2章 可憐な婚約者は、教育係でした。

第9話 もしや、修羅場?


 これにて偽婚約者の立場も安泰かと思いきや、そうは問屋が卸さないらしい。


「その言葉遣いもどうにかしないとだな」

「なんだよ、まだあたしに文句があるのかよ」

「文句しかないわ」


 その晩、袴を履かされたあたしは牛鍋屋に連れて来られていた。


 牛鍋である! 最近ではすき焼きとも呼ぶらしく、牛肉の甘い脂と砂糖の効いた甘じょっぱいタレはもう結婚して生涯添い遂げてほしいくらい完璧な夫婦だ。それに卵をたっぷり絡めたものを、白米に載せて掻きこむ。あぁ、生まれてよかった。人生いろいろツラいこともあるけれど、これを食べるために生まれたといっても過言ではない。


「それにしても牛鍋うめえ。このこじゃれてない雑多な店で胡坐を掻きながらどんぶり飯掻きこめるのが最高。肉をおかわりしたいとは言わない。ただ白米だけもう一膳もらってもいいかな?」


 あたしはこれでも節約主義者なのだ。肉は高いから、せめて米。

 そんなかわいいおねだりにシキはため息を吐きながら箸を置く。


「あいつに頼むしかないか」


 なお、ブツブツ言いながらも米も肉もおかわりを頼んでくれたシキは、まるで後光が差したと思うほどカッコよすぎて、あたしは店を出てから崇め奉った。




 そして、三日後。

 やっぱりシキの野郎はクソ野郎だと思い至る。


「愛人の教育係に婚約者を使うとは、どういう良識をしておりますの?」

「申し訳ございません。俺はあなた以上に立派な令嬢を存じ上げませんで」


 その日、鶴御門つるみかどの屋敷の空気がより一層冷たいものとなっていた。


 もちろん、その原因は天気や気候によるものではない。

 むしろお天道様は今日もご機嫌だし、桜も散って久しい今は、そろそろ衣替えをする季節だ。


 なので全然寒くはなく、むしろ氷菓でも食べたい気分。

 それなのに、なぜこんなに息をするのも憚れるような空気なのかといえば。


「お初にお目にかかります。兎橋うばしネネ……鶴御門シキ様と婚約している者ですわ」


 鶴御門家の応接間に、なぜかご当主様の婚約者殿がいらっしゃっているからである。


 ……これは、もしや修羅場というもの?


 兎橋ネネさんという方は、それはもうお綺麗なご令嬢だった。

 年齢はあたしと大差ないであろう十代後半。陶器のような白い肌に、小さな口と鼻。対して目はとても大きくぱっちりとしている。どことなく綺麗に編み込まれた髪を含めてすべての色彩まで儚げなお嬢様だ。超一級品の桜色の振袖がこれほど似合う女性は見たことがない。


 そんな可憐で清廉な婚約者をあたしに紹介するバカ男は、今日も洋装を着こなしながらニコニコと愛想笑いを浮かべていた。


「しょせんネネとは政略的な契約を結んでいただけですので。俺の心はユリエだけのものです。ご安心を」


 そして、あたしの手をとり唇を落としてくるも……あたしは知っている。

 このあとどうせ、めちゃくちゃ口をゆすぐのだろう? 


 だけどシキは満足したのか、ジト目のあたしを無視して踵を返した。


「それではネネ、俺のユリエのことをよろしくお願いします」

「分家として、本家の御当主様の命には従いますわ」


 その答えにシキは満足そうに頷いてから、本当に部屋を出ていってしまう。

 そして、部屋に残されるのはネネさんとあたしのみ。


 今日もあたしを綺麗に着付けてくれたマリアも、着物の染み抜きやらで外に出てしまっている。他に、この屋敷にあたしの味方なんているはずもなく。


 ひたすらに、兎橋ネネさんの視線が痛い。

 あたしがめちゃくちゃ視線を逸らしていると、ネネさんのため息が聞こえた。


「まず、座り方から指導しなければならないようですね」




「ほら、気を抜かずにあと一分ですわ! 笑顔が苦しくなっておりますわよ。腹筋に力を入れなさい。顎を引いて!」


 座り方、立ち方、そのときの裾のあしらい方。

 そんな指南を計三時間。


 あたしが畳の上にぶっ倒れるまで、ネネ嬢も常に声を張って指導に当たっていた。

 それはもう、事細かく。


 婚約者を奪った泥棒猫に対する嫌がらせ……の域を超えて、ネネ嬢も額の汗を隠せないほど熱心に。


「あなた……いい人すぎるって言われない?」


 大の字に寝っ転がるあたしが辛うじて二人称を「おまえ」から「あなた」に変えたのは、ネネ嬢の本気の指導に対する敬意を示すため。正直、シキのやつ相手に「あなた」なんて呼んでやるつもりは、たとえ空から槍が降ったってありえない。


 そんなあたしに「はしたないですわよ」と手を差し出すネネ嬢は唇を尖らせていた。


「ほっといてくださいませ。シキ様の信用に応えたいだけですわ」

「でも、あたしのこと憎いでしょう?」


 だって建前上、あたしはネネ嬢も言っていたとおり、シキの愛人で。

 その正式な婚約者らしいネネ嬢からしたら、本当にあたしはただの泥棒猫。


 なのに、ネネ嬢はまっすぐあたしを見つめていた。


「憎いも何も……出会って数時間の人を憎めるほど、わたくし短慮じゃありませんわ」


 そして、ネネ嬢は一向に起き上がる気配のないあたしを無理やり引っ張り起こす。


「それでは、その汗だくの着物を着換えてきてくださる?」

「へ?」


 素っ頓狂な声を出したあたしの背中を容赦なく扇子で叩いて。

 ネネ嬢が踵を返した。


「息抜きにおでかけしましょう」

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