ、健太のこと忘れたの? 本当に?』
「ああ。全く覚えていないらしい」
電話越しに、彼女の抑えた笑い声が小さく聞こえる。健太の苛立ちは止まらない。
『確かに私が彼女に大脳皮質を渡したけど、そんなの私のせいじゃないわよ。誰かがクリーンアップでもしたんじゃないの? 別にいいでしょ、それを理由に離婚できるんだから。子供いなくて養育費もいらないんだし』
「離婚か……」
『健太、離婚したがってたでしょう? あんな女より私の方がいいって言ってたわよね。離婚したら体も許してあげるけど?』
「あ、ああ」
『なぁに、いつもは積極的なのに。変な人。あなたも大脳皮質クリーンアップしてみたら? 時間もそれほどかからないし、記憶を整理できていいわよ。案外、あなたもあの女のこと忘れるかもね』
「……いや……」
『……ねえ、何が怖いの? あの女を忘れること? それとも私を忘れること?』
言い淀む健太に、葉月は機嫌良さそうに明るい口調で問う。まるで、その答えを知っているかのように。
「き、きみを忘れるなんて、そんなこと……あるわけない」
『自由になるには、あなたの
健太の言葉を聞き少しの間を置いてから、葉月は一段階低い声できっぱりと言った。
「と、とにかく、また連絡するから」
『ええ、待ってるわ』
また機嫌の良い声に戻り、葉月が電話を切った。手に持った携帯電話に視線を落とし、健太は呆然と立ちすくむ。
「……
◇◇
翌日の朝、
「離婚、か……。このまま結婚生活を続けていたら、どうなるんだ……」
健太は、里子を気に入っている。その人形のように整った顔立ちと、長く伸ばしたまっすぐな黒髪と、自己肯定感の低さを。命令すれば、本当に人形のごとく言うことを聞くのだ。口答えなど一度もされたことはなかった。それなのに、昨日のあの態度は何だと、思い出すたびに焦燥と苛立ちが募る。
「最近、優しくしていなかったからか?」
時々優しい態度で接しておかないと里子に逃げられてしまうということは、わかっているはずだった。しかし、葉月と付き合うようになってからは、それも面倒になっていた。
葉月と知り合ったのは、三ヶ月前だった。本屋で手に取ろうとした本に同時に手を伸ばしてきたのが、彼女だった。ほんのわずかに触れた指先から瞬間的に全身へ電流が走ったかのように、強烈に彼女に惹かれた。南国のフルーツにも似たしっとりと甘い香りも、くるりとウェーブを描く赤茶の髪も、長いまつげを持つ猫のような目も、しなやかな指先も、きゅっとくびれたウエストも、細い足首も、艶めいた声も、何もかもが魅力的だった。恋に落ちるには時間など必要なかった。が、口説くための日数は長く費やす必要があった。やっと先月、誕生日祝いの高級レストランの個室でキスできた程度には。
ソファでうなだれながら思考を巡らせていた健太は、ぱっと顔を上げるとばたばたと準備をし、玄関を出た。
◇◇
「私は離婚届にサインすればいいですか?」
「ああ、そうだ」
「別に構いませんが、一応理由を教えてください。私があなたのことを忘れたから、ですか?」
「理由……、ええと……、そういうわけじゃないんだが……」
「違いますか。ではもしかして、別に好きな人でもいるんですか?」
「……そういうわけでも……」
「じゃあ、何が理由ですか?」
「自由になりたいと思って」
「……本当に私は構わないのですが、そういう理由で離婚しても、いいものなのでしょうか?」
「あ、ああ、それはいいんだ。俺の希望だから。慰謝料はここに」
リビングのローテーブル越し、斜向いに座る里子に、健太は大きくうなずいてから札束が入った封筒を差し出した。
「こんなに? いいんですか?」
「いいんだよ、受け取ってくれ。その代わり、今度一切俺に干渉しないでほしい」
「はい、わかりました」
「じゃあ、このマンションはきみの名義みたいだから俺が出て行くよ。ああ、明後日の予定だが、引越し業者と一緒に荷物を取りに来るのくらいは許してくれ。鍵は最後の荷物を運び出したら返すから」
無機質な声で今後の予定を話す健太を、同じくらい無機質な目で里子は見つめる。
「ええ、それで大丈夫です」
「まずはビジネスホテルに移動しないと。世話になったな、
「……はい、お疲れ様でした。お元気で」
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