遺失物係 ―クリーンアップのススメ―
祐里
1.あなたのことは忘れたようです
「
「はい」
名前を呼ばれ、
「市民登録情報と照らし合わせて本人確認をします。生年月日を教えてください」
「二〇二五年、八月二十日です」
「……はい、確認できました。では忘れ物を渡しますので、まずは元に戻してください」
「はい」
窓口の女性は里子に、飾り気のない透明のビニール袋に入った大脳皮質を手渡した。里子はすぐに袋から取り出し、うなじを隠している髪を上げると首筋の生え際に横向きに取り付けられているファスナーを開けて、中にしまい込む。通常、大脳皮質は大脳を覆っているため、再度覆い直すという作業は手間がかかるものだが、里子は手慣れた動作ですいすいと作業を進めた。
「……戻しましたか? どうですか、ご自分のものでしょうか」
「はい。中枢神経の拒否もなくて
「では、受領書にサインをお願いします」
「は、はい。……ボールペン、ボールペン……」
「こちらを使ってください」
「あっ、ありがとうございます、すみません」
女性がすっと差し出したボールペンは里子の手にうまく渡らず、カツンと音を立てて床に落ちた。ほんの一瞬、女性の眉間にしわが寄る。
「ご、ごめんなさい。……えっと、サイン、サイン……」
「……こちらです」
落としたボールペンを慌てて拾い、女性が人差し指で指し示す箇所に名前を書く。
「……すみません……、これでいいですよね?」
「はい。ではお気を付けて」
女性の顔と『三好葉月』と書かれた名札を見てから礼を言うと、里子は遺失物係の事務所の扉を出た。
九月に入り、外には爽やかな風が吹き始めるようになった。今日も午後三時の日差しの暑さを、そよそよと吹く風が和らげている。
「ああ、よかった」
里子は小声の独り言を漏らすと半袖のワンピースの裾を翻し、駅までの道のりを軽やかに歩き始めた。
◇◇
里子が自宅に戻り、数時間後に夫の
「……遅いな……」
いつもならすぐに里子が扉を開けて出迎えるのだが、いくら待っても玄関は閉じられたままで、誰かが出て来る気配はない。仕方なく何度かドアチャイムを鳴らすと、「……はい……?」とか細い声がインターホンから聞こえてきた。
「俺だよ、何やってたんだよ」
「……どなた様、ですか……?」
「いや、俺だって」
「……おれ、様……?」
「……もういい」
健太がビジネスバッグの奥底に入れておいた鍵で扉を開けると、廊下の隅でがたがたと震えている里子の姿が目に入った。
「あなた何なの!? 入って来ないでっ!」
「おい、里子、一体どうしたんだ」
「な、何で私の名前を知ってるんですか!? 警察呼びますよ!」
「け、警察って。……おまえの夫だよ、健太だよ」
携帯電話を片手に握りしめ、里子は健太に向かってかすれ声で賢明に叫ぶ。妻の常軌を逸した姿に驚きながらも、健太は努めて冷静に言葉を発した。
「……夫……?」
「ああ、夫の健太だ。二年前に結婚しただろ?」
「ほ、んとう、に……?」
「ほら、結婚指輪もあるだろう? おまえのとお揃いのはずだ」
里子が自分の左手の薬指を見ると、指輪がはめられている。ぱっと見た限りでは、確かに男性が眼の前に差し出している左薬指のものと同じデザインのようだ。
「あ……、これ、結婚指輪なんですね。そういうことですか……。おかしいなと思ったんです、家に帰ったら何でも……歯ブラシとか食器とか、何でも二人分あったので」
まだ震えてはいるが、里子は落ち着きを取り戻したようだ。怯えた様子が少しずつ鳴りを潜めていく。
「……まさか、俺のことを完全に忘れているのか……? 昨日までは普通だったのに。今日は、何をしていたんだ?」
「えっ、あ、その、大脳皮質を落としてしまって……取りに行ってました」
「落とした? ファスナー壊れてるんじゃないか?」
「ファスナーは別に壊れていないみたいです。ちゃんと閉まったので」
「そうか。で、どこで落としたんだよ」
廊下から動こうとしない里子の横を通ってリビングのソファにどかっと腰を下ろすと、健太はネクタイをゆるめた。
「南警察署の近くですけど……たぶん朝、出勤する前に……」
「……南警察署?」
一瞬だけぴくりと動きを止め、健太は少し声を落とした。
「そ、そうです」
「遺失物係に取りに行ったのか」
「はい。大脳皮質がないと仕事にならなくて、有休を取って……」
健太と話すために里子もリビングに戻ったが、ソファには座らず立ったまましゃべっている。健太はそんな里子を見て、舌打ちをした。
「何でそんなに迂闊なんだよ。気を付けろっていつも言ってるだろ」
「……覚えていません……」
「ああ、そうだ、何で俺のことを忘れたんだよ」
「わかりません。……何でそんなに責められないといけないんですか?」
普段は従順な里子が、健太に口答えする。「……は?」と言いながら健太が睨んでも、まるで引く様子はない。
「私は別に悪いことなんてしていませんけど」
「……俺は心配してやってるんだぞ。もういい、風呂に入る。今日の晩飯は何だ?」
「用意していませんけど」
「ああ……、くそっ、とにかく風呂だ」
「沸かしていませんけど」
「……シャワーでいいよ」
これまではおどおどしながらも何でも言うことを聞いていたのにと、里子への苛立ちを隠そうともせず、健太は荒い動作でソファを立った。
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