第2話 悪魔の契約

 闇が空を支配しても、人々の生命力を表すかのように、繁華街の灯りは明るく輝いていた。「東京駅」周辺は、日本の経済の中心としての役割を持つため、多くの店舗や企業が立ち並んでいた。そのため、常に街には活気が満ちている。駅前には天に届くような高層ビルも連なっており、湊の勤める会社もその中の一つに存在していた。

 

 仕事を終えた湊は、自宅への帰路についていた。彼の住む「八丁堀」は、東京駅から僅か一駅先にある。この日は春の暖かさを感じられたため、湊は公共交通機関を使わずに家路につくことを選択した。

 

 湊は、会社の帰りということもあり、黒色のスーツに青いネクタイを身につけていた。彼はこの服装が好きではなかったが、それだけが、足取りの重い理由ではなかった。

 

 魂の戦いの話を会社の同僚に話してみたものの、信じる様子はなく、鼻で笑われただけであった。親しくもない人間に、こんな荒唐無稽な話を受け入れてもらうのは無理があるように思えた。何せ、湊自身も半信半疑の有り様だ。

 

 ただ、湊はあの出来事が夢だと片付けられずにいた。朝に目の当たりにしたノートのことも含め、あの夢の中の出来事には真実味があったのだ。もし、あの夢が現実であるならば、無策でいるわけにはいかない。期間内に仲間を集められなければ、湊は一人で戦いに挑まなければならなくなる。相手の世界の参加者が複数の場合、彼は孤軍奮闘しなければならなくなる。

 

 しばらく、湊が歩いていると「日本橋」の駅が視界に飛び込んでくる。ここには、高級な品々を取り揃える立派なデパートがそびえ立っている。この周辺は、多くの店舗がひしめき合い、まさに東京を象徴する商業エリアの一つと言って良いだろう。

 

 周りの賑わいの中、湊は笑顔で店舗から出入りしている人々を眺めていたが、その笑顔の理由が彼には理解できなかった。友人、恋人、家族と一緒に買い物をすることが、そこまで楽しいのだろうか。

 

 車の排気音と人々の声に交じって、湊の手にある黒い鞄の中から音が鳴り響いて来る。彼は足を止め、鞄からスマートフォンを取り出す。画面には幼馴染の«オリビア・ブラウン»の名前が表示されていた。湊は少し驚いた表情を浮かべながら、通話ボタンを押して電話を受けることにした。


「おーい。悠太だよー。オリビアの電話を借りたんだ。突然だけど、飲まないかー?」


 声の主は、湊のもう一人の幼馴染である«田中悠太»であった。しかし、どうしてオリビアの電話を使用してきたのだろうか。


「東京駅の近く?」


 もし、待ち合わせ場所が遠方であれば、湊は断るつもりだった。最近のオリビアとの関係性が頭をよぎり、彼女が同席するのであれば、楽しく飲めるとは思えなかったからだ。


「近く近く。八重洲通りの近くの故郷という居酒屋にいるよ。来いよー」

 「八重洲通り」は、ここから数分の距離だった。

 

 悠太とオリビアは一緒にいることが多かった。確かに、彼女と会えるのであれば、多くの男性は鼻歌混じりに待ち合わせ場所に向かうことだろう。しかし、彼女の本質を知っている湊の見解は違った。美しい花には棘があるという言葉を体現したような女性だ。一言で言うならば、金のかかる女性だ。

 

 湊の周りにはそのような人間が溢れていたが、幼馴染のオリビアがそのように変貌してしまったことは、彼にとっては嬉しくない出来事であった。そのため、いつからか、彼はオリビアに連絡することを避けるようになっていた。

 

 そのことから、湊は悠太の誘いに対する返答に躊躇していたが、居酒屋に向かうことを告げると、彼が嬉しそうな声を上げてから電話を切る。

 

 湊はスマートフォンを鞄にしまい、来た道を引き返すために足を進め始める。

 

 湊が居酒屋「故郷」に向かうために歩を進めていると、すぐに八重洲通りに到着する。通りの両脇には多くの店舗と、美しい桃色の桜が並び、風に舞い上がる桜の花びらが幻想的な雰囲気を醸し出していた。

 

 しかし、その光景を見た湊は目を手で擦る。彼の記憶の中にある桜の色は、ずっと鮮やかだったはずだ。一方、目の前にある桜は色褪せて見えるのだ。しかし、突如、視界に映る全ての色が褪せることは考えられない。他人に話せば、頭の中がおかしくなったのではないかと疑われかねないだろう。湊は眼科の予約を検討する。

 

 しばらく歩くと、悠太が指定した居酒屋「故郷」が目の前に現れた。その店は、伝統的な外観を持ち、瓦の屋根や木の扉には上品さが感じられた。その様相は価格の高さを表しているようにも思えてくる。恐らくは、オリビアの選定した店かもしれない。

 

 湊が静かに店の引き戸を開けると、店内からは和風の内装が広がっていた。木製のテーブルが並び、それを照らす照明は適度に暗く、落ち着いた雰囲気を作り出している。その和風の空間に相応しい日本の着物を身に纏った女性の店員が、湊に駆け寄ってくる。


「ナンメイサマデスカ?」


 湊には、店員の問いかけがどこか無機質で機械的に感じられた。それに、湊が驚いたのはそれだけではなかった。彼女の身体が僅かに透けているように見えたのだ。思わず、彼は目を手で擦るが、依然として彼女の身体は微妙に透けていた。これは、病院の受診が急務かもしれないと、彼は考える。


「いえ、待ち合わせなんです。田中悠太という人間が来ていませんか?」


 湊が告げると、店員は手に持っていた板状の機械に視線を向ける。しばらくして、店員は湊に迎え入れるような笑顔を向けてくれるが、その顔は無理やり作られており、どこか不自然さが滲んでいた。彼女は手を店の方に向けながら、奥に移動し始め、湊もそれを追うように歩み始める。

 

 湊が店内を歩んでいくと、見覚えのある顔が彼の視界に入ってくる。そこには悠太とオリビアの姿があった。彼らは木製のテーブルを囲んで座っており、その上には豪華な食事や酒が並べられていた。和食系の店舗だということもあり、魚料理が多いように思えた。

 

 オリビアの金髪の美しい長い髪と、大きな目をした端正な顔は見惚れてしまうものであったが、彼女の濃い化粧が湊は好きではなかった。また、短めの赤いスカートと、肩の出ている上着は、女性の艶かしさを感じさせてくる。そんな湊の視線を感じたのか、オリビアがゆっくりと彼の方に視線を向けてくる。


「あら、湊、来たのね」


 オリビアの言葉に、湊が悪戯な笑みを浮かべながら歩み寄っていく。


「また、下品な服を着てんな」

「美沙が選んでくれたのよ。可愛いでしょ」


 オリビアは金色の美しい髪をかき上げる。彼女の髪の色は、西欧系の血を引く証だ。かつて、世界には国境というものがあったが、今では人々は居住する国を自由に選べる時代になった。オリビアの両親もその自由を選び、この国で彼女を産んだのだ。

 

 少女時代、オリビアは純粋無垢な心を持っていた。しかし、その無邪気さに暗雲を運んできたのが《緒方美沙》だった。彼女はオリビアの友人であり、湊の高校時代のクラスメイトであった。当時の湊は、成熟した雰囲気を持った彼女に憧れを抱いていたが、今となっては、彼女の品のなさが目につくようになっていた。

 

 湊がオリビアと悠太の座っている席の前に立っていると、悠太が笑顔を向けてくる。その顔立ちは少し老け顔であったが、小太りで優しさが滲み出ていた。しかし、彼の作業着のような服装は、この店の雰囲気には似合っていないように思えた。


「まあ、座れよ」


 湊が悠太の隣の席に腰を下ろすと、料理の良い匂いが彼の鼻腔を刺激した。しかし、この目の前にある料理達の値段が湊には気になった。


「また、奢られに来たのかよ?」


 湊がオリビアに視線を向けながら悪態をつく。その言い方には冗談の色が混ざっていたが、彼の本音も含まれてはいた。薄給の悠太が頻繁にオリビアとの食事にお金をかけている理由が、湊には理解ができなかった。


「美人と飲むんだから、安いもんじゃないかしら? 貴方は財布よ」


 湊の悪態の仕返しなのだろうが、彼としては良い気はしなかった。


「まあまあ、それより、お前も酒を頼みなよ」


 二人の会話に棘を感じたのか、悠太が苦笑いを浮かべながら口を挟んでくる。すると、オリビアは悠太の方に視線を移し、笑顔を浮かべながら彼に言葉を投げ始める。

 

 その光景を見て、湊は僅かな疎外感を感じた。悠太とオリビアは付き合っているのだろうか。彼がそのようなことを思うのも、それを匂わせる内容を彼女から聞いたためだ。湊も大人である二人の関係を詮索する気はなかった。しかし、そう思いながらも、湊は目の前の光景に心を乱されてしまっていた。

 

 湊は二人の会話を無視し、ビールを頼むために、近くに歩いている店員を呼び出すことにする。彼はこのような場は好きではないが、酒自体は嫌いではなかった。

 

 やがて、女性の店員が湊達のテーブルの前まで来る。恐らくは、その容姿から、先程の受付をしてくれた女性だろう。彼は彼女に向けて、ビールを注文する。すると、店員は役目を果たしに急ぎ足でテーブルを離れて行く。

 

 しばらくすると、ビールを手に持った店員がテーブルに戻ってき、彼らのテーブルにそれを置いて行く。ビールを入れたジョッキからは泡が湧き上がっていた。

 

 三人がアルコール飲料の入ったコップをぶつけ合うと、宴が再開される。

 

 湊を除く二人は明るく会話を交わしていたが、彼の心はどこか遠くに行ってしまっていた。夢のことが頭から離れなかったのだ。それを気にかけてか、隣にいる悠太が湊に話しかけてくる。


「今日は定時帰りだったの?」

「あ、ああ」


 湊は気の抜けた返事をする。彼の心の中は、あの魂の戦いのことで占められていたのだ。


「どうしたの? さっきから、元気ないね。ごめん。今日は疲れてたかな?」


 悠太が申し訳なさそうな声で問いかける。


「いや、違うんだ。ちょっと気になる事があってね。…昨日、見た夢でさ」


 湊は魂の戦いのことを話し始める。一笑に付されるだろうが、どこかで吐き出したい思いがあったのだ。彼が話し終えると、オリビアが魚を箸で突きながら、呆れた表情を浮かべていた。


「夢でしょ? 信じてんの?」


 湊の予想した通りの反応だったが、その言葉は彼の癪に触った。彼は彼女に夢の真実味を感じさせたくなっていた。


「うるせえな。朝にこのノートが置かれてたんだよ」


 湊は隣に置いていた黒い鞄から、朝に現れたノートを取り出し、テーブルの上に置く。それを目で追っていた、悠太が手を伸ばしてき、ノートを手に取る。

 

 オリビアと悠太はノートを交互に見ていたが、オリビアの顔には小馬鹿にした笑みが浮かんでいた。恐らく、少年漫画を読み過ぎているとか、そんなことを考えているのだろう。しかし、その一方で、悠太は一心不乱にノートの内容を追っていた。彼の真剣な眼差しが湊に向けられてくる。


「湊は魂の戦いとかいうのが現実にあると思うの?」

「分からない。でも、只の夢とは思えないんだ」

「ねえ、つまらないわ。そんな事より、別の話をしよう。夢だって」


 オリビアが退屈そうな表情を浮かべていた。湊は彼女の態度に苛立ちを感じていたが、もし、自分が彼女の立場であれば、同じような行動をしたかもしれない。一方、悠太はその真剣な眼差しをオリビアに向ける。


「本当だと思うよ。こいつが嘘を付いていると思う? ノートも俺らをからかうために用意したと?」


 悠太の言葉には説得力があるように思えた。子供じみた悪戯をしても、湊には何の得もないのだ。

 

 悠太は、ゆっくりとノートを机に戻すと、深い決意を秘めた目を湊に向けてくる。

「俺が参加するよ」


 その言葉に湊の目は大きく見開く。悠太の参加は、毛の先ほども考えていなかったからだ。湊は、自分にとって関心のない人物に参加させるつもりだった。


「いや、お前に参加してもらおうと思って話したんじゃないんだ」

「でも、このままじゃ、お前が一人で戦うことになるんだろ。見過ごせないよ」

 

 突如、オリビアが手を挙げる。


「はーい。二人が参加するなら、私も参加するわ。何か賞金とかあるの?」

 

 湊は、オリビアに参加させるのも好ましいとは思っていなかった。特に女性の彼女には危険が多すぎるだろう。


「いや、だから、二人を参加させるつもりはないぞ」

「だって、どうせ、負けたら世界が消滅するんだから同じ事じゃない?」

 

 オリビアの言葉に湊も思わず納得してしまう。参加しようとしまいと、彼が敗北すれば、この世界が消えてしまうのだから、危険という意味では変わらないようにも思える。しかし、それでも、彼は二人を参加させる気はなかった。

 

 湊が断り文句を考えながら、テーブルの上に視線を向けると、そこには、空のジョッキと料理しか存在していなかった。先ほどまで存在していたノートが姿を消していたのだ。他の二人も気付いたようで表情が固まっていた。

 

 しかし、その静寂を破るように、テーブルの上に半透明な物体が現れ始めた。その物体は徐々に色を取り戻し、先ほどまで姿を消していたノートが、魔法のように再び目の前に姿を現した。


「・・・ノートの内容を見てみようよ」

 

 悠太が青い顔をしながらもノートを手に取った。最初は静かにページをめくっていたが、次第に彼の表情が険しくなっていく。


「こ、これ、見て!」


 悠太がノートを開いたまま、湊とオリビアに見せてくる。一見、以前と何も変わらないように見えたが、参加者の一覧の下にある文言が変化していることに気付くと、彼は目を疑った。

 

 以前は、そこには、湊の名前しか存在していなかったのだが、その下に悠太とオリビアの名前が加わっていたのだ。


「これ、マジっぽいわね」


 心境を表すように、オリビアの顔色が悪くなっていた。湊の中で魂の戦いの真実性が増したように思えた。

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