Who?

秋野 圭

Who?

「残業してる時って、頭の片隅でどうでもいいことを考たりしませんか」

 俺は隣に座る先輩社員の優香さんに話しかけた。

「まぁ……わからなくはない」

 優香さんは薄く光を放つモニターから目を離さずに頷く。

「それでですね、実は俺には」

「あ、ちょっと待って」

 優香さんは俺の話を遮ってパソコンを凝視する。しばらく操作をしてから「うん」と頷いてから「それで?」と俺に話を戻した。

「いや……なんかもういいです。忙しそうなんで」

「なんで。言ってよ」

「興が削がれました」

 なんだそれ、と優香さんは笑う。

「あ、でも今あんたが考えてることはわかるよ。『残業つれ~』でしょ」

「深夜一時になっても仕事してる人で考えない奴いますか?」

「まぁ、それはそうだ」

 中身のない会話に肩の力が抜ける。昼間の仕事場では決してすることのない間抜けな会話だ。

 ここはデザインコンサルの会社で、俺は顧客の運営するマガジンの記事を編集していた。優香さんは別の通販会社に関する数百にのぼる商品画像と戦っているらしい。

 俺たち二人をのぞいて職場にはもう誰もいなかった。俺と優香さんの座席は隣り合っており、二人の頭上にだけ照明は灯されている。俺たちだけを残して周囲は薄闇に隠れており、静寂が満ちていた。

 俺は大きく息を吐いて肩を回す。夜通しの作業でさすがに体が疲れを訴えていた。そんな俺を優香さんは一瞥した。

「一旦モニター消して休みなよ。朝まではまだ時間あるんだからさ」

「そっ……すね。お気遣いありがとうございます」

「隣でデカい溜息されると、こっちもしんどくなるからね」

「めっちゃ嫌味じゃないですか」

 俺はパソコンをスリープモードにして、椅子の背面を寝かせて仮眠の準備をする。しかし優香さんは仮眠をとる気配はない。

「優香さんは休まないんですか?」

「私は慣れてるから」

「嫌な慣れですね……」

 俺は苦笑いを浮かべながら、椅子にもたれて優香さんの背中を見つめた。マウス操作のためか彼女は右肩だけが少し上がっていた。

 俺はぼんやりとその右肩を見つめながら声をかけた。

「……ねぇ、優香さん」

「なに」

「さっきの話の続き、していいですか」

「さっき言いかけた、仕事中に別のこと考えちゃうってやつ?」

 優香さんはキーボードを叩きながら、俺の方を見ずに聞いた。

「そうです。このまましゃべってないと、たぶん朝まで眠ってしまいそうなんで……ちょっとだけ、話に付き合ってくれませんか? 仕事をしながらでいいです」

 優香さんは少しの間黙ってから、頷いた。

「いいよ。聞いてないかもしれないけど」

「それでいいです」

 俺は少しホッとして、彼女の背中を見つめながら口を開いた。

「実はですね、俺には姉がいたんです」

 少し間を置いてから、俺は息を吐いて言った。

「この脳みその中に」



 俺の頭の中に姉が現れたのは中学一年生の時、父から流産について聞かされた日からでした。

「なぁ、なんで俺以外に子ども作ってくれへんかったん? 弟が欲しかったのに」

 その時の俺は漫画に登場した兄弟キャラクターが好きで、なんとなしに父に尋ねたんです。父は炬燵に入りながら、テレビで放送されている野球の試合を眺めていました。

「あぁ……お前が生まれてくる三年前やったかな。その時に母さんが流産したんよ」

 父親はテレビから目を離さないまま、まるで試合の途中経過を話すように淡々と答えました。

「女の子やったって話やから、もし今も生きてたらお前のお姉ちゃんやな。ハハ」

 父の乾いた笑い声を今でも覚えています。

 今から思えば、もしかしたら悲しい記憶に蓋をするために無理矢理笑っていたのかもしれませんね。

 でも、どうしてそんな風に笑うのか当時の俺にはよくわかりませんでした。その時は流産という言葉にピンときていなかったのかもしれません。

 ただ、ちょっとワクワクしました。

『もしかしたら俺には姉がいたのかもしれない』

 その想像は中学生の俺にとって魅力的でした。多感な学生時代、乏しい想像力を使って飛び込む空想世界ほど楽しいものはありません。

 もし姉がいたとしたらどんな人だったのだろうか、と何度も夢想しました。

 俺と同じ茶色の目をしているのだろう。柔らかな頬と目元がきっと可愛らしい。

 きっと姉も静かな人だったのかも。

 もし勉強が得意なら俺が答えを迷った時に教えてくれるような人だといいな。

 喧嘩はするだろうか? 姉のいる男友達はしょっちゅう喧嘩をするらしい。優しい人だといいなぁ。

 俺は想像をどんどんと膨らませていきました。そうしていくうちに、赤ん坊というものが母の腹の中で、どうやって生まれてくるのか気になり、調べました。そこで俺はやっと『流産』についても理解したんです。

 女性の子宮の中で胎児は育ち、胎盤から栄養をもらって産まれてくる。しかし何かしらの原因で腹の中で死んでしまうことがある——それが流産。

 そうした仕組みを知った時、俺はやっと『流産した姉の死』というものをリアルに感じることができたんです。母親のあの腹の中に、姉と俺はいた。世界で二人だけがあそこにいた。——だけど、姉は産まれてくることは叶わず、俺だけがこの世に落ちてしまった。それは不思議なようでいて、同時にちょっと怖いと思いました。姉が死んだ場所で俺が生成されたという事実をまざまざと想像してしまったんです。

 そうして、ふと思いました。

 ——もしかしたら、流産した姉は腹の中に何かを残していたんじゃないか?

 ——そして俺の中に、その何かが紛れ込んでいるんじゃないか?

 例えば、姉になるはずだったいくつかの細胞と魂。それが母の腹の中に残っていたとしたら、その後生まれてきた俺の中に混じっていたとしても不思議じゃないと思ったんです。

 俺は生まれてきた時3800gだったと聞いたことがありました。男児の平均体重が2980gなのでかなり大きかったみたいです。

 で、思ったんです。この平均体重との差である820g。

 これが『姉』なんじゃないか。

 むしろそうであってほしい。俺の中に姉の名残があってほしいと、その時の俺は思いました。

 その頃、俺はとあることに悩んでいたんです。

 優香さんだからもう言っちゃうんですけど、俺、男が好きなんですよ。そして俺は自分のそういう性嗜好に悩んでいました。

 そんな時に思いついた『俺の中に混じった姉』という考え方は、当時の俺にとってすごく馴染んで、気持ちを楽にさせてくれたんです。

 俺の中に女がいる。

 そう、姉がいるのであれば、男を好きになることも自然なことなんじゃないか?

 今から思えば嫌な考え方かもしれませんが、当時の俺にとっては大事なことだったんです。それだけで生きる言い訳ができたんですから。

 それからというもの、俺は心の中の姉と共存しながら生きてきました。

 姉は俺の想像通り、静かで優しい人でした。

「ねぇ、この問題がわかんないんだけど」って聞いたら、姉は頭がいいので答えを教えてくれました。

「なんか面白いことないかな」って暇を持て余していたら話し相手になってくれました。

 たまに喧嘩することもありましたが、最後は俺の希望を優先してくれるような人でした。

『仕方がないね』

 それが姉の口癖でした。——俺にとってあまりに都合のいい存在。それが姉だったんです。



 中学を卒業して、高校、大学へと進学していきました。もちろん、姉も俺の中で同じように成長していきます。段々と大人びていって、俺よりも理知的で大人っぽい人になっていきました。

 そうすると彼女も恋をするようになりました。大学生になった時、姉に好きな人ができたんです。

 同じ大学に通う、別の学科に在籍していた男でした。

 知り合ったきっかけは大学で入ったフットサル部です。いい奴ですぐに友達になりました。

 だけど姉はそれ以上の関係を俺に求めるようになりました。

 正直、俺は乗り気じゃありませんでした。だってタイプじゃなかったんですよ。

 俺も姉も男が好きですが、やっぱり二人とも好きになるタイプがあって、残念ながら俺たちはそのタイプが一致しなかったんです。まぁ、悪い人ではなかったんですけどね。交流を重ねてもやっぱりタイプじゃない。

 俺が「あいつ、確かに顔はいいけど部屋は汚いぜ」と言うと、

 姉は『でもあんたほどじゃないでしょう』って笑います。

 俺が「あいつ、どんくさいぜ?」と言うと、

 姉は『でも料理はうまいし、筋肉あるじゃない』と笑います。

 俺が「顔立ちのわりに毛深いぜ」と言うと、

 姉は『ワイルドってことね』と笑います。

 姉は俺の言葉など聞く耳を持ちませんでした。

 そうやって男と会っていくうちに、驚いたことに男の方が俺に告白しました。そして、さらに驚くことに俺は嫌だと思わなかったんです。

 俺にはそれまで俺のことを好きだなんて言ってくれる人に出会ったことがなかったんですよね。だから、男に愛を囁かれた時、好きでもなかったのに舞い上がって……今にして思えば、最初からそれが姉の策略だったのかもしれません。

 結局俺はその男と付き合うようになりました。キスをして、何度かお互いの家に行き来するようになって、そして一ヶ月目にセックスをしたんです。

 でも、結局それで俺は冷めちゃいました。

 だって、どうしたってタイプじゃないんですから。雰囲気に流されて来たけど、結局俺の好きには合致しなかった。セックスした時にもう無理だって確信したんです。

 その後、俺から別れを切り出しました。男は悲しそうに理由を聞いてきたんですが、俺も答えられなくって、男には悪いんですが逃げたんです。

 男とはそれっきり会っていません。悪いことをしたとは思うんですが、あれ以上続けてもお互いのためにはなりませんでしたから。

 ——問題は姉でした。

 俺は姉に相談なく男のことを振ったんです。彼女はその日からずっと俺のことを責めるようになりました。

『なんで? どうして勝手に別れたの?』という問いから始まりました。

『信じられない』

『馬鹿じゃないの』

『ねぇ、私の意見もちゃんと聞いてよ? 私は別れたくなかったのに』

『屑』

『あんな男他にはいないのに』

『ねぇ、ねぇ!』

『おまえさぁ』

『どういうつもり』

『ふざけんなよ』

『また考えなしにやったんだろ』

『おい』

『ねぇ』

『どうして』

『あんたが私と彼の仲を引き裂くの?』

『私のことも尊重してよ!』

 ……どこにいても姉の声が俺を追いかけまわしてきます。

 外を歩いている時、トイレの中で排便している時、風呂でくつろいでいる時、食卓でご飯を口にしている時、友達と話をしている時、そして夢の中でも……どこにいても姉の問い詰める声がするんです。

 逃げ場なんてありません。だって姉は俺の心の中にいるんです。この体に混じっているんです。彼女の暴言を受け止めるしか選択肢がなかったんですよ。

 その時になってようやく、俺は『こいつ』がおかしいと思ったんです。

 俺が姉と呼んでいた、この俺の中で蠢く『何か』。

 そもそも、姉が『俺の好みのタイプと異なる男性を好きになった』こと自体が、おかしかったんですよ。だって姉は俺の『同性愛嗜好の言い訳』のために生まれた存在だったんですよ? いつの間にか俺の本来の気持ちと乖離した、別の人格になっていたんです。

 ……でも、そんな疑念を抱きつつも、俺はすぐに姉のことをどうにかしようとは思いませんでした。

 七年間一緒に生きてきた仲だったんです。励まし合って生きてきた姉弟だったのですから。

 しかしやがて、俺は姉の暴言に耐えきれず、初めて彼女にささやかな反抗をしました。

 ——心の中に扉を作ったんです。

 姉と共存していきたい……だけど姉の声を遠ざけたい、彼女から逃げるための居場所がほしい。そんな矛盾した気持ちが、彼女との間に一つの薄い扉を作ってくれました。

 俺は扉を閉めて姉から逃げました。さすがに姉もその扉を蹴破ったりすることはなく、次第に落ち着いたのか、男とよりを戻そうとすることを諦めてくれました。

『ごめんね。あんたは最初っから嫌だって言ってたもんね。私が付き合えたからって熱に浮かれてしまって、あんたの気持ちを考えてなかったのが悪いよね。ごめんね。次からは気を付けるから』

 そう言って謝ってくれました。だから俺も謝って、これからは二人で話し合って決めようとお互いに約束したんです。

 でも、俺たちの間にできた扉は消えることはありませんでした。



 俺は就職を機に上京しました。初めての一人暮らしです。

 しかしこの頃から姉はおかしくなっていきました。

 心の中の扉を叩くようになったんです。

 とんとん、と扉がノックされるので開けると、姉がひょっこりと顔を覗かせてきます。

「何?」って問いかけると「なんでもない」と笑います。

 最初は可愛らしいと思いました。だけどそれが何度も続くのです。

 何度も、なんども。

 姉は俺のことを監視したかったのです。

 だんだんと俺は姉の優しさが、声が、笑顔が怖くなってきました。

 仕事中にコンコン『何してるの?』。これから会議だからコンコン『ねぇ、姉さんと遊ぼう』。会議の前にトイレに行っておいてコンコン『あ、今夜の晩御飯はどうする?』。会議中はこの前の議題について上司に確認してコンコン『ねぇそういえばさ』。はい、今月の売上は上々ですが来期の注残を考えるとコンコン『私を中に入れて』。やめてくれコンコン『どうして私を中に入れてくれないの』。すみません、先輩、違うんです、すみませコンコン『ねぇ、そんなの放っておいて昔みたいに遊びましょう』。違います、部長に怒鳴ったんじゃなくコンコン『ねぇ』俺おかしくなっちゃったんですかコンコン『ねぇ』早退しますね、明日はコンコン『開けて』もう、俺、げんかいコンコン『姉さんを』ごめんなさい、ごめんなさコンコン『入れて』許してゴンゴン『はやく』。

 扉のノック音はいつの間にか殴る音に変わっていました。

 扉には鍵なんてありません。俺が必死にドアノブにしがみついて、ドアが開くのを止めました。

「やめてくれよ、まだあの男と勝手に別れたことを許してくれないの?」

 俺がそう聞くと彼女は笑うんです。

『もうそんなことどうでもいいんだよ』

 扉の向こうで吐き捨てるように言いました。

「ならどうしてこんな風に俺を追い詰めるんだよ、ひどいだろ」

『あんたは馬鹿なの? 優しくしないと都合の悪いこと全部私のせいにするよねぇ。あんた自身の問題だとどうして気づかないの?』

「俺はどうすりゃいいんだよ。あの男と勝手に別れたことは謝るから……」

 心の中、扉越しに姉のため息が聞こえました。

『……本当に人の話を聞かないのね。まぁ、あんたはまだ人を好きになったことがないもんね』

 最後のセリフは、俺のことを馬鹿にするみたいに姉は嗤って言いました。

 その言葉を聞いた時、俺の中に冷たい血が湧いたんです。

 どれだけ姉に侮辱されても俺は悲しいだけでした。

 でも、姉に『あんたはまだ人を好きになったことがないもんね』と言われた瞬間、脳の中から蛇のようなものが這い出てきて全身にまとわりついたんです。

 だって、俺は初恋をしたことがあったんですから。

 中学一年生の時、俺はクラスで出会った男子生徒のことを好きになりました。そして自殺を考えるほどその気持ちに苦しめられたんです。

 そうして思い出しました。その時のあの苦しみこそ、俺の中で姉が生まれた原因だったってことを。——俺が初恋をした時、姉はまだ俺の中にはいなかったんです。こいつは元々俺の中にいたんじゃない、後から寄生した『何か』だったんです。

 その時、俺は彼女を殺す覚悟を決めました。

 もう扉は限界でした。その向こうでは何か大きな醜い塊が膨れ上がっていて、今にも破裂して扉が決壊しそうな状態だったんです。

 だから、俺は切り捨てることにしたんです。

 820g——それが俺の中にある姉の重みです。

 手首を切って、そこから血と肉を掘り出して水桶の中に浸す。指で血管を圧して傷口から血を流しました。ただひたすら姉をこの体から追い出そうとしました。

 血を流すほど扉を叩く音は小さくなっていきました。俺は薄れていく意識の中で、鉄臭くなっていく浴室の中で、ずっと泣いていたのを覚えています。姉が扉の向こう側で弱っていくのがわかっていたからです。

 やがて、扉を叩く音は消えました。



「……それで?」

 優香さんはモニターから顔を上げずに聞いた。

「それでおしまいです」

 俺は膝を抱えるように椅子の上で丸まった。

「気づいたら病院のベッドの上でした。看護師さんに聞いたら、俺は救急車に運ばれて一命を取り留めたということでした。俺の中から抜かれた血液は1ℓほどで、わりと危なかったみたいです。……それからというもの、俺の頭の中では姉の声が聞こえなくなりました。血と共に彼女は俺から本当に抜け出てしまったんです」

 姉だった『何か』は消えた。俺は血液を捨てることで彼女を解き放ち、静かな勝利を勝ち取ることができたのだ。

「でも」

 俺は自分の手首に残った切り傷を指でなぞりながら言った。

「疑問が残るんですよね」

 今でも鮮明に思い出せる。水面を漂う帯状の血液の軌跡。そして意識を失った時、頭がふわっと軽くなった酩酊感と瞼の裏の暗闇。

「俺は確かにあの時、失血によって意識を失っていたんですよ……でも、だったらどうやって救急車を呼んだんでしょうか」

 優香さんの座る椅子がギシリと音を鳴らした。

「俺が倒れている時、誰かが傍にいたんです。そして俺のための救急車を呼んでくれたんですよ。でも、俺を置いてその人は出て行った」

「……何が言いたいの?」

 優香さんが振り返った。今日初めて見た彼女の顔は疲れでやつれた弱々しい表情だった。その顔がさらに翳っているように見える。

「まるで、お姉さんが呼んだような言い方だけど」

「やっぱりそう思いますか?」

 俺は身を乗り出して優香さんに聞いた。彼女は少し身を引いた。

「そうですよね。そうだと俺も思うんですよ。姉が俺の中から解放されて俺を助けてくれたんです。きっとそうです。そして今も生きて自由に生活をしているんですよ、きっと、必ず、ここで」

 優香さんは戸惑うように俺を見る。

「それで、長々とあんたの自分語りを聞かせてもらったけど、結局何が言いたいわけ? もう眠気は飛んだでしょ。早く仕事を終わらせなさい」

 そんなことを言う彼女に俺は首を傾げた。

「え、なんで逆に俺の言いたいことがわからないんですか?」

 俺は優香さんの顔をまじまじと見つめる。

「あなたが俺の姉さんじゃないですか」



 優香さんは姉によく似ていた。

 仕事中に曲がる猫背、少し上がる右肩、柔らかな頬と目元、茶色の目。

 自殺未遂の後、すぐに会社は辞めて今の仕事に転職した。そこで働き始めた初日の挨拶の時、優香さんに出会ったんだ。彼女を見た瞬間、今まで頭の中で思い描いていた姉が目の前にいた事実に舞い踊るほど喜んだ。

 すぐに彼女の座席にあった髪の毛や紙コップ、ティッシュを使ってDNA鑑定をした。結果、俺の父と優香さんが親子関係の可能性がかなり高いということがわかった。

 だから今夜、残業がたまたま二人っきりになったから……。

『気持ち悪い』

 俺は確かに、この体の中に姉がいることを疎ましく思っていた。憎かったんです。嫌いだったんです。でも、入院したとき、心の内に誰の声も聞こえないと気づいた瞬間に深く絶望もしました。

 どれも本当の気持ちです。俺はあなたが憎くて、嫌いで、でも愛おしかったんです。

『あんた、何言ってるの?』

 逃げないでくださいよ。誰も悪くないんです。ただ、一つの体では一緒に生きることができなかっただけなんです。だけど、今はもう別々の体だ! これなら、俺も姉さんも別々の人を好きなったって大丈夫。姉さんのしたいことをすればいい、俺もしたいことをする。

『私はあなたの姉じゃ』

 だから、また一緒に生きようよ。もう姉さんも俺にひどいことを言わないでいいんだ。もう一度やり直そう? 仲がよかったあの頃に戻ろうよ。

 なんで、逃げるの?

 どうして、俺のことを睨みつけるんだ?

『どうかしてる』

 どうかしてるのは姉さんだよ。初めて会った時だって赤の他人みたいにさぁ。俺と家族だって思われるのがそんなに嫌だったのか。そろそろこんな茶番も終わらせようよ。

『来ないで』

 大丈夫。ちゃんと検査もしたんだ。そしたら俺たち姉弟だって証明されたんだよ。

 戸惑わないでいいんだよ。あのときは扉を作ってごめんね。でもあれは姉さんだって悪いよ、昔の男を忘れられないからって俺のこと責めてくるんだから……。

 ほら、笑って。混乱してるみたいだから落ち着いて。

 逃げないでよ。

 そんなヒールで走ったらこけるよ。

 馬鹿だなぁ。

 ここ、五階だよ? 階段で降りていくつもりだったの?

 ほら、息も上がって可哀そう。

 姉さんは昔っから体力ないんだから無理しないで。

 大丈夫。俺に頼ってよ。そういうのは得意だし姉さんに楽させたいしさ。

 ねえ。姉さん。

 姉さん。

 ねぇ、ねぇ。どうして扉を閉めるの?

 コンコン。姉さん。コンコン。姉さん、開けてくれよ。ゴンゴン。姉さん、どうしたの? ゴンゴン。姉さん! 姉さん、姉さん、姉さん、姉さん、姉さん、姉さん。姉さんったら!



『あんたって、今までずっとそうやって生きてきたの?』



 俺は扉を睨みつけた。会社の会議室の白い扉だ。この向こうにある六帖ほどの空間に姉は閉じ籠っている。必死に姉を呼んだから息が上がって辛い。

「えっと……何が?」

「本気でわからないの?」

 扉の向こうから姉の声が聞こえてくる。

「最初はお姉さん。そして次は大学でデキた彼氏……ずっと他人に依存して、いらなくなったら切り捨ててきたのはあんたでしょう」

 白い扉を殴ったが、ビクリとも開かない。

「姉の優しさに依存して、彼氏には夢を見せてもらって……そして飽きたらぽい。今度は私に慰めてほしいってわけ?」

「そんなんじゃない!」

 俺は扉に向かって怒鳴りつける。しかし扉の向こうからは高笑いが返ってきた。

「違わないでしょう。あんたは他人に期待しかしてない。自分の不甲斐なさを棚に上げて他人に守ってもらうことばかり考えている。無条件に自分を憐れんでくれる人が欲しかっただけ。そういうのも仕事にも現れてんのよ」

 俺は喉が震えた。

「……ば、ばかにするなよ」

「あんたはいつも他人に求めてばかりで何もしない。臆病で逃げてばかりの臆病者。言い訳ばかりの愚図なんだよ」

「姉さん!」

 必死に叩くが決して扉は開かない。女の笑い声は癇に障った。

「でもそりゃそうかァ。あんたの父親もろくでなしだったんだから」

 ピクリと、その言葉で俺は手の動きを止めた。

「あんたの父親はありもしない流産の話をあんたに吹き込んで、それを冗談だって笑うような人間だったんだからね。それを私に話した時の微笑みは気持ち悪かったよ」

「……冗談?」

 扉が笑うようにカタカタと揺れる。

「そう、じょーだん。あいつは嘘つきだった。独り身だと嘘をついてあんたの母親と不倫して、私と母には『浮気してない』と騙した最低の男。あんたを産んだ後はあんたと母親を切り捨てた責任感のない阿呆」

 女はそこで吹き出すように嗤う。

「面白いのは切り捨てたものにまだ情があったこと。たまにあんたの家に寄って母子を弄ぶ屑な奴だった。そうしてあんたと遊んだことを私になんでも言ってしまう、なんて……馬鹿な人」

 腕が震えた。

「全部、ぜーんぶあの父親の嘘から始まったんだ」

 深夜二時。俺の目の前には白い会議室の扉。そして周囲には薄い闇が広がっている。

 扉の向こうでさもおかしげに笑う声が周囲に響く度に、闇の濃度が増しているような気がした。

「……あんたは誰だ?」

 もう、俺にはこの白い扉を叩くことはできなかった。

「何言ってるの? あなたのお姉さんじゃない」

 くぐもった嬌声が聞こえる。俺は一歩後ろに退いた。

 その時、ふーっと、息を吹きかけるような音が聞こえた。

 後ろを振り返った瞬間、廊下に灯っていた小さな暗夜灯が消えた。

 何も見えない。真の闇が広がった。

 次の瞬間、大きな音を鳴らして扉が開く気配がした。

「待って!」

 俺は手を伸ばす。しかしその手は空を切るばかりで何も掴めない。軽やかな足音が嗤うようにパタパタと遠ざかって行った。

「待ってよ、待って」

 俺は夢中になって追いかける。暗闇のため天地もわからず転がりながら走った。時折鈍く光るのは床の無機質なフローリングに俺の顔が反射しているのだろうか。

 全てが遠い。闇に塗れて過ぎ去っていく。

「なんで、どうして、いつも置いて行くんだ」

 俺は知らないうちに涙が零れた。

 絶対に欲しいものには、どうして手が届かないのか。

 俺はこの薄闇の中で永遠に求め続けるしかないのだろうか。



 やがて、笑い声も足音を消えていき、完全な闇に満ちた。

 俺が、姉に追い出されたのだ。

 この何も無い暗黒の中へ。

 深夜の残業は続く。

 朝は来ない。





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