止まった時の中で
第13話 二人の変化
そこは、デスクとパソコンが多く並んでいる場所であった。デスクの上にある四角い機械は人々に便益をもたらす反面で、同時に彼らの時間と自由を縛り付けているようであった。
人々はスーツという囚人服を身に纏い、パソコンのキーボードを叩いていた。人によっては、そこは地獄のように感じる場所かもしれない。時間が過ぎるのを期待する者もいるだろう、自らの役割を果たす時間が足りなく感じる者もいるだろう。
囚われの一員として、湊も横たわるキーボードに文字を打ち込んでいたが、その手には余裕が感じられた。最近、湊が担当していたプロジェクトが終了を迎えたためだ。
湊が右隣の席に視線を向けると、主人を失った席が存在していた。かつて、その場所にはマイケルが熱心に仕事をしていたが、前回の魂の戦い以来、その姿をオフィスに現してきていない。やはり、彼の魂はあの日に消失してしまったのだろうか。
マイケルの突然の失踪は会社を混乱させた。上司が彼の自宅に足を運んだらしいが、家のインターフォンを押しても静寂しか返ってこなかったようだ。社内では、彼は仕事の重圧に耐え切れず、ノイローゼに陥ったのではないかと囁かれていた。
湊の心には、陽気なマイケルを失った寂しさは存在していたが、悲しさが生まれることはなかった。以前、悠太を失った時に感じた悲哀の気持ちも失いつつあった。現在、湊が気にかけているのは、再び訪れる、魂の戦いの参加者が不足してしまっている問題だ。
ただ、その解決方法は既に湊の脳裏に浮かんでいた。その策を実行するため、湊はパソコンの画面の時刻に視線を向ける。そこには「十九時四十五分」と数字が映し出されていた。そろそろ、約束の時刻が迫ってきており、湊は帰社を検討し始める。わずか「十五分後」には、湊はリアムと会う重要な任務を控えているのだ
本来の勤務時間は既に終了しているのだが、湊は席を立つ勇気が湧かなかった。俗に言うブラック企業のこの会社では、残業をすることが暗黙の了解になっているからだ。湊は完全週休二日を死守していたが、その引き換えに、他の者よりも残業時間が増えてしまっていた。それでも、プロジェクトが終わった金曜日くらいは早めに帰社させて欲しい思いがあったが、それを許さない雰囲気がオフィスには漂っていた。しかし、躊躇していてはリアムとの貴重な話し合いの機会を失うことになりかねない。湊は勇気を振り絞り、左隣に座っている先輩社員に視線を向ける。
「そろそろ、帰ります」
湊の声がオフィスの静寂を切り裂く。
「そうか。お疲れ」
先輩社員は視線を湊に向けることもなく、氷のような小さな声で返答してくる。湊はその冷たい言葉に威圧されてしまったが、それに押し切られる訳にはいかない。それに、本来の勤務時間は過ぎているため、無給の残業に湊の貴重な時間を浪費させる訳にはいかない。彼はパソコンの電源を落とし、足元にある鞄に視線を向ける。
「こば」
いつの間にか、先輩社員がこちらに視線を向けていた。《こば》とは、この会社での湊の愛称だ。
「最近、何かあった?」
「いえ、特には・・・」
先輩社員の言葉に、湊は一瞬戸惑いを覚えた。何かあったのは事実であるが、それを先輩社員が知る由はない。しかし、湊のその思いとは裏腹に先輩社員は優しい笑みを浮かべていた。
「いや、最近、雰囲気が変わったからさ。君の純粋無垢な笑顔で癒されてるとこがあったんだよ。何かあれば話してくれよ。相談に乗るからさ」
先輩社員の微笑は優しいものであったが、彼の言葉の意味が湊には理解できなかった。マイケルの失踪を受けて、職場全体で社員の精神状態を気にする動きがあるのかもしれない。
「ありがとうございます。是非、今度相談に乗ってください」
この先輩社員に相談しても、問題の解決にはならいだろうと湊は感じていた。この会社の犬に過ぎない男の考えることは一つだけだ。彼は、会社に囚われた囚人を逃すことで、その負担が自分にのしかかってくることを恐れているのだ。湊は先輩社員の意向を流し、帰社の準備を始めることにする。
「では、お疲れ様です」
湊は足元にある鞄に手を伸ばし、それを自らの手中に収めると、ゆっくりと立ち上がった。今日は特に長い残業をさせられたわけではないが、それでも彼の身体には疲労感があった。
湊が部屋の出口に向かって歩き始めると、周りの社員たちがパソコン作業に没頭しているのが目に入ってくる。部屋にはキーボードを打つ音だけが静かなオフィスに響いていた。彼らは一体何を考えて、このような厳しい環境で働き続けているのだろうか。
オフィスの出入り口に近づくと、湊は静かに扉を押す。その先には、すぐにエレベータの扉があった。湊は扉の前へ進み、呼び出しボタンを押した。すると、エレベータの内部から鳴り響く機械音が耳に届く。
ほどなくして、エレベータが到着の音を鳴らすと、目の前の扉がゆっくりと開く。湊は中に足を踏み込み、一階のボタンを選ぶ。すると、エレベータはゆっくりと下の階に移動していく。
一階に到着すると、湊はすぐにエレベータを出ていく。前回の魂の戦いの高級マンションのような洒落た受付はこのビルには存在しない。彼は薄汚れたビルの一階の出入り口へと向かうことにする。
ビルの外に足を踏み出した湊が振り返ると、そこには時代を感じさせる古びた雑居ビルが立っていた。その姿を目の当たりにして、湊は改めて、ここが自分にとって相応しくない場所だと感じた。
背後に職場のビルを残して、湊はリアムとの待ち合わせ場所である公園へと歩みを進め始める。目的地の公園は職場からそれほど離れておらず、昼休みなどに彼が訪れる場所だった。
歩いてしばらくすると、湊の視界に「船橋中央公園」と看板が姿を現し、その奥には深い緑の森が広がっていた。
湊が公園に足を踏み入れると、美しい森林が彼を迎えた。月明かりとわずかな街灯の光が、深い緑を繊細に照らし出していた。静寂が広がり、他の人々の気配は感じられなかった。その静けさが、湊の心を和ませていた。以前は、街の喧騒も好意的に感じていた湊であったが、今ではその魅力を感じていた気持ちは遠い過去のように思えてきていた。
湊が公園の中を歩んでいくと、桜が広がる開けた場所にたどり着く。桜の時期の終わりを告げるように、その木には葉桜が目立ち始めていた。そして、その中心に設置された椅子に、見覚えのある金色の長髪をした男が腰を下ろしていた。彼は桜の木を見上げながら、その美しさを楽しむように微笑していた。
湊は足早にリアムの元に足を進めていく。
「すまない。少し遅れたかな」
湊が声をかけると、リアムが視線を向けてくる。
「いや、僕もさっき来たばかりさ」
リアムが湊に自分の隣に座るように促してくると、彼はその誘いに応じ、ゆっくりとその椅子に腰掛けた。リアムは手に持っていたお茶のペットボトルを湊に差し出してくる。湊はそれを受け取ながら、礼を告げた後にペットボトルの口を開ける。
「それで、僕に話があるってことだったけど?」
「君に聞いてもらいたいことがある」
湊は、自らの体験を元に魂の戦いに関する説明を始める。この話をリアムに具体的に話すのは初めであった。それは、彼をこの危険な戦いに巻き込むことを恐れていたからだ。
湊はリアムの反応が気に掛かっていた。話を聞いていた彼は時折頷いたり、相槌を打ったりしていたが、疑問や感想を挟んでくることはなかった。そして、湊の話が終わると、リアムは顎の下に手を当て、深く考え込むような仕草をする。
「魂の戦いか・・・」
「何か心当たりがあるの?」
「シン教にあるんだよ。魂の戦いとは、堕落した魂たちが団体で戦うものなんだ。勝利し、浄化された魂に敗者の魂は融合されてしまうんだよ。そして、最後に神に選ばれし魂が戦いから解放される」
リアムの話は、現在、彼が直面している戦いに酷似した内容に思えてきた。神の従者のことも含め、シン教には魂の戦いとの共通点が多くあるように思えた。湊はシン教に関する更なる情報を追求しようかと考えたが、今日、湊が抱えている本題はそれではない。彼はリアムを誘うきっかけを探ることにする。
「そういえば、草薙慶次と知り合いなんだって?」
「ああ、話に出てた草薙慶次は彼のことみたいだね」
「草彅の幼馴染の君は魂の力のことに詳しいんだよね。それもシン教の教えなの?」
「それは違うよ。昔、僕は《幽体離脱》をしたことがあるんだ。魂が肉体から離れると、そこは自由なんだ。そして、肉体がある時には出来ないような動きが出来ることに気づいたんだ。それが魂の力だと知り、そのことを慶次に話したんだよ」
幽体離脱とは魂が肉体から離れる怪奇現象のことを指すのだろうか。以前であれば、夢で片付けたかもしれないが、最近の湊の不思議な体験を考えると、あながち、世迷い言とは片付けられなかった
「その魂の力を持つ君に頼みたい。魂の戦いに参加して欲しい。この世界の危機なんだ」
湊が言うと、リアムが天を仰ぐ。それは、何かを思案しているようであった。しばらくすると、リアムの視線が湊に戻ってくる。
「君の魂の戦いでの目的は何なんだい?」
「他の世界を倒して、自分の世界が生き残ることだよ」
湊の言葉を受け、リアムは憂いを帯びた表情を浮かべる。
「すまないが、考えさせて欲しいんだ」
そのリアムの反応を受け、湊が目を丸くさせる。今訪れているのは、この世界の危機なのだ。正義感の強い彼ならば、二つ返事をしてくると思っていた。
「魂の融合だっけ? それのせいで、君が君ではなくなってきている。そんな湊を見るくらいなら、この世界は消滅しても構わない。それに相手の世界を消滅させるのも納得がいかない。それが神様の考えとは思えないんだ。その戦いを辞めさせるためであれば協力するよ」
かつてのリアムと湊は話が噛み合っていた。しかし、今では彼の言うことは、湊には理想論にしか聞こえず、現実的とは思えなかった。
リアムの僅かに浮かんでいた笑みが消え、次第に瞳に真剣さが宿ってくる。
「君は神を信じるかい?」
「魂の戦いを体験しているんだ。信じるしかないよ」
湊の言葉を受けて、リアムが何か言いたそうに口を開いたが、それは言葉になることがなく、代わりに彼は微笑を浮かべる。
「もし、君が僕の求めている人だったら、参加することを考えるよ」
リアムの言葉の意味合いは湊には理解できなかったが、今日の交渉は決裂に終わりそうであった。
――湊は船橋中央公園を後にすることにする。リアムとの待ち合わせの目的は、彼を仲間に引き入れることだった。しかし、その願いが叶わない以上、ここに居続ける意味はないだろう。そう判断した湊は自宅に戻るため、駅へと向かった。
湊がしばらく歩を進めていると、大きなデパートが目に入ってくる。その近辺にはJR船橋駅が存在するが、彼の目指している駅はそこではない。湊の自宅がある谷地下台に向かうためには、京成線を利用する必要がある。その駅に向かうにはJRの駅を抜けていかなければならない。
湊がJR船橋駅に足を踏み入れると、多くの店舗が立ち並び、大勢の人々が行き交っていた。時刻は午後の「八時半付近」のため、これから帰宅する会社員も多い時間帯だ。JR船橋駅は東京への便に優れた駅であり、多くの人々がこの駅を東京の出入口として使用している。この駅の賑わいは、彼らが東京から帰宅してきた証かもしれない。
湊は電車の状況を確認するために、近くにある電光掲示板に視線を向ける。ところが、そこに表示されているのは船橋行きと谷地下台行きの電車のみで、東京行きの電車の情報は掲載されていなかった。
津田沼の帰りの時も湊は疑問に感じていた。なぜ東京行きの電車が存在しないのだろうかと。彼の記憶の中には、東京まで電車で向かった映像がしっかりと刻み込まれている。
そこまで考え、湊の心の内に慈愛の従者の顔が浮かび上がってくる。もし、これが慈愛の従者の言っていた導きの影響であるならば、なぜ神は人々をこの地域に閉じ込めようとしているのだろうか。それは彼の興味を馬鹿に惹きつけた。湊は、後日に車などの交通手段を使い東京に向かうことを検討する。
湊がJRの駅を抜けると、彼の目の前には歩道橋が広がり、その道の先には大きな建物があった。その建物は、京成線の駅に直結しているため、彼は歩道橋に続くエスカレーターに足を進めていく。
エスカレーターに乗ると、そこにも多くの人々がそれを利用していた。湊は人の多さに嫌気が差しつつも、自身を運んでくれるエスカレーターに身を委ねる。エスカレータの頂上に到着すると、周囲には多彩な店舗の看板が並んでいた。湊はそれらに目をくれずに、歩道橋の終着点である大きな建物の入り口に向かう。
湊が大きな建物に足を踏み入れると、二階のフロアの景色が広がっていた。この建物は四階までは商業エリアになっており、四階の電気屋では、湊も仕事帰りの買い物を楽しんだものであった。
湊は電気屋に寄ろうかと悩んだが、身体の疲労感がそれを拒絶する。彼はその意思に従い建物を通り抜け、京成線の駅に向かうために歩を進めていく。
道中、化粧品を取り扱う店の前を通りかかると、そこでは何人かの女性が賑わっていた。思わず、湊がそちらに視線を向けると、女性たちの中にはオリビアと美沙の姿があった。美沙は何個かの化粧品を手に持ち、それをオリビアに見せていた。
「絶対買った方がいいって。オリビアならモテモテよ」
美沙の言葉に、湊の心は苛立ちを感じた。それがなぜなのか、彼自身にも理解ができなかった。オリビアが友人と買い物をしている姿は、誰が見ても普通の光景に他ならないのだ。
「オリビア」
湊が声をかけた瞬間、二人の視線が彼に集まってくる。そして、オリビアが目を細めながら、湊に歩み寄ってきた
「湊、湊。この口紅、どう思う? 私に似合うと思う?」
その口紅は鮮やかな赤色をしており、湊にはオリビアの清楚な印象を壊すものに見えた。
「全く君には似合わないよ。もう少し薄めにすべきじゃないかな?」
湊の言葉に、オリビアは一瞬眉をひそめるが、すぐに笑顔を取り戻す。彼女は鞄からスマートフォンを取り出し、その画面を湊に向けて見せた。
その画面には、華やかなスカートに、白いトップスの上に、スプリングコートを羽織ったモデルのような女性が写し出されていた。確かに、その洗練された服装は湊の目を引くものであった。しかし、この服装をオリビアが纏うとなると話は別であった。
「美沙が、これが良いって」
オリビアが嬉しそうにしている様子を、背後の美沙が見守るようにうなずいていたが、それとは裏腹に湊の眉間にはしわが寄せられていた。清楚なオリビアに悪影響を与えているのは、美沙なのではないだろうかと、彼は確信し出したのだ。
「オリビア、美沙の言葉なんかに耳を貸すな。俺の言うことを聞いてくれ」
湊の言葉に、オリビアと美沙が目を丸くして、口を半開きに開けていた。一瞬、時間が止まったかのように、三人の間に静寂が流れる。湊自身、非常識なことを言っていのは理解していた。しかし、それでも美沙の悪魔の囁きから彼女を守りたいのだ。
「何言っているのよ! 湊。美沙に謝って」
「謝る気なんかない。あいつは下劣な化粧服とかを勧めて、お前を悪い道に誘惑しようとしてんだよ」
「私が頼んだのよ。だって、こういう格好が・・・湊も好きなんでしょ」
オリビアの言葉を聞き、湊の口が半開きに開く。確かに、彼が美沙に目を奪われていたのは事実だ。だが、人には、それぞれに相応しい格好というものがある。彼の目から見れば、オリビアには湊が決めた清楚な服装が一番似合っているのだ。美沙の勧める下品な服装など論外だろう。
湊が美沙に対して冷たい視線を送ると、彼女が皮肉な笑みを浮かべながら、彼の方に歩み寄ってくる。そして、彼のスーツの襟をぐっと片手で掴み上げる。
「自分の趣味に自惚れているの? でも、あんたは趣味悪いんだよ。スーツもダサいしね。これもママに選んでもらったの?」
「殴りたい」。湊の中でその感情が湧き上がるが、ここで暴行事件を起こせば、警察の厄介になる事は明白だ。湊の人生は品性下劣な女のことで棒に振れるものではない。湊は手を震わせながらも、美沙に鋭い視線を向ける。対する彼女は微動だにせず、自信に満ちた目で湊を見据えていた。
その緊張感が満ちた空気を断ち切るようにオリビアが、湊と美沙の間に割って入ってくる。
「二人ともやめて!」
オリビアの悲痛な叫びに、美沙が湊のスーツから手を離すと、柔らかな表情でオリビアの髪を撫でる。湊は自らの幼稚な行動に気付き、反省の色を顔に浮かべる。
「・・・すまない。どうかしていた。邪魔したよ」
その言葉を残し、湊は逃げるように京成線へ向けて足を運び始める。
「湊! 後で連絡するから!」
オリビアの声が背後から響いてきたが、湊は振り返ることなく、背中を丸めて帰路の道を歩き続ける。
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