第14話 魂の戦い(vs 楽の世界)

 土曜日の夜。光を失ったその部屋は、窓から差し込んでくる月明かりだけが頼りになっていた。その淡い光は、床に散らばる空のスナック菓子の包装を微かに照らし出していた

 湊は部屋の隅で、体育座りで身を沈めていた。月の光が彼の憂いに帯びた顔を照らし出す。彼の心の中では、さまざまな想いが渦巻いていた。オリビアと美沙に対する反省の念、そして、オリビアが自らの手から離れてしまうことへの恐れ。常に湊だけを見つめ、彼の言葉に耳を傾けてくれるオリビア。そんな存在が、彼の世界から消えてしまおうとしているのだ。


 オリビアからは何度か連絡が来ていたが、湊はその度に自らで理由をつけては返事を避けていた。彼は、そんな自らに自己嫌悪を感じていた。湊自身が火種を撒いておきながら、それを消化することもできないのだ。


 しかし、湊の心の中には、それらとは対照的に怒りの炎も渦巻いていた。そして、その炎は他の思案を焼き尽くす勢いに燃え広がり、それ一色に染まりつつあった。その怒りの根底には、オリビアが彼の言葉を受け入れないことへの不満であった。彼は彼女のことを考え助言を与えているのに関わらず、なぜ、彼女はそれに従わずに愚かな道に歩もうとするのだろうか。


 ただ、愚かな道に進みつつある、オリビアという女性に拘る意味が湊にはあるのだろうか。彼の実力や魅力を考えれば、拘る意味もないように思えてくる。その考えに行き着くと、彼の気持ちが徐々に落ち着いていった。


 湊は足元に落ちているスマートフォンを拾い上げ、その画面を確認する。画面には「二十二時半」と表示されていたが、まだ魂の戦いの呼び出しはない。時間を潰すために、湊は部屋の隅に置かれたテレビに視線を送る。この時間ならば、おそらく報道番組が流れているはずだ。最近の湊は世の中の情報から遠ざかっており、それが自分の視野を狭めているように感じていた。


 湊は立ち上がり、散らばった部屋の中からテレビのリモコンを探し始める。いつも必要な時に見つからないのが、それの特徴であった。


 湊は畳の上に落ちているリモコンを視界に捉えると、そのまま、その場所に腰を下ろす。そして、彼はテレビに命令を下すためにリモコンのスイッチに指を向ける。


 ところが、期待とは裏腹に、テレビの画面は真っ白に輝いているだけであった。湊は何度かチャンネルを変えるが、状況は一変しなかった。


 湊は故障を疑い、立ち上がってテレビの前まで足を運ぶことにする。


「・・・チワ」


 その瞬間、湊の耳に微かな声が響いてきた。彼の目は大きく見開き、心臓の鼓動が速くなっていった。湊は慌てて周囲を見渡したが、やはり、部屋の中には人の姿は存在しない。


 再び湊がテレビの画面に視線を向けると、そこには、うっすらと人の姿が浮かび上がっていた。それは、白に満たされた世界に生まれる陽炎のように見えた。


「ホンジツノニュースヲオトドケシマス」


 か細い声が湊の耳に届いてきたが、それは機械の音声のようで明らかに人のものではなかった。彼は瞬時に後退りしたが、不意に足を取られて背後へ転倒した。彼は腰が抜けたように座り込みながらも、目の前に転がっているテレビのリモコンを手に取る。そして、掴んだリモコンでテレビの電源を切る。


「はあはあ」


 湊は肩で息をしていた。額からは冷たい汗が滴り落ち、手は小刻みに震え続けていた。


 湊の頭は混乱の極みになる。全国にテレビを備えた住宅は星の数ほどあるはずである。このような映像が流れるのであれば、既に大きな騒ぎになっているはずだ。


 そこで、湊の脳裏に慈愛の従者の顔が浮かび上がってくる、もしかすると、世の人々はこのような怪奇現象に遭遇しないように導かれてきたのではないだろうか。しかし、それであれば、この世界には何が起こっていると言うのだろうか。


 湊は気持ちを落ち着かせるために、水を飲みに立ちあがろうとするが、彼の周囲の景色がゆっくりと歪んでくる。それは、世界が渦に飲み込まれて行くようであった。やがて、彼の視界は闇に包まれていった。


 ――再び、湊の視界が光を取り戻すと、湊の目の前には真っ白な学校の校舎のような建物が佇んでいた。


 その建物は、真っ白でありながらも、歴史の感じさせる古びた校舎であった。一言で言えば、作りに懐かしさが漂っていたのだ。そして、その校舎の近くには、校庭と駐輪場が存在していた。


 校舎の入り口である正門には「谷地下台高校」と書かれている表札が掲げられており、それは湊たちが高校時代を過ごした学校名と一致していた。


 湊は心に懐かしさを抱きつつ、その門を通り抜けていく。門の中に入ると、すぐ右側には、普段は生徒の自転車が立ち並んでいる駐輪場があった。しかし、そこには自転車の姿は一台も存在しなかった。


 湊が視線を校舎の方向へ移すと、オリビアが校舎を見上げて立ち、彼女の隣には白いローブに黒いズボンを着た、フードで顔を覆った人物がいた。湊は声をかけることに決めた。


「オリビア」


 湊の声に引き寄せられるように、二人がゆっくりと振り返ってくる。オリビアの化粧は一段と濃くなり、胸元を強調するトップスとスリットが入ったスカートを身に纏っていた。その姿に美沙の影響を感じ、湊の心に不快感が襲ってくる。その彼の心の内に呼応するように、オリビアが険しい表情を浮かべていた。


「湊、何で連絡したのに返事をしないの?」

「ごめん、ごめん。色々あってね」


 湊はオリビアを軽くあしらう。彼女の瞳には不満が滲んでいたが、彼女がそれを湊にぶつけてくることはなかった。ただ、湊の興味は彼女の隣にいる神の従者に引かれていた。


「やあ、ケンカは良くないよ」


 目の前の神の従者は、これまでの者とは一線を画す雰囲気を持っていた。彼の口元には微笑みが浮かんでおり、その笑みには喜びの感情を感じた。


「ぼくは、ずっと、終の世界の君らに会いたかったんだ。もう、色々と変わってしまったかもしれないけどね」


 その神の従者の声はいつも通りの機械音声であったが、優しさが込められていた。


「変わる・・・。やっぱり、私たちは変わって来ているの?」


 オリビアが真剣な表情を浮かべていた。


「前回、君らが戦ったのは惚の世界だったね。その名前は自惚れを指すんだ。そこの魂との融合を果たした君らにも影響があるはずだよ」


 神の従者が湊に視線を向けてくる。湊は特に意識していなかったが、各世界の名前には特定の意味や性質が込められているのだろうか。例えば、力の世界は直感的に理解できるだろう。しかし、冷の世界とは、何を示しているのか。冷静さ、冷酷さなどが当てはまるのかもしれない。


「ただ、君らの変化の理由はそれだけじゃないよ。導きも受けているからね。特に君らの世界はね」

「導きってなんなんだ? 人の意思や記憶を操るとか聞いたよ」


 湊が二人の会話に口を挟むと、神の従者は学校の外を指差す。そこには、広い大通りが存在しており、先ほどは気付かなかったが、道路の脇には真っ白い車が一台駐車していた。


「もっと、近づいて見てみて」


 神の従者に従い、湊とオリビアが白い車へと足を運んで行った。すると、その車の中には、透明に染まったスーツを身に纏った中年男性が運転席に座っていた。その異常な光景に、二人は勢いよく後退りする。


「彼はこの世界の住人で、魂の状態ではないよ。でも、肉体は魂の影響を大きく受けるんだ」


 湊には理解ができない光景であった。あの透明に染まった存在が人間だといえるのだろうか。しかし、湊はあれに近い現象を魂の戦いで見てきた。それは魂が損傷した者の姿だ。


 しばらくして、エンジンの音が響き渡ったかと思うと、車はゆっくりと道路を進んでいった。湊は車の後ろ姿を見送ると、再び、神の従者に視線を戻す。


「あれが人だと言うのか?」

「魂も物体も、創造の元にされると一部を失う。元から魂が弱い者は、あのような姿になってしまうんだ。魂が弱くなった生物は透明に、物は白色になって行く」

「元の世界は全てがこんな状態だと?」

「それは違うよ。並行世界に魂や物を多く持って行かれた場所がこうなるんだよ。君の地元の谷地下台周辺は特に酷いもんだよ」


 湊の記憶の中で散らばっていた欠片が繋がった気がした。


「人の魂を操る力。それは生物を思いのままにする力だというのか。誰がそんなことをしている? 神か?」

「君はその答えを既に見つけているんじゃないのかな?」


 神の従者の言葉に、湊は慈愛の従者の顔を思い描いた。しかし、彼女は神の意向に基づいて行動している。それを利用している神こそが諸悪の根源だろう。彼女を神の呪縛から解放する必要があるかもしれない。


「残念だけど、会話はここまでのようだね」


 神の従者は言葉を発すると共に校庭の方を指差す。湊の視線がその指先を追うと、校庭から校舎へ続く道を歩いている不良風の男の姿があった。


 その男の姿は高校時代の草薙を彷彿とさせるものであった。金色の髪は前髪を上に跳ね上げており、黒いジーンズとTシャツを身に纏っており、首元の十字架のネックレスは彼の歩調に合わせて揺れていた。その全身黒の装いは、闇夜では姿を視認しづらそうであった。


 草薙が湊たちの元に合流すると、神の従者は手を叩く。


「さて、これで全員かな。なら、今回の魂の戦いについて説明させてもらうよ。今回の場所は谷地下台高校。《楽の世界》の参加者は、小林湊、佐藤太郎、緒方美沙だよ」


 美沙の名前が挙がった瞬間、湊は驚きを覚える。それは、オリビアも同様だったようで、目を見開き、両手で口元を抑えていた。


「それでは、ぼくは消えるよ。また、不毛な戦いが始まるからね」


 神の従者の言葉は湊の心の琴線に触れる。


「待ってくれ。あんたもこの戦いを望んでいないのか」


 湊の言葉に、神の従者の口元が悲しさの混ざった微笑みを浮かべる。


「ぼくは・・・」


 その言葉が終わる前に、神の従者の姿は次第に薄れていき、やがて消えてなくなってしまう。


 湊は神の従者の言葉の続きが気になったが、今は戦いに集中する必要があるだろう。湊が策を練るために草薙に視線を向けると、彼は眉間にしわを寄せていた。


「美沙が相手か・・・」

「恋人とは戦いづらいか?」

「まあな。ただ、戦いに私情は挟まねえよ」


 草薙の口調が変化しているように思えた。その粗暴な話し方は、湊の記憶の中にある彼に近づいてきているように思えた。


 その瞬間、湊の腕時計からけたたましい不快な音が鳴り響く。神の従者との会話に時間を取られ過ぎたのかもしれない。


「相手がどこにいるか分からねえが、行こう! 俺に任せて、お前らは背中に隠れていてくれ」


 草薙は学校の出入り口の校門へ、早い足取りで進み出す。湊たちもその後を追うように歩を進め始める。この状況では、草薙だけが救いの神なのだ。


 三人が学校の外に足を踏み出すと、目の前には大通りが広がっていた。湊たちはすぐに右に曲がり、大通り沿いの歩道を歩いて行く。


「この先にコンビニがあったよね」


 オリビアの言葉通りに、湊たちの歩く先には、コンビニエンスストアが立っているはずであった。湊も学校帰りには、そこでよく買い物をしていた。


 しばらく、湊たちが歩道を歩き進めていると、突如、空気のような半透明な鎌のようなものが、彼たちに向かって飛んでくる。


「危ねえ!」


 草薙が空気の鎌に手を向けると、それは即座に消滅する。


 湊たちが鎌の飛び出してきた方向に視線を向けると、筋肉隆々な男が彼らに迫ってきていた。その姿に湊は見覚えがあった。その男は彼が通っていたボクシングジムに在籍していた佐藤という男だ。


 佐藤はこちらに駆け寄りながらも勢い良く拳を振るう。その瞬間、またもや空気の鎌が湊たちに襲いかかってくる。どうやら、空気の鎌は彼の強烈な拳の風圧から生まれているようだった。だが、草薙が鎌に手を向けると、再びそれは消え去る。


「そんなの通じねえよ」

「では、実践講座だ」


 佐藤は両方の拳を自らの顔の前に当てながら、湊たちに駆け寄ってくる。最早、湊たちとの距離は僅かなものであろう。湊は頼るような視線を草薙に向けたが、その瞬間、草薙の姿が半透明になったかと思うと、徐々に消えて行ってしまう。


「どこに行った!?」


 佐藤が驚きの言葉と同時に足を止めると、彼の背後から草薙が姿を現す。それは超能力で瞬間移動ができる《テレポーテーション》を彷彿とさせた。草薙が佐藤の背中に手を伸ばすと、彼の右腕の横に、本来存在すべきではない透明な腕が現れ、ゆっくりと佐藤の身体の中へと侵入していった。それはまるで佐藤の体内を徐々に徐々に破壊して行く悪魔の腕に思えて来る。


 その瞬間、草薙の隣に女性が現れる。それは、湊の記憶にある者であった。


「待って。こっちを見て」


 それは美沙の姿であった。彼女は胸が強調されたチューブトップに、短めのスカートを纏っており、前屈みに立っていた。そんな、美沙の容姿に、湊の視線が引き寄せられてしまっていた。草薙も例外ではなく、彼の透明の腕の動きが止まり、彼女の方に視線を向けていた。


「はい。慶次はその不思議な手はストップね。後、佐藤さんを自由にするの」


 美沙の言葉に従うように、草薙から現れていた不思議な手が消え去った。その光景に、湊は目を丸くする。何を美沙の指示に従っているのであろうか。


「慶次も湊も、そこから動かないように。佐藤さん。慶次はいいから湊を」


 美沙の言葉を無視し、湊は彼女に歩み寄ろうとしたが、それを身体が拒否してくる。何か、別の意思に足を止められてしまっているように、それは全く動作しなくなっていた。湊は驚きから自らの足に、交互に視線を向けていたが、彼の視界に佐藤が指を鳴らしながら歩み寄ってくる姿が飛び込んでくる。


湊は必死に身を動かそうとするが、彼の身体は脳の命令を拒否していた。この異常な状況は、美沙の言葉の影響で起きているのではないかと湊は感じ始めていた。彼女の言葉に魅了された者は、自らの自由意志を奪われてしまうのではないだろうか。


 一方、湊の隣では、事の成り行きが掴めないオリビアが動揺した表情で、湊の胸に手を当ててきた。


「み、湊、筋肉質な人が近づいてくるわ」


 佐藤は湊の前に立ち、一瞬、右腕を後ろに引くと、鍛え上げられた拳を湊の左頬に叩きつけてくる。すると、湊の頭が大きく右に振れた。湊は膝を降りたい衝動に駆られたが、美沙の不思議な力によってそれすらも許されなかった。


 次に、佐藤は左腕を後ろに引き、それを湊の右頬に叩きつけてきた。湊の頭が左に振れると、彼の身体が徐々に透明になり始める。


 その瞬間、オリビアが佐藤の湊への追撃を防ぐべく、筋肉質な腕に飛び付く。


「やめて、もう、貴方たちの勝ちでいいから」


 佐藤はオリビアの言葉を無視し、彼女を軽く払いのけた。オリビアは数歩後ろに下がり、腰を地面に叩きつけてしまう。


 その光景を見た湊は、六本木での自らの行いを思い浮かべる。目の前で繰り広げられた光景は、自分の過去の見苦しい罪を再現しているようであった。


 再び、佐藤は湊の方に視線を移してき、右腕を後ろに振りかぶる。湊は次の痛みに耐えるために、歯を食いしばり、まぶたを落とす。


「もう、戦いをやめてー!」


 オリビアの叫びが辺りに響きわたった。


 その声に呼応するかのように、佐藤は動きを止める。そして、彼の顔には後悔の念が浮かび上がった。


「そ、そうだ。止めよう。ボクシングを始めた理由は、人を傷つけるためなんかじゃ」


 佐藤の独り言が湊の耳に飛び込んできたが、彼の言葉に思案を巡らせる時間は湊にはなかった。佐藤が戦意を失っている今は千載一遇の機会である。湊は右腕を振りかぶると、その拳を佐藤に叩きつける。すると、僅かに佐藤の首が右に曲がる。


 美沙からの呪縛から逃れることが出来たのか、湊の身体は再び彼の管理下に置くことが出来ていた。しかし、彼の拳を受けた佐藤が鬼の形相を浮かべる。


「痛えな。そうだ。まずは、こいつらを倒さな・・・」


 佐藤の言葉は最後まで発せられることはなかった。突如として彼の足が地面から離れ、勢い良く空中へ飛ばされたのだ。


佐藤の身体は、大通りと歩道を分けているガードレールに勢いよく激突した。本来、人々を保護するためのものが、この瞬間、佐藤にとっての凶器と化した。


 佐藤の身体が透明に染まり始めたかと思うと、徐々に姿を消し始めた。やがて、彼がいた場所から輝く光の玉が浮かび上がり、どこかへと飛び去っていた。


「暴力を願う者には暴力が返ってくるというもんだぜ」


 湊が声の方向に視線を向けると、彼は驚きで息をのんだ。草薙が美沙の細い首を片手で掴み上げ、彼女を持ち上げていたのだ。美沙の細い脚は足元を探すように大きく動いており、その顔色は次第に青く染まりつつあった。その目は絶望の色が宿っており、助けを求めるように、オリビアに手を差し伸べていた。


「オ、オリビア。助けて・・・」


 その言葉を聞いて、オリビアが顔を背ける。


「ごめんね・・・。私たちも生き残らないとならないの・・・」


 かつてのオリビアであれば、草薙を止めていたはずだ。湊には残念な気持ちはあるが、幸いな誤算でもあった。ここで、オリビアが美沙を助ければ、再びあの脅威の誘惑の力に晒されかねないだろう。


 苦しむ美沙に対し、草薙の顔には僅かな笑みが浮かび上がっていた。それは、かつての恋人に対する仕打ちとは思えなかった。湊は魂の戦いの残酷さを感じた。


 その瞬間、残酷な光景を切り裂くような光を、湊の目が捉えた。それは草薙の背中に向かって飛んできており、湊が警告の声を上げようとすると同時に、彼の背中に当たってしまう。大きな音と同時に、草薙は美沙の首から手を離し、前のめりに倒れて行った

 湊が驚きの表情を浮かべながら、草薙の元に駆け寄る。彼はうつ伏せに倒れており、息は荒く、背中には大きな火傷のような跡が生まれていた。さらに身体全体が透明に染まってしまっていた。湊は、オリビアの癒しの力を求め、彼女の方向に視線を向ける。すると、そこには、美沙に腕を掴まれるオリビアの姿があった。彼女は腕を振りながら、美沙に何かを訴えていた。


「離して! 草薙くんが!」

「オリビア! よくも友人を見捨てたわね」


 美沙の鬼のような形相にオリビアが怯えたような表情を浮かべる。


「ごめんなさい! ごめんなさい!」


 オリビアが泣きそうな表情で懇願していると、突如、歩道にあった、木の近くが光ったかと思うと、大きな音と共に白く燃え盛り始める。木の焦げた匂いが湊の鼻に突き刺す。


 湊が首を横に振りながら周囲を見渡すと、大通りを進む《もう一人の湊》の姿を目にする。その手には銃のようなものがしっかりと握られており、銃口には強烈な光がまとわり付いていた。その光は次第に輝きを増して行っているように見えた。


「俺のかわい子ちゃんをいじめてくれんなよなぁ」


 別世界の自分の銃口が光り輝くと、レーザーのようなものが湊に向かってくる。それは湊の頬を掠めて、背後の木に当たり、再び木に白い炎が灯り始める。


 別世界の自分が銃口を湊の顔に向けたまま歩み寄ってくる。その銃口は光り輝いており、湊に対し、不用意な行動を起こさぬよう警告しているように見えた。


「もう、外さないよ。出来れば、降参してほしいんだよ。人を傷つけるのは楽しくないからね」


 別世界の自分の言葉は勝負に徹せない者の言葉であった。その言葉を証明するように、美沙に危害を加えていた草薙への攻撃以外は、意図的に外しているようにも思える。ただ、この提案を無下に断ることを許容するほどの心を持ち合わせているかまでは不明瞭だ。


 回答に苦しむ、湊が沈黙を保っていると、美沙が別世界の自分の隣に姿を現した。そして、彼女はゆっくりと彼の肩に体重を預け、寄りかかった。


「ふふっ、湊は格好いいのよ。面白いしね。そっちの湊は無様ね。オリビア」


 確かに、別世界の自分は湊とは雰囲気が異なっていた。くせ毛を抑えられた整えられた髪型に、スマートな黒のズボン、白いティーシャツの上に羽織る黒いジャケットと、その装いは整っているように思えた。


 しかし、今の湊は美沙の馬鹿な話に付き合っている余裕はない。彼は頭を高速に回転させていたが、良い策が思い浮かばなかった。少しでも動けば光の線に焼き尽くされることだろう。


 湊が思案していると、金色の長く美しい髪が彼の目の前に舞い降りた。


それは、両手を広げたオリビアの背中であった。


 その光景の前で、湊の時間が一瞬止まったように感じられた。なぜ、オリビアが自らの身を盾にするのだろう。そんなことは間違っている。彼女に守られるのは許されない。彼女を守るのが湊の役割だ。


 湊は彼女を後退させようと、目の前にある彼女の手を掴み引っ張った。だが、彼女の身体は意思の強さを物語るように、微動だにしなかった。その結果、未だに別世界の自分が手に持っている銃口はオリビアの顔をじっと見つめていた。


「オリビアだろうが、や、やる時はやる男だぜ。俺は。ど、どうしても降参しないんだな」


 別世界の自分が、オリビアを前にして銃を構えていた。心の底では彼女に危害を加えることを拒絶しているように見える。そして、その葛藤は美沙の方が強いかもしれない。彼女は顔を背けて、目を閉じていた。


「争いは良く無いわ。銃を下ろして、話し合いましょう」


 オリビアの言葉に従うように、別世界の自分が手を下ろす。


「争いはいけないか・・・。確かにそうだ。平和が一番」


 別世界の自分の中から、闘う意志が消えたように思えた。そして、美沙はその光景を目の当たりにして、安堵の顔を浮かべていた。


その一連の動作を視認した湊の脳裏に、先ほどの佐藤の様子と、前回の魂の戦いでの湊自身の姿が浮かび上がってきた。双方共にオリビアの言葉に続いて、不可思議な現象が起きている。これは、オリビアの魂力に寄るものではないのだろうか。


 しかし、その時、穏やかな表情を浮かべていた別世界の自分の眉間にしわが寄り始め、表情が険しくなってくる。


「・・・いや、何を言っちゃってんだ。こいつらをやらなければ、俺の世界がやばいんだっちゅうの。つ、辛いことは嫌いだが、彼女は危険だ。ごめんよ」


 別世界の自分が苦悶の色を滲ませながら、銃をオリビアに向けてくる。


 湊は、勢いよく立ち上がり、前にいるオリビアを押し除け、再び銃口の前に身を置く。その瞬間、別世界の自分が銃の引き金を引くと、眩い光が湊の視界を塗りつぶす。


 湊は、これが自身の最後の光景だと理解し、納得していた。彼の身体は白い炎に包まれて醜く焼け崩れるかもしれない。しかし、それは愛する者を守るための結果だろう。湊は微笑みながらゆっくりと目を閉じた。


 しかし、予想とは裏腹に、いつまでも湊には痛みも苦しみも襲ってこなかった。それどころか、目の前の眩い光は次第にその輝きを失い始めていた。


それは、透明な障壁に阻まれているように思えた。湊が怪訝な顔で周囲を見渡すと、透明な四角い箱が、彼らを包んでいるように思えた。それは、ワイヤーのように、線部分だけが白く輝いている。


 光が完全に消えた時、異世界の自分はまるで時が止まったかのように凍りついていた。しかし、その目は湊の背後に焦点を合わせていた。湊が振り返ると、オリビアの隣に白いローブをまとった男が立っていた。


「大丈夫?」


 神の従者の機械の声が耳に届く。その行動に湊は驚愕する。ここまで、片方の世界に肩入れすることが許されるのだろうか。このようなことをすれば、もう片方の世界は不満を抱くだろう。湊は相手の世界の様子を伺うことにする。別世界の自分たちの表情は凍りついており、時間が止まったかのように見えた。神の従者が己の敵になってしまったのかもしれないのだから、当然の反応といえる。


 しかし、徐々に別世界の自分の瞳に怒りの炎が浮かび上がって来る。


「お、おいおいおーい。何の冗談だい? 神様たちも俺の敵ってか! こんな事が許されるのか!」


 別世界の自分の抗議は、湊からしても至極真っ当なものであった。彼はこの事態を神の従者が、どう収めるかに関心を抱いたが、当の神の従者は何を発言することもなく、ただ俯いていた。


 その時、神の従者の横に、半透明の存在がうっすらと現れる。その者が色彩を取り戻し始めると、それが希望の従者であることが判明する。希望の従者はゆっくりと神の従者に視線を向ける。


「重大な規則違反ですよ」

「彼らの世界が消えるのを見ていられなかったんだ」

「破壊の従者に移動させたのですね。彼の気まぐれにも困ったものだ。ただ、もう、貴方にはこの戦いから去って頂きます。宜しいですね」


 希望の従者の言葉と共に、湊たちを守った神の従者の姿が徐々に半透明となって消え始めていく。その姿が薄れていく中、湊は心細さを覚える。その不安を裏付けるように、別世界の自分が希望の従者に鋭い視線を向けて来る。


「でっ、どう言うこと? 神様の関係者でもミスはつきものですって?」


 別世界の自分は、今の状況を自らに有利だと感じたのだろう。希望の従者に対して強気の言葉を投げかけてきていたが、湊も別世界の自分が持つ銃に抗議したい思いがあった。


「ちょっと待ってくれ。そっちの世界の銃の方がおかしいだろ? 武器を使っている」

「この銃は彼が魂力で生み出した物です。本来は魂に通じる武器はありませんし、そもそも、武器は持って来られないだけで、不許可ではありませんよ」


 希望の従者の言葉に、湊は口をつむぐ。


「そちらの楽の世界の湊さんには、申し訳ありませんでした。どうもペナルティーが必要ですね」


 希望の従者の足が一歩動くと、湊の顔に強烈な痛みが走った。すると、足が宙に浮き、彼は驚愕の速度で後方へ飛ばされる。湊の背中は校門の壁に到着したが、それは受け止め切れることは出来ず、壁は大きな穴を開けてしまう。湊はその穴を越えて、向こう側に仰向けに倒れこむ。


 草薙やリアムと戦ってきた湊であったが、こんなことは初めてであった。何をされたのかが全く分からないのだ。そして、その破壊力もこれまで味わったことがないものであった。その証拠に湊の身体は透明に染まっていた。


 湊が穴の先に視線を向けると、オリビアがこちらに駆けつけてくるのが見える。彼女は壁の穴から、学校の中に入って来ると、湊の元に急いで駆けてきた。


 オリビアが湊の元に駆けつけると、速やかに座り込み、湊の頭を自らの太ももに預けさせ、彼の身体に手を当ててくる。回復を試みてくれているのだろうが、彼の身体は一向に楽にならなく、頭は未だ朦朧としていた。


「楽の世界の湊さん。これでお許しいただけませんか?」


 遠くから希望の従者の声が聞こえて来る。その言葉には、機械の声ながらも有無を言わせない迫力があった。


「も、もちろんですぅ」

「それでは、私が去った後に、試合再開です」


 その言葉を最後に、希望の従者の姿が徐々に消えていった。


 希望の従者が姿を消すと、別世界の自分と美沙が湊とオリビアに歩み寄ってくる。彼は、震える身体を押さえながらも立ちあがる。


「う、動かないで」


 オリビアが回復のために湊に手を当ててくれているが、彼の身体は完全には回復してくれなかった。ただ、回復を待つ時間はなかった。別世界の自分は銃を片手に湊たちに向かってきているのだ。それから、オリビアを守ることは湊の役割だ。


 しかし、このままだと、湊たちは再びあの銃の脅威にさらされるだろう。別世界の自分がその銃を持ち続ける限り、彼らの勝機は薄いと言える。


 そんな時、湊の心の中で一つの打開策が浮かび上がってくる。別世界の自分が出来ることは湊自身にも出来るのではないだろうか。もし、光を放つ銃を彼らが手にできれば、形勢を五分にすることが出来るかもしれない。


 湊は別世界の自分の銃に視線を向けると、同じ銃が自らの右手に現れることを切に望んだ。

 湊は自らの右手に視線を向けると、そこには、半透明な手が存在するだけであった。賭けは失敗に終わったかもしれない。湊の脳裏に「諦め」という単語が浮かび上がって来る。


 ところが、その半透明な手の中に、ゆっくりと何かが現れ始め、次第に色が濃くなっていった。それは、別世界の自分が持っている銃と同じ物であった。その銃の先端から、別世界の自分が持つ銃と同じように光が集まり始めていた。


 一瞬、湊の心が踊ったが、よく見るとその銃は別世界の自分が持つ銃に比べて色が薄かった。彼が持っていたものよりも色褪せているように感じたのだ。その姿の違いに、湊の胸に不安の影が落ちる。


 しかし、湊が別世界の自分に視線を向けると、彼が銃で光を放ってこようとしていた。この状況で迷っている余裕はない。湊は別世界の自分に照準を合わせ、銃の引き金を引く。


 すると、湊の手から放たれた光の線は、別世界の自分へと一直線に走り始める。驚いた彼は銃を捨て、瞬時に地面に身体を転がした。


「おいおい。切り札登場ってか。まさか、お前も持っていたのか!」


 オリビアの助けのおかげもあり、湊の足の震えも治ってきていた。彼は地面に転がっている別世界の自分に向かって、勢いよく駆け寄りながら、再び銃を照射する。すると、別世界の自分の近くの白い地面が、焦げたように灰色に染まる。


「ひっ、ひぃー」


 別世界の自分は這いつくばりながら、逃げ出そうとしていた。湊は別世界の自分の近くまで近づくと、彼自身が落とした銃に視線を移す。それは、最初に見た時よりも色褪せているように思えた。それは、湊が持っている銃よりも白色に近づいているように思えた。湊がその銃を蹴り上げると、それは勢いよく、大通りの先に滑って行く。


再び、湊は別世界の自分に視線を向けると、彼の口元には歪んだ笑みが張り付いていた。「罰を下す時だ」湊の心の奥で、そんな言葉が囁かれたように感じた。


「こっちを見なさい」


 近くから美沙の声が聞こえた気がした。そちらに湊が視線を向けると、彼女が胸を強調する挑発的な格好をしていたが、彼には何の感情も生まれなかった。単に下劣な女が愚かな行動をしているとしか思えなかったのだ。


 湊の頭の中は、目の前の男にどのような罰を与えるかで一杯だった。この男を銃で焼くのか、それとも銃で脅して殴り続けるのか。優れた湊に仇なす者には罰を与えなければならない。


 湊が薄笑いしながら、別世界の自分に近づくと、彼の顔は泣き出しそうなものに変貌していた。それを見て湊は自らを絶対的な支配者だと感じ始める。


 しかし、その気分を削ぐかのように、突如、オリビアが二人の間に割って入り、別世界の自分を庇うようにして両手を広げた。


「もう、止めなさい!」


 オリビアの目は鋭く湊を睨みつけていた。いつも、彼に賛同してくれていた彼女が、今は反抗的な目を湊に投げかけてきている。その目は彼の怒りに火をつけた。


 湊は一歩前に足を進めると、オリビアの肩を掴み、力の限りで彼女を横に退かす。か細い彼女の身体は崩れ落ちるように、その場に倒れ込む。


 湊が銃を構えて別世界の自分に近づくと、その顔は恐怖に染まっていた。同じ顔を持ちながらも、この男はただの怯えた人間に過ぎなかった。


「ひぃぃ。どうかお許しをぉ」


 湊はその言葉を無視し、別世界の自分の顔を力一杯に蹴り上げた。それを受けた、彼は瞬時にうつ伏せとなり地面に転がる。湊は一息つく間もなく、彼の頭部を踏みつける。すると、別世界の自分は一切の動きを止め、身体が殆ど透明になっていた。


「なんで、そこまで・・・」


 座り込んでいるオリビアの瞳には驚きと悲しみが交錯していた。湊には彼女が、なぜ喜ばないのか理解ができなかった。敵を打ち倒し、自らの優秀さを証明した彼を、オリビアは賞賛してくれると思っていた。


 すると、別世界の自分の身体が徐々に透明に染まっていき、ついには完全に姿を消してしまう。そして、輝かしい光の玉が浮かび上がり、湊の胸の前に近づいてくる。それは、湊の身体の中に入ってくると姿を消す。


 すると、湊の心に暖かく楽しい幸せな感情が湧き上がってきた気がした。


 湊の口元の歪んだ笑みが消え、彼は手で頭を抑える。ここまで、残酷なことをする必要はあったのであろうか。別世界の自分との戦いは避けることは出来なかったが、戦意喪失していた彼には、降参を求めるべきだったのではないだろうか。


 湊が美沙の方に目を向けると、彼女はまるで心を失ったかのように、別世界の自分がいた場所に空ろな瞳を向けながら、無言で座り込んでいた。その姿を見た湊の心が締め付けられ、思わず視線を逸らしてしまう。


「色々ありましたが、勝者は貴方です」


 突然の声に湊は反射的に視線をその方向へ移した。そこには、希望の従者の姿があった。この男はいつも前触れもなく現れるため、湊にとっては心臓に悪い存在であった。


 希望の従者の言葉で湊は戦いの終わりを実感する。だが、今回の戦いでも両世界に多大な被害が発生してしまった。湊は草薙が横たわっている方向に視線を向け、彼の元に駆け寄ることにする。


 その場所には、既に草薙の身体に手を当てているオリビアの姿があった。彼の背中の傷は完治していないようであったが、身体は色合いを取り戻してきているように見えた。


「大丈夫。きっと時間をかければ回復するわ」


 オリビアの優しい目に見つめられると、湊は先ほどの行為を恥じる。


「さっきはごめん・・・」

「湊。当初の思いを忘れないで。そう、私にとって、貴方はいつまでも・・・」


 オリビアの言葉は最後まで発せられることなく、俯いてしまう。


 湊は自責の念に苛まれる。彼は自らが魂の融合とは関係ないと思っていたが、それは彼自身の思い違いだったのだ。一番変わったのは他の誰でもない。湊自身だったのだろう。いつの間にか、当初の戦いを止める想いすら忘れてしまっていた。


 湊が肩を落としていると、希望の従者が湊の方に歩み寄ってくる。


「それでは、また、来週にお会いしましょう」


 希望の従者の言葉を境に、周囲の風景が変化し始め、湊の視界が闇に包まれる。


――湊の視界が戻ってくると、床に菓子の包装が散らばっている部屋が存在した。そして、彼自身はテレビの前で仰向けに倒れていた。湊は自らの手を見つめ、生を実感する。


 しかし、湊は複雑な心境だった。今回生き残れたのは奇跡に近かった。今回のことで、彼はリアムの力の必要性を痛感していた。


以前のように、単純に打算だけでリアムを仲間に引き込みたいという思いは消えていた。しかし、彼を巻き込みたくないと言う反面で、このままでは、湊が大切にしている世界が消えかねないと言う不安をどうしても拭えなかった。彼は暗い心境で明かりを部屋に送り込んでいる窓に向けて視線を向ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る