3.雲海への下降

 自分の足下すら霧に飲み込まれ、どこを向いても真っ白な視界。

 ひっきりなしに吹き荒れる風。

 頬を切り裂くような冷気。


 そんな中で、ロープ一本に命を預けている自分。



 ――一体、俺は何をやっているのだろう。



 ヴォルはロープにしがみつきながら、ちょっと冷静になって自分を顧みた。



 何をやっているかは明白である。「世界の果て」にロープを垂らして、懸垂下降しているのである。

 いつ果てるともしれぬ、雲海の奈落へ。



 笑ってしまうことに、この自殺行為にはお供がいた。雲に遮られて見えないが、少し離れたところで、少女も同じように、世界から下りているのである。


「よっしゃー! がんばれおっさん! あともうちょっとだよー!」


 吹き荒れる風の音の中、その少女の声がかろうじて聞こえる。そんなに離れていないはずなのに、あの世から聞こえてくるかのように遠い。



 ――なぜ俺は、こんなことをしているのか。



 なぜ? 依頼だからに決まっている。


 問題はそこじゃない。なぜこんな依頼を引き受けたか、だ。

 まともな人間は、世界の果てから身投げする依頼なんて引き受けないだろう。


 そして俺はまともな人間、のはずだった。

 地道に仕事して、地道に稼いで、酒場でちょっと飲む。


 この状況はまともじゃない。


 そもそも本当にこの下に何かあるのか? 実は何もありませんでした、というオチなんじゃないのか? あの変な少女の言うことが本当だという保証がどこにある?


 なんで俺はあんなよくわからん奴を信用して、こんなことをやっているのだろう。


 自分でもよくわからない。

 少なくとも、これは俺のモットーである、「地に足をつけた仕事」でないことだけは確かだ。



 ――いや、そうでもないか?



 ヴォルは「世界の果て」の崖を両足で蹴りながら、笑った。

 その笑みが何を意味するのかは、笑った自分でもよくわからなかった。



 ――と、唐突に、ヴォルの身体がなにかに掴まれた。


「いやー、お疲れ。よくやったね。ゆっくり下りてね。もう地面だから」


 それは少女だった。

 少女はヴォル身体を抱えるようにして、下りるべき位置を調整してくれているようだった。それを信じて、ゆっくりロープを下ろす。


 すると、確かに足が何かに着いた。さらにロープを下ろすと、視界真っ白で何かはわからなかったが、とにかく全体重を安心して預けられるような、しっかりした地面らしきものがあることはわかった。

 そのままゆっくりと下りると、ヴォルはその場に崩れるようにへたり込んだ。


「よーしよしよし。ちょっと休んでもいいよ。でも、ここからが本番だからね」


 言いながら少女は手早くヴォルからロープを解いていく。


「しかし、なあ」


 ヴォルは、今まで下りてきた道のりを見上げながら言った。もちろん真っ白で何も見えはしなかったが。


「なんでここに入り口があるって知ってたんだ? 下りたことあるのか?」


「ないよ」


「えっ? じゃあなんで……」


「図面とか地図とかから計算したんだよ。この辺にでっかい開口部があるってね」


 じゃあ、もし計算が間違っていたら……と、言おうとして、ヴォルはその言葉を飲み込んだ。

 それはあまりにも恐ろしい。


 しかし、代わりにひとつ、疑問が浮かんだ。


「ところでさ」


「はい?」


「どうやって帰るんだ?」


 訊かれた少女は手の動きを止め、息を呑んだ。


「おいおいおい!」


 ヴォルは思わず少女にしがみつくようにする。


 ――と、少女は、ニヤニヤと笑いながら、再びヴォルの装備を外し始めた。


「なーんてね。大丈夫。帰り道はちゃんとあるよ。神様だって、毎回ロープにしがみついて上り下りしてたんじゃ大変でしょうよ。

 ちゃんと地上と行き来できる道があるよ。いろいろあって、行きでは使えなかったから、崖を下りるしかなかったんだけどさ」


 それも図面で見ただけで、本当にあるか、今でも使えるかはわからないんだよな、ということは、ヴォルは確かめないことにした。

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