第11話 魂の戦い(vs 惚の世界)
広々とした部屋の大部分は、ガラスの窓が占めており、そこには都会のパノラマが広がっていた。その光景を見れば、自分がその都市の支配者になったような優越感を感じるだろう。
天井の中央には、煌びやかなシャンデリアが垂れ下がり、存在感を放っている。壁際に置かれているテレビ台の上には大きなテレビが設置されており、視聴者に大迫力の映像を提供してくれることだろう。
普通の感覚であれば、満足の出来る部屋であったが、一つ問題があった。部屋のあらゆる物が真っ白く染まってしまっていたのだ。それは、この部屋だけに収まらず、外の風景も真っ白に染まっていた。
白い部屋の床には絨毯が弾かれており、湊はその上に横たわっていた。快適な絨毯は、湊に雲の上にいるような寝心地を与えてきたが、今の彼はそれに甘える訳にも行かない。
湊はゆっくりと立ち上がり、近くの窓に歩み寄った。目の前には真っ白な壮大な建造物が広がっており、中でもひときわ目立つのが真っ白な塔だった。その形状は色を失ってはいたものの、東京タワーを彷彿とさせた。そして、そのタワーと部屋の距離感は、ここが東京の真ん中であることを物語っていた。
突如、奇妙な場所に放り出される。この現象は魂の戦いに呼ばれる際の現象に酷似していた。
様々な疑問が湊の脳裏に浮かんでは消えたが、まずは仲間たちと合流することが先決だろう。彼は首を左右に動かし、部屋の出入り口を探す。
その時、どこからか、扉の開くような音が聞こえて来たかと思うと、その後すぐに足早にこちらに近づいてくる足音が聞こえて来る。
湊の脳裏に警告音が鳴り始める。魂の戦いで、誰の部屋かも分からないのだ。何者が部屋に入ってきたか分かったものではない。
足音が徐々に近づくと、湊は緊張の色を見せつつ身を低くした。やがて、部屋の扉がゆっくりと開く。その先には、淡い桃色のローブを纏った女性が立っていた。彼女の口元は微かに開き、荒い呼吸をしている様子が伺えた。
入室してきた女性は、テレビ台の方に向かっていき、台の上に置いてある写真立てのような物を手で倒す。そして、彼女の視線は湊に向けられてくる。
「はあはあ、また会っちゃいましたね」
その者の風貌や口調から察するに、恐らくは慈愛の従者である可能性が高かった。湊の心から、次第に警戒心が消え失せていった。
「ここは?」
「ここは、東京都の六本木です。そして、元の世界のオリビアのお家なのです」
その言葉に湊の目が丸くなる。「六本木」のような都会で、高級マンションを借りるには、莫大な維持費が必要だと思えたためだ。常に節約を心がけている彼女が、このような場所に住むことは想像もしていなかった。
「元の世界のオリビアがこんな住居を借りているのですか? あんなに倹約家なのに・・・」
「オリビアが? それはあなたの世界だけの話なのです」
湊の心の中で確固としていた常識が揺らいでいた。想い出の存在しない悠太、散財をする元の世界のオリビア。大事な二人の印象が崩れ始めてしまっていた。
湊は深呼吸をし、再び贅沢な部屋を見渡してみることにする。見渡す彼の瞳を惹きつけたのは、テレビ台の上で倒れている写真立てであった。その写真には、湊の知らない何かが映り込んでいるように思えてきたのだ。
「魂でも物には干渉できるのかな?」
湊がテレビ台に近づいて行くと、慈愛の従者が手を伸ばして来る。
「物にはさわれます。でも、人のお家なので・・・」
湊は慈愛の従者の制止を無視して、テレビ台の上に倒れている写真立てを手に取る。そこには、オリビアと悠太が微笑んでいる姿が存在していた。
しかし、写真の中のオリビアは、湊の記憶にある彼女とは別人のように思えた。写真のオリビアはノースリーブのトップスに短めのスカートを身に纏っており、顔には厚めの化粧が塗り込まれていた。
もう一方の悠太の姿も別人のようであった。前髪を上げ、丁寧に整えられた髪型。上質に仕立て上げられたスーツを着ており、その腕には高級そうな時計が巻かれていた。富裕層の人間と呼ぶのが相応しい姿がそこにはあったのだ。
そして、驚くことに悠太の腕がオリビアの細い腰に回されていたのだ。その写真に、湊の心に強い風が吹き荒れ、荒波が高く打ち上がられた。彼は深呼吸し、混乱する心を落ち着け、慈愛の従者に視線を送る。
「どうにも腑に落ちないのです。なぜ、こんなに記憶と違うんだ・・・」
「あなたたちは神様に導かれているのです。とくにあなたの終の世界は」
「どう言うこと?」
湊が言うと、慈愛の従者が深く息を吸い込みながら俯く。
「・・・ごめんなさい。やはり、このことは話しちゃダメかもしれない」
「教えて欲しいんだ!」
慈愛の従者は、何度か言葉を口から発しようとしては、途中で止める動きを繰り返した。しかし、しばらくすると、彼女の瞳に決意の意思が宿る。
「導きとは、神の指示のもと、魂のしたいことや思い出を変えるのです。あなた達が幸せに生きられるために・・・」
慈愛の従者は両手を胸の前に移動させ、それを優しく合わせ、まるで祈るかのような優雅な仕草を見せた。
神が湊たちの行動や思い出を意のままに操り、正しい道へと導いているのだろうか。そこで、湊は悠太の高校の記憶が蘇らなかった時のことを思い返す。当時、慈愛の従者が呟いた高校名に同意してしまったが、今考えても不自然な流れであった。既に神に決められていること。運命という言葉は美しく響くが、それは自由な意志を奪われた洗脳とは何が違うのであろうか。
「それは、導きと言えるのか? ただ、人を操り人形にしているだけでは?」
湊が発した声は、まるで自分で発したとは思えない冷たさであった。その瞬間、彼の心の温度が下がってきているように感じた。人であれ、神の関係者であれ、他者に運命を預けるのは愚かしい行為だ。
「えっ? ち、ちがうのです」
「何が違う? 貴方たちは俺ら人間に考える余地すら与えていない」
「ち、ちがうのです。神様はそんなことをしたいんじゃないの。あなたたちを苦しませないように・・・」
慈愛の従者の声はか細く、どこか戸惑っているように聞こえた。その姿を前にして、湊に冷酷な感情が芽生えてくる。
「シン教って知っているでしょ?」
「神様のお考えをみんなに教えてくれる、宗教なのです」
「それによると、導きとか言って、人を玩具のように操っているのは、慈愛の従者の貴方じゃないか?」
「ち、ちがうもん・・・。あなたたちはわたしたちの導きで幸せになっているのです。導きを失ったら不幸になっちゃうのです」
慈愛の従者の機械の声は震えており、まるで涙を抑えるのに必死のようだった。その声を聞いて、湊は我に返る。
慈愛の従者が魂の意思や記憶の操作を行っているとしたら、湊はそれを導きとは捉えられない。神の意向だとしても、それが許されるとは思えなかった。しかし、彼女は神の言葉に従っているだけだ。これ以上、非難しても意味がないだろう。
「ごめん。言いすぎたよ。ただ、もう、その導きは止めて欲しいんだ」
慈愛の従者は言葉を返さずに、静かに俯く。湊の発言は彼女の心を削り過ぎたのだろう。彼女に不快な感情を持たれることは、湊たちの利点には繋がらないだろう。
湊は慰めの言葉を探していたが、突如、インターフォンの音が耳に飛び込んでくる。静寂の中での、突然の音に湊の身体が小刻みに震える。
湊が無反応のままでいると、再度インターフォンのチャイムが響く。彼が視線を向けると、そこにはモニターが映し出され、オリビア、草薙、マイケルの顔が映っていた。湊はモニターの前まで移動し、通話ボタンを押す。
「湊さん? ドアを開けてくださいね」
マイケルの声がモニターから響き渡る。
湊は、慈愛の従者の様子を伺いながら、彼女が入って来た扉の方に足を進めて行く。彼女は未だにうなだれているようであったが、仲間のためにも玄関の扉を開けに行く方が先決だ。
湊が扉を開けると、彼の視界に広々とした廊下が広がり、壁にはいくつもの部屋の扉が並んでいた。しかし、湊はそれらに目もくれず、廊下の奥にある玄関へと足を運んでいく。
湊が玄関に到着すると、彼の視界に大きなシューズクローゼットが飛び込んでくる。このような立派なものがある家に住むことは彼には想像もできなかった。湊は扉の取手を握り、ゆっくりと扉を開く。
扉の先には、豪華な内廊下が広がっていた。屋内に作られたこの廊下は、四季を問わずに快適に過ごせる設計がされていた。そして、廊下には、オリビア、草薙、マイケルの顔があった。
湊は仲間たちの顔に安堵を覚えたが、オリビアの姿に驚きを覚えた。彼女の唇が普段よりも赤く染まっており、薄い黄色のワンピースの丈も少し短くなっているように感じたのだ。湊は学校の生活指導の教師のように注意を促したい気持ちになってくるが、彼はそのような発言ができる立場にはない。
湊がオリビアを見つめていると、彼女が首を傾げながら、怪訝な表情を浮かべる。
「ここに集合で良いのよね。扉の前にここに集まれって紙が貼ってあったわ」
湊が扉の外側に視線を向けると、ミミズのような文字で「ここに、あつまってください」と書かれた紙が貼られていた。その汚い字に、湊は思わず笑みを浮かべてしまう。
「ははっ、汚い字だなぁ」
湊が笑みを浮かべると、後ろから足音が聞こえて来る。
「そ、それを書いたのは、わたしなのです!」
湊が振り返ると、そこには、顔は赤く染め、頬に空気を入れた慈愛の従者が立っていた。その無邪気な様子に、湊は少し笑ってしまう。神の使者とは思えないほど、彼女には人間らしさが滲み出ていた。湊は彼女に暖かい目を向けた。
しかし、一方で、オリビアの視線は慈愛の従者が持つトートバッグに釘付けになっていた。
「前から気になっていたけど、貴方のトートバッグって」
「わたしの好きなバッグなのです。あなたも気になりますか?」
慈愛の従者の言葉に、オリビアは首を横に振った。そのバッグの子供っぽいデザインは、オリビアにはあまり似合わないように湊には感じた。しかし、湊の思案が解答を得る前に、慈愛の従者は試合前の説明を始めてしまう。
「今回の戦いのことを話しますね。相手の《惚の世界》の人たちは、小林湊さん、オリビア・ブラウンさん、リアム・ジョンソンさんです。そして、ここは元の世界の六本木なのです」
湊はその参加者の名前を耳にし、目を大きく見開いた。船橋の教会以降、彼はリアムとは何度も会っていた。リアムは優しさに溢れた人物で、湊とは気が合った。そんな、彼が敵になってしまったのだ。だが、なぜか、草薙も驚きの表情を浮かべていた。
「リアム・ジョンソン?」
草薙が声を上げる。その表情には、驚きと共に、恐れの感情が混ざっているように思えた。
「知り合いなの?」
「うん。前に話した魂の力を教えてくれた幼馴染があいつなんだけどね。これは参ったね。あいつは、僕の魂力の師匠みたいなもんなんだよ」
草薙の言葉に、湊の顔色が急速に悪くなって行く。前回の魂の戦いで、草彅の恐ろしさは心の奥底に刻み込まれている。リアムは、それを上回る力を持っていると言うのだ。一同の間に緊張からの静寂が走る。
その静寂を破るように、慈愛の従者が、湊の背後から皆の中心に足を進めてくる。彼女の動きに呼応するように、一同の視線が彼女に向けられる。
「ええ、リアムさんは、怖い人なのです。ただ、・・・勝ってください。相手の人達はこのマンションの同じ階にいます」
慈愛の従者の言葉に湊は己の耳を疑う。中立である彼らが、相手の居場所を湊たちに伝えて来たのは初めてであったからだ。
すると、次第に慈愛の従者の姿が霞んでいく。そして、口元に暗い表情を浮かべた彼女の姿は完全に消えてしまう。その慈愛の従者の消えゆく姿を見て、湊の心には冷たい風が吹いた気がした。そんな、俯いている湊とは裏腹に、草薙が険しい表情を浮かべていた。
「リアムが相手なら、慎重に進めないとね。同じ階にいるのであれば、ここから離れた方がいい」
草薙の意見は湊も同感であった。慈愛の従者からの有益な情報を生かさない手はない。リアムへの戦略を練るには、腕時計が試合の開始を知らせる前に、敵との距離を取る必要がある。
草薙は湊に背を向けて内廊下を歩きだした。マイケルも彼を追うように歩き始めたため、湊も追従しようとしたが、オリビアが立ち止まっているのが目に入る。彼女は頭を垂れており、顔に影が落ちているようだった。その様子に湊は気を取られ、彼女に声をかける。
「どうしたの?」
「・・・湊。自分が変わっていく感じがすることはない?」
「いや、俺は感じたことがないよ。オリビアは?」
オリビアは顔を上げ、何かを伝えようと口を開けたものの、それが言葉になることはなかった。やがて、彼女の深刻な表情は笑顔に変化して行く。
「私は大丈夫。湊は平気かな? と思ったの。今日こそ、相手の人たちと戦わないようにしようね」
「無理だよ。そんなこと」
湊は深いため息をついた。オリビアも魂の戦いを経験してきたはずなのだ。冷静に考えれば、規則に従い戦って勝ち残るしかない。あの慈愛の従者ですら、湊の申し出は却下してきた。他に誰が、彼らの言葉に耳を傾けてくれるというのだろうか。
大人である湊たちが、正義のヒーローごっこを続ける訳にもいかないのだ。その現実をオリビアにも受け入れてほしかった。
「えっ? でも・・・」
「いいから行こう。置いてかれちゃうよ」
湊はオリビアに一瞥した後に、背を向けて草薙たちを追うために歩を進め始める。オリビアは少しの間、立ち尽くしていたが、諦めたように彼に追従してくる。
戦うことは避けられないが、オリビアの発言は湊の心に引っかかっていた。最近の彼女の様子には何か違和感がある。再会した美沙の影響かもしれないが、魂の戦いによる影響も考えられる。もし、彼女が自身を失って変わってしまうことがあれば、湊の心は確実に砕け散ることだろう。
湊とオリビアの目の前を歩く草薙とマイケルが左に曲がって行くと、湊とオリビアも彼らの後を追い、同じく左に進んだ。その先には広いエレベータホールが広がっており、合計四機のエレベータが並んでいた。そこの壁には「三十階」という文字が刻まれていた。
草薙はエレベータの扉まで歩を進めていくと、扉の横にあるボタンを押す。ほどなくして、エレベータの内部から、機械が動くような音が鳴り響いてくる。
その瞬間、湊の腕時計から、けたたましい音が鳴り響く。すると、一同の時間が一時的に止まったような静寂が広がったが、草薙が険しい表情を浮かべ始める。
「まずい! まさか、ここで開始なんて!」
草薙の叫び声と同時に、遠くから扉が開く大きな音が響いてきた。
ほどなくして、異常に早い足音が響き渡ってくる。湊が慌てるようにエレベータ付近のモニターに視線を向けたが、そこには「六階」と表示されていた。
響き渡る足音が止まったかと思うと、辺りは静寂に包まれる。
恐る恐ると、湊はエレベータホールの入り口に目をやった。そこには、金髪の長髪と、端正な顔立ちを持つリアムが無表情に立っていた。しかしその彼の姿は半透明で、背後の景色が透けて見える異様な姿となっていた。
リアムが前屈みになったかと思うと、次の瞬間、彼は目にも止まらない速度で襲いかかってくる。マイケルはすぐに身を乗り出して、進路を遮ろうとしたが、リアムが彼に近づくと、マイケルがピンポン玉のように背後に吹き飛んでいく。その身体はホールの壁に激突し、大きな音と共に、巨大な穴を開けた。その大きな穴からは反対側の内廊下が映し出されていた。
その驚きの光景に湊の目が大きく開かれる。彼はこれまでも何度かの魂の戦いを体験してきたが、こんな光景を見たのは初めてであった。
邪魔者を排除したリアムが再び前屈みになったが、突如、彼の身体が宙に舞ったかと思うと、背後の部屋に吸い込まれていき、扉に叩きつけられる。
湊が振り返ると、そこには、リアムに対して手の平を向けている草薙の姿があった。
「湊君! あいつとやり合うのは無理だ。ここは一度引こう!」
湊も草薙の意見に賛成であった。彼らがリアムの圧倒的な力に挑むのは自殺行為だろう。マイケルの安否は気になるが、ここは逃げるしかない。
しかし、湊たちの助け舟であるエレベータのモニターには「二十五」と表示されていた。まだ、エレベータは到達しそうにないが、リアムは既に立ち上がり、こちらに向かって来ようとしていた。
再び、草薙がリアムに手を伸ばすと、彼は部屋の扉に叩きつけられた。その叩きつけられる音に続いて、エレベータから救いの到着音が響き渡る。そして、その入り口をゆっくりと開いていった。
エレベータの扉が開くと、草薙は瞬時に中へと乗り込んでいった。湊はオリビアの手を掴んで、彼女を連れてエレベータに乗ろうとする。しかし、湊は彼女を引いている手に重みが感じた。湊が振り返ると、オリビアが廊下に横たわっているマイケルに視線を向けていた。
「マイケルさんを助けないと・・・」
オリビアが湊の逃走の意思を拒絶しているのだろう。彼女の優しさからの行動だが、今はそんな事態ではない。湊はオリビアの手を強く握り、力強く引っ張った。
リアムが再び起き上がる前に、エレベータへ乗り込まなければ、湊たちの命のローソクの炎は消え去ることになる。彼は腕に力を込めてオリビアを引き寄せ、彼女をエレベータに押し込んだ。そして、彼も急いでその中へ足を踏み入れた。
湊たちがエレベータに入るのを確認すると、草薙が急いで「閉」と書かれているボタンを押し、扉がゆっくりと閉まり始める。
エレベータの扉が閉まり切ろうかという時に、突如、大きな音が鳴り響く。湊たちの目の前には、扉の間から生える一つの腕があった。彼らにとって、それは悪魔の手のように恐ろしく映った。
エレベータのセンサーが異物を検知し、鈍い音共に扉をゆっくりと開いていった。その扉の先には、彼らにとっては恐怖の象徴となった無表情のリアムの顔が現れる。
その瞬間、草薙が手をリアムに向けたが、彼が腰を落としたかと思うと、少し髪をなびかせただけで、前回のように背後に吹き飛ぶことはなかった。
リアムがゆっくりとエレベータに足を踏み入れようとしてきたが、突如、彼の腰に手が巻き付いたかと思うと、エレベータから引き摺り出されて行く。驚いた湊がリアムの後ろを注視すると、そこには、透明に染まったマイケルの姿があった。
「み、湊さんたちを守るです。だから、い、行かせるわけには行きませんね。皆さん、早く逃げて!」
その瞬間、草薙はエレベータの「閉」ボタンを押した。静かな機械音とともに、エレベータの扉がゆっくりと閉まり、すぐに下の階へと移動を始めた。
「はあはあ、とりあえず、逃げられたね」
草薙は安堵の表情を浮かべてその場に座り込んだ。彼の額からは無数の汗が滴っていた。それとは裏腹に、オリビアの顔は依然として険しいままだった。
「マイケルさんを助けに行かないと!」
オリビアの言葉に湊がため息を吐く。現在の状況をオリビアに理解させる必要がある。
「いいかい、オリビア。大人になって考えてくれ。俺が戦闘不能になれば、全てが終わるんだ。マイケルさんも、俺らの世界を生き残らせるために頑張ってくれているんだ」
オリビアは抗議の声を上げようと口を開いたが、言葉は出てこなかった。しばらくの後、彼女は納得したかのように頷く。
「そうね・・・。私達の世界が無くなっちゃうんだもの。湊を守る方が大切だわ」
オリビアが心の葛藤を収めるように言ったが、彼女の納得が早いことに、湊は違和感を持った。しかし、今の状況では助かったと言うべきだろう。
オリビアの説得が終わったとなると、次に行うべきは現状の打破だろう。湊には、このまま一階に行くのが正しいかが分からなかったのだ。恐らく、彼らを追いかけるように、リアムも別のエレベータで一階まで降りて来るだろう。
そうなれば、湊たちはリアムに追われる運命にある。彼を倒すのが不可能ならば、湊たちはリアムの弱点である《別世界の湊》を倒す必要がある。しかし、別世界の湊が三十階に残ったままであれば、湊たちは打破が不可能な鬼ごっこをすることになりかねない。一方、別世界の彼らが共に行動することも十分に考えられるだろう。そう考えると、湊たちは、リアムの弱点の居場所を把握する必要がある。
「リアムから遠ざけて、別世界の俺を倒さないと・・・」
「それは分かる。でも、どうやって? あいつらの場所がわからない」
草薙が苛立ちを隠せない声を上げる。彼の言う通り、肝心な別世界の湊の居場所を把握できなければ、地獄の鬼ごっこをする以外に方法はない。
相手の位置を特定できる機械があれば、現状を打開できるだろう。しかし、当然のことながら、湊たちはそのようなものを持ち合わせていない。
その時、エレベータの片隅に端末があるのが、湊の目に飛び込んでくる。確かに先ほどまではそこには何もなかったはずだ。湊はその端末に向けて歩を進めて行く。
湊が端末を手に取ると、それは外見上、スマートフォンのように見えた。そして、この世界にある他の物質とは一線を画するように、その端末には色がついていた。
「えっ? スマホ?」
草薙が目を丸くしていた。湊は駄目元でスマートフォンの電源ボタンを押してみる。すると、画面に平時の世界と同様の起動画面が表示される。
しばらくすると、スマートフォンが操作可能な状態になる。湊は地図のアイコンを指で触れる。すると、画面には「終湊」と「惚湊」とマークが重なって表示されていた。これは、何を意味するのだろうかと、湊は考えていたが、先ほどの相手の世界は惚の世界と呼ばれていた。そして、湊の世界は終の世界と呼ばれている。これは、自分と相手の位置を意味するのではないだろうか。
湊は驚愕と同時に心が弾む。慈愛の従者の助言も含めて、湊の世界を勝たせようとする神の意志が働いているように思えた。湊は口角を上げながら、オリビアと草薙に歩み寄る。そして、二人にスマートフォンの地図を見せる。
「このスマートフォンは僕らの位置を伝えてくれているってこと?」
草薙は驚愕の表情を浮かべた。確かに、現実世界にはそんな機械は存在しない。だが、彼ら自身の現状を考慮すれば、このスマートフォンの情報を信じる以外の選択肢はない。
湊は現在地から大通りの右方向へと手を伸ばして指差した。
「まず、ここの近くのビルに隠れよう。そして、この地図の結果を確かめよう」
湊が言うと、オリビアと草薙が首を縦に振る。
湊がエレベータのモニターに視線を向けると、そこには、「二」という数字が表示されていた。ほどなく、到着を伝える音が鳴ると、エレベータの扉が静かに開き始める。
草薙は即座にエレベータから飛び出していき、それを追うように、湊もオリビアの手を掴み、外へと駆け出した。
エレベータの外に出ると、湊は別のエレベータのモニターに視線を向ける。そこには、「二十」と表示されており、その数字は徐々に減ってきていた。彼らは急いでマンションから離れる必要があった。湊たちはマンションの出口らしき場所に向かい駆け出す。
一階は、居住エリアではなく、華やかな雰囲気を持つ共用施設の場所になっていた。天井にはシャンデリアが垂れ下がっており、気品さを感じられた。そして、所々に、花が飾られてあった。色彩豊かであれば、ここは、選ばれし者に相応しい住居だと思えた。
しかし、その者たちの姿はどこにも存在しない。静寂が広がるその空間には、湊たちが走る足音だけが響いていた。
駆け出している湊たちの視界の景色は目まぐるしく変化していった。
そして、外の景色が見える大きなガラスの扉の前まで到達する。
そこには、真っ白ながら豪華なロビーが広がっていた。応接用のソファーや、平時の世界であるならば、コンシェルジュが待機しているような受付も存在していた。しかし、今では、その場所に人は存在しない。
湊たちは受付を無視するように駆け抜けて行こうとしたが、突如、受付の方から「イッテラッシャイマセ」と小さな声が耳に飛び込んでくる。そして、それに応じるように「ドーモ」という声までもが彼の耳に入ってくる。
思わず声に反応した湊が足を止めると、静寂だけが広がっており、先ほどの声の主の姿はなかった。その怪奇な現象に彼の背筋が冷たくなる。
「足を止めちゃダメだ! 走って」
草薙がこちらを振り返りながら叫ぶ。先ほどの声が現実のものだったのか、湊の幻聴だったのかは分からない。ただ、彼らにはそれを思案する時間はない。湊は怪奇現象を捨て置き、再び、マンションの出入り口に向け駆け始める。
外界に足を踏み入れると、大通りが目の前に広がっていた。多くの店舗や高層な建物が並んでいるその場所にさえ、人影は一つもなかった。そこに並ぶ建造物たちは人と色を失い、時間が止まっているようにも見える。
前を走る草薙は大通りを右に向かって疾走していく。オリビアの手を引く湊もそれを追うように右に曲がる。湊は自身の心臓が異常に高鳴っていることを感じる。手を引いているオリビアからも、苦しげな呼吸が聞こえてき、このまま、走り続けるのには無理があるように思えてきていた。
その時、湊の目が雑居ビルの姿を捉える。そこは入り口も空いており、誰の侵入も許してくれそうに思えた。一時的な避難場所としては最適ではないだろうか。
「く、草薙。右に見えるビルに入ろう」
湊の言葉を聞いた途端、草薙はその雑居ビルへと急いで入っていった。湊たちも速やかに彼の後を追ってビルの中へと足を踏み入れていく。
そのビルに入ると、湊は疲れ切った身体を壁に預けると、オリビアに視線を向ける。女性である彼女には、彼らよりも厳しい逃走劇だったのだろう。壁の近くに座り込んでしまい、必死に酸素を求めるように口を大きく開けていた。
「はぁはぁ、オリビア、大丈夫?」
「う、うん。ありがとう」
オリビアの回答を受け、湊は手に持つスマートフォンの画面を確認する。そこには「終湊」の印が大通りを右に曲がった箇所に移動しており、「惚湊」の印は大通りを左方向へと進行していた。敵が反対方向に移動していることに、湊は肩を撫で下ろす。
しかし、湊たちの直面している問題はまだ完全に解決されていない。別世界の湊とリアムが共に行動する限り、彼らの勝機は望めない。誰かが、別世界の湊とリアムを引き離さなければならない。
「誰かがリアムの気を引いて、別世界の俺から引き離さないと」
湊の言葉に対し、草薙が真剣な眼差しを向けてくる。その瞳には一つの決心が宿っているように思えた。
「囮が必要だね。それは僕がやろう。その間に君が別世界の湊君を倒してくれ」
草薙は湊の意図をすぐに察してくれた。湊が囮となるよりも、魂力に優れる草薙のほうがリアムの注意を引きやすいだろう。湊は、その提案に同意するかのように首を縦に振った。
「決まりだね。それじゃあ、ここの裏道から相手に近づこう」
湊はスマートフォンをオリビアと草薙の眼前に向け、地図上で彼らの現在地の裏側に位置する道路を指で示す。それを見た二人は同意の意を示すように首を縦に振った。
湊はスマートフォンを片手で握りしめると、雑居ビルの出入り口を指差す。それを合図に、三人は外界に出るために足を進め始める。
外界に出ると、湊たちは辺りを数度見回し、地図に示された雑居ビルの右側を通る道を走り始める。そこの道を進めば裏通りに行けるだろう。
湊たちが裏通りに足を踏み入れると、狭い路地と、複数の店舗が目の前に広がる。普段であれば、賑わいが広がっていることだろうが、この世界では静寂に包まれていた。湊たちは足音を殺しながら裏通りを走り出す。もし、リアムと遭遇すれば全ての努力は水の泡と化すだろう。
どれだけの距離を走ったのだろうか。実際の距離は然程なのかもしれないが、その時間は悠久のものに思えた。湊の額からは冷たい汗がこぼれ落ちて来ていた。オリビアも草薙も同様に緊張した面持ちをしていた。
スマートフォンの画面に視線を向けると、地図では、「終湊」と「惚湊」が別通りで真横に並んでいた。湊が足を止めると、すぐにオリビアと草薙が寄ってきて、同じく画面を覗き込んだ
「もう近くだね。僕はもう少し西方向に進んだ場所で裏通りから出る。君らは、そこに見える道から大通りに出てくれ」
草薙は素早く近くにある通りを指差し、静かに西方向に駆け出し始める。彼が行動を起こすと、湊たちも近くにある、大通りに続く狭い道に向かい始める。
湊たちが狭い道をしばらく歩くと大通りが近づいてくる。すると、彼は大通り沿いのビルの影に素早く身を隠した。目の前の大通りには、別世界の自分とオリビア、そしてリアムの姿が確認できた。彼らは湊たちを探しているようで、挙動不審に辺りを見回していた。しかし、幸運にも、彼らの目線や進行方向は草薙が走っていた方向に向かっていた。
「俺が出ていっても、オリビアはここに隠れていて」
湊がオリビアの耳元で言うと、オリビアが驚愕した表情を浮かべる。
「やだ。湊、そんな耳元で照れるわ」
オリビアの言葉に、湊が目を丸くさせる。今の状況を理解しているのだろうか。すると、一瞬、彼女自身の顔にも動揺の色が浮かぶ。
「ごめん・・・。湊、気をつけてね。危なそうなら、私も・・・」
「いや、俺がどんな目にあっても隠れていてくれ」
湊が言うと、オリビアが憂いを帯びた顔でうなずく。
後は草薙の登場を待つだけだった。しかし、湊の胸に不安が募っていた。彼の心臓は高鳴り、次々と浮かぶ悪い予感が彼を苦しめていた。草薙が現れないのではないだろうか、あるいは湊たちが先に見つかってしまうのではという心配が湊の心を締め付けていた。
しかし、その心配は少なくとも一つは杞憂に終わった。予定通り、草薙が大通りに姿を現わしたからだ。
「よし! 決着をつけよう!」
湊は草薙の芝居がかった言葉に頭を抱える。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。リアムが餌に食い付けば、湊が別世界の自分に襲い掛からないとならない。
すると、前屈みになるリアムが湊の視界に飛び込んでくる。どうやら、草薙の芝居がかった言葉は功を奏したようであった。リアムが草薙に向かって猛然と駆け出していく。
「待て! リアム罠だ!」
別世界の自分が叫び声を上げたが、リアムはそれを無視し、草薙の方へと猛進していった。この機会を逃してはならないと、湊は大通りへと飛び出した。
突如現れた湊に対し、リアムは足を止め、彼に視線を向けてきたが、瞬時に草薙が手を伸ばす。
すると、リアムの動き一切が止まる。それは、まるで見えない力で拘束されているようであった。恐らくは、草薙の魂力によるものだろう。
湊は別世界の自分に疾走し、そのまま、彼に体当たりを食らわせる。その衝撃に耐えられなかった別世界の自分が背後に倒れると、湊はその上に勢いよく跨る。
近くにいた別世界のオリビアの悲鳴が耳に響くものの、湊の心にはその声は届かなかった。彼の頭の中には、ただこの戦いを終わらせるという一念だけが渦巻いていた。力を込めて振りかぶった彼の右拳が、別世界の自分の顔面へ猛然と向かっていく。
「くそ、無教養の無能が神たる優秀な俺を手にかけるって言うのか!?」
別世界の自分の傲慢な言葉には明らかな侮蔑が感じられた。自分と同じ魂を持つ者の汚い言葉は、湊に吐き気を感じさせた。
しかし、その言葉とは対照的に、別世界の自分は弱々しく、身体を小刻みに震わせていただけだった。湊は繰り返し、彼の顔に拳を振り下ろす。その暴力の音を聞きつけて、近くで震えていた別世界のオリビアが湊の方へと歩んできた。
「お、お金ならあるの。これで解決できないかしら!?」
別世界のオリビアは震える手を鞄に伸ばしていた。彼女のものとは思えない下品な言葉は湊の怒りを増幅させた。湊の拳には一層力が入り、別世界の自分に拳の雨を降らせる。
しかし、湊の視界の端に、小刻みに震えてながら地面に崩れ落ちる別世界のオリビアの姿が捉えられる。俯瞰して見れば、湊の姿は何とも猟奇的であろう。だが、湊は自らの感情に流され、攻撃の手を止めるわけにはいかなかった。
もう少し、もう少しで湊の世界の勝利が決まるのだ。
「やめて!」
別世界のオリビアが叫ぶと、湊の拳が止まる。それは、彼の意思によるものではなく、内なる魂の声が自らの行為を拒絶しているようであった。「暴力は止めなければならない」と、湊の魂が告げてきてい流ように思えた。
しかし、湊はその声を無視し、首を横に振った。この時点で攻撃を躊躇すれば、彼の世界の未来は失われるだろう。再び、湊は別世界の自分に対して拳を振り上げた。
その光景に耐えかねた別世界のオリビアが湊を止めるために、彼の肩に手を置こうとしたが、湊はその手を左手で払いのける。驚いた表情をした別世界のオリビアは、背後に足を移動させていったかと思うと、足を取られて地面に叩きつけられる。その瞬間、湊の心は動揺を覚えたが、戦うことを止めるわけにはいかなかった。彼は再び別世界の自分に拳を叩きつける。
次第に、別世界の自分の身体が透明に変わり始め、その背後の白い地面が見え始めた。湊にとって、これは勝利の兆しと感じられた。
「だ、だめだ!」
草薙の叫び声が聞こえてくると、湊はその方向へと視線を移動させる。すると、リアムが力づくで、草薙の拘束の力を破ったのか、彼に向かって猛然と襲い掛かろうとしていた。
リアムは距離を一気に詰めると、足を天高く振り上げ、草薙の顔目がけてそれを叩きつける。一瞬、二人の間に光の壁のようなものが見えたが、それはガラスのように破壊され、リアムの足が草薙の顔に叩き込まれる。
すると、草薙は糸の切れた人形のように前のめりに倒れ込んだ。湊が視線を向けると、彼の姿は透明に染まっているように見えた。
草薙を片付けたと認識したのか、リアムが湊の方に機械のような無表情な顔を向けて来る。その冷たい視線に、湊の背中が凍りつく。
湊が再び別世界の自分の方に目を向けると、彼の姿はすでに透明に染まり、微動だにしていなかった。これが気を失っているのであれば、湊たちの世界の勝利は確定したように思える。
しかし、湊が再びリアムの方に視線を向けると、透明感のある長い足が目の前に立ちはだかっていた。そして、その足の主であるリアムの感情のかけらもない表情が、湊を見下ろしていた。
「もう、終わりだろう」湊は心の中で諦めのように呟いた。せっかくの努力も全てが水の泡だろう。湊は青い顔をしながら、静かに頭を垂れた。
リアムの手がゆっくりと、湊の首へと伸びてきた。それは彼にとっては死神の鎌のように思えて来た。
リアムの手が湊の首に触れる寸前、突如、半透明な手が伸びて、その腕を掴む。湊が驚愕した表情で透明な腕の主を確認すると、そこには半透明な希望の従者の姿があった。
「貴方の世界の湊さんは意識を失いました。試合終了です。神の定めた規則は守って頂く」
そう言った希望の従者の姿は徐々に彩られていき、最初に出会った鮮明な姿へと変貌していった。リアムが彼の手を振り払おうと腕を動かしたが、希望の従者の手はしっかりとリアムの腕を掴んでおり、一向に離れる様子はなかった。
すると、リアムの唇がゆっくりと動き、何か言葉を発しようとしていた。
「・・・その神が言っている。僕の世界が残るべきだと」
リアムの声はか細く、耳をすませば辛うじて聞き取れるものであった。
その直後、リアムは逆の腕を振りかぶり、希望の従者の顔に向けて拳を繰り出す。しかし、希望の従者が僅かに首を動かすと、その拳を無情にも風を切る。
希望の従者が、口元に歪んだ笑みを浮かべたかと思うと、突如、リアムが背後に倒れて行く。希望の従者は攻撃をした訳ではない。ただ、リアムが突如として倒れていったのだ。地面に横たわった彼の半透明な身体は、更に薄れていくと、機能を完全に停止した。
希望の従者は、埃を祓うように手を数度叩いた後に、湊の方に視線を向けてくる。驚異的な力を持ったリアムを制圧した男に、湊は恐怖を覚える。
「貴方達の勝利です。おめでとうございます」
希望の従者が何事もなかったかのように言うが、彼の介入が僅かでも遅れていれば、湊たちの世界は今頃消え去る運命を辿っていただろう。その事実を考えると、湊には喜ぶ余裕などはなかった。他の世界の参加者にリアムが居たとしたら、常に敗北の危機が襲って来ることになる。
湊が不安を掻き立てられていると、希望の従者の隣に突如として半透明なローブを纏った者が現れる。その者の色が徐々に戻ってくると、やがてはローブには柔らかな桃色が輝き始めた。突如、姿を現す神の従者たちは実に心臓に悪かった。
「戦いは終わりましたよね。なら、怪我した人を助けなければなのです・・・」
「我々が何者かを救助することはありません。魂の戦いで生き残るか、消え去るかどちらかだけですよ」
湊は神の従者たちの言葉を聞き、マイケルの安否が気になり始める。彼は湊たちの代わりに犠牲になったとも言えるだろう。ただ、あの時の湊の逃走の判断が間違っていたとは思えなかった。湊が敗れれば、世界そのものが終わってしまうのだから。
マイケルを失った場合、悲しい現実を見つめることも大切だが、新しい仲間の補充が必要になる。世界の命運を背負っているのだ。彼らは冷静に、そして倫理的に行動を取らなくてはならないのだ。
しかし、湊はすぐに首を振った。大切な仲間が失われるかもしれない中、悲しみより先に次の戦いを思案してしまっている自らに嫌気が差したのだ。だが、どう頑張っても、湊の心には深い悲しみは訪れなかった。
湊のそんな苦悩をよそに、慈愛の従者が彼の方に歩み寄ってくる。彼女の姿を見ていると、湊の心から苦悩は小さくなり、安らぎが広がっていくように思えた。彼は自分でも気付かぬうちに、口元に微笑を浮かべてしまう。
「前に話してくれたのです。魂の戦いは止めたほうがいいって。なら、あなたたちは並行世界があった方がいいと思いますか?」
慈愛の従者の予想外の問いかけに、湊の目が大きく広がった。まさか、神の従者がこのような発言をしてくるとは夢にも思わなかったからだ。魂の戦いが終わりを迎えることは湊の願いであった。
しかし、湊は即答できないでいた。魂の戦いを止めれば、並行世界が存続する。それは、魂の融合が完全に行われなく、全ての世界の魂が不完全になることを意味している。その事態の重大性に、湊は瞬時に答えることができず、言葉を失ってしまったのだ。
「慈愛の従者よ。余計なことを言うな。魂の戦いは必要なのだ。神の御言葉なのだぞ」
希望の従者の口元からは気味の悪い笑みが消えており、今まで見せたことのない真剣な態度を見せていた。その圧力に押されるように、慈愛の従者は瞬時に顔を伏せる。
「失礼。さて、試合終了です。貴方たちの世界は消えます」
希望の従者は別世界のオリビアに視線を向けていた。
「お金で解決できないの・・・?」
別世界のオリビアの声には絶望が含まれているように思えた。
「無駄です。神の定めたことは絶対です。それでは、勝者の世界の方々とは、また来週に会いましょう」
その言葉と共に、周りの景色が変化を始め、湊の視界は闇に包まれて行く。
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