はじめての瞬間移動
灰坂
はじめての瞬間移動
それは、今から三十年前のことだ。私はいずれ妻になる女性といっしょにマジックショーを見に行った。ポケットに結婚指輪の入った箱を忍ばせて。そう、その日は紛れもなく、私にとっては勝負の日であったのだ。
当時大人気であったマジシャンの公演とあって、私たちはうきうきした気分で席に着いた。会場は満員御礼、夜の公演であったが子供の姿も目に付いた。幕が上がると、彼らはピンと背すじを伸ばして進行役の前説に耳を傾け、マジシャンご本人の登場にはかわいらしい歓声をあげた。舞台に見入る恋人の横顔を盗み見て、私は決意を新たにした。
今にして思うと、その夜の演目は手堅いというか、オーソドックスというか、観客がマジックショーにおいて見たいものがすべて詰まっているような舞台であった。カードマジック、消えるコイン、空中浮遊する玉、袖から現れるハト、そして脱出マジック。
この脱出マジックはかのマジシャンの得意技であった。棺桶のような四角い箱に、鎖で両手両足を縛られたマジシャン自身が入り、外から厳重に鍵をかけられる。マジシャンの助手が箱にいくつも剣を突き刺す。会場から悲鳴が上がるが、引き抜いた剣先はピカピカのままだ。と、客席の後ろのドアから、マジシャンその人が両腕を広げながら入ってくる。慌てたようにスポットライトが彼に当たり、会場は沸きあがった。
舞台に戻ったマジシャンは、観客からひとり協力者を募った。私は手をあげた。マジシャンは私を指した。
実を言えば、これはいわゆるサクラであった。私はマジシャンから事前に打診を受けていたのだ。会場のチケットを取ったあと、本人から手紙が来た時は驚いた。公演の席が取れただけでも幸運なのに、演目の一部に携わることができるとは、なんという僥倖か。私が手伝うのは瞬間移動だ。「私は自分だけでなく、他人も瞬間移動させる念力を持っている」とマジシャンがうたい上げ、先ほどの箱に私が入り、マジシャンが不思議な力を送ると、舞台上に置かれたもうひとつの箱から私が飛び出してくるという筋書きだ。
私が今日を勝負の日と定めた理由がこれでおわかりだろう。箱の中から瞬間移動で出てきた勢いのままに、私は彼女にプロポーズすることにしたのである。
だれにもばれないように、何度か練習にも通っている。打ち合わせ通り、かつ初めてやることのように、私は不安げな顔をしてみせながら、箱の中に納まった。手首に錠がかけられる。マジックのタネは底にあった。箱の底が抜けて、舞台の床下に出られるようになっている。ステージの下を移動して、もう片方の箱の真下から這い上がり、棺桶の蓋が開くのを待つのだ。いかにもずっとここにいましたと言う顔で。
恋人が客席から心配そうに見守る中、箱が閉じられる。外から、箱に鎖が巻き付けられる音がした。私はさっそく移動を開始しようとした。
そこで、私はぎっくり腰になった。
腰部にピィンと走った衝撃は、人生初のものであったが、「これが、噂に聞く、あの」と察することができた。諸君にはわかるだろうか、体の向きを変えることすらできない密閉空間の中で、痛みをこらえて立ち尽くすしかないという状況が。あと少しでも動いたら、自分はどうなってしまうのかという恐怖で頭がしびれる。しかし私には悠長に苦痛を感じる暇などなかった。あと十数秒もすれば、マジシャンの助手どもが私めがけて四方八方から剣を突き刺してくるからだ。私はかすかにうめき声をあげながら、そろそろと足元の扉に向かって動こうとして、あ、無理、できない、と悟った。
走馬灯と言うのは、絶対絶命のときに脳がこれまでの人生から生き延びるヒントを探してフル回転しているから見るのだという話を聞いたことがある。私の健気な脳みそは、今まさに人生のページを必死になってめくり、回答の書かれた個所を血眼で探しているところのようだった。両親や恋人、恩師や友人の顔が眼前に浮かんでは飛び去って行く。マジシャンが形ばかりの念力を込める声がやけに遅く聞こえてくる。私の浅く短い人生の振り返りはすでに終盤に差し掛かっていた。先ほど客席で見た恋人の美しい横顔で最後だった。ああ、めった刺しにされた死体となってステージに姿を現す私を、君はどう思うだろうか――。
私が死の痛みに備えて目をぎゅっとつぶったとき、胃がぐにっとつかまれるような奇妙な感覚があり、次いで、尻にドスンという耐え難い衝撃を受けた。思わず目を開け、私は状況が飲み込めず、しばらくなにもできなかった。
私は、知らぬうちに客席に、自分の席に、恋人の隣に座っていたのである。ステージから私へ、驚愕の表情で視線を移す彼女に、私は蚊の鳴くような声で言った――僕と結婚してください。
「それが、私の初めてのテレポーテーションだったわけだ」
初老の男性が、語り終えたとばかりに満足げにあごをなでるのを、記者は口を開けたまま見つめた。
「ええと、つまり、あなたはマジシャンではなく、超能力者なんですか?」
男は眉をひそめた。「最初からそう言っているだろう」
待ち合わせ場所に瞬時に現れたように見えたのは、気のせいではなかったのだ。記者は回していたボイスレコーダーを止め、知人から芸歴三十年のマジシャンとして紹介された人物へのインタビューを終わらせた。ビジネス雑誌の記者として、これを「原点~私のキャリアはここからスタートした~」の連載の次の回に載せるのは、どうだろうと思った。
(おわり)
はじめての瞬間移動 灰坂 @haissssk
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