炎天
白河夜船
炎天
安アパートの壁は薄く、隣室や外界の音が容赦なく内側に侵入してくる。クーラーは点けているものの、光熱費をケチって設定温度を少々高くしているせいか、寝起きの身体は薄ら汗ばんでいた。大学は夏期休暇でバイトも休み。二度寝してもいいのだが、寝苦しい上に後で無性に虚しくなるのが分かりきっているのでやめた。溜息を吐き、ベッドから半身を起こす。
熊蝉が暴力的な声量で鳴いている。
死ね、死ね、死ね、そう呪詛を吐かれてるように聞こえて嫌いだ――いつかだかそんなことを笑いながら言った奴がいた。誰だったかとぼんやりした頭で考えみて、すぐに気づいた。
赤いものが目の端に映る。
こいつだ。
白シャツに黒ズボン、典型的な高校の夏服を着た青年が枕元に佇んで、俺をじっと見下ろしていた。顔は原型も定かでないほど、潰れている。
おはよう。欠伸混じりに挨拶すれば、ミキサーでかき混ぜた血肉を平らに貼り付けたような顔面が、声もなくただどろりと蠢いた。
いや、流石にずっと笑っていたわけではないが、印象に残っている顔は全て笑顔で、たぶん総じてそれ以外の表情を人前で見せることが少なかったのだろう。
整った容貌で、実に端正に笑うのである。人の輪の中心に在って笑顔のまま他者から向けられるあらゆる感情を受け流し、周囲の調和を保つように振る舞っていた。所属している学生が俺と高宮しかいなかった民俗学研究会の部室ですらそうだったのだから、呆れてしまう。
高一、高二、高三、と一貫して同じクラスだったのに教室ではほとんど接点がなく、たまに訪れる顧問を除けば基本二人きりの部室でのみ、俺達は話した。可もなく不可もない、平凡で平坦な付き合いだったと思う。波風は立たず、起伏もない。ただそれゆえに穏やかで、あの部室は結構居心地が良かった。
週一の顧問を交えての簡単な部会と、月一のフィールドワーク、それ以外では文化祭に配布する部誌と展示物の制作――やるべきことと言えばそれくらいで大抵の時間は駄弁って過ごしたような気がする。時々部活動という名目で、休日、半ば自主的に二人で外をうろついた。
行く場所はカラオケやファミレスといった高校生らしい遊び場でなく、バスの定期券を使って行ける範囲の神社や寺、史跡、博物館、美術館など。特別に学問的興味が強かったわけではなくて、何とはなし「これは部活の一環だ」そんな建前が俺と高宮には必要だった。
友達という関係に付随する、人肌めいた熱や生々しさを疎んじていたからかもしれない。殊、こいつに関してはさっぱり気楽な間柄でいたい。改まって確かめたことはないけれど、たぶん俺達は互いにそう考えていた。
「死ね、死ね、死ねって聞こえるよな」
たしか高二の夏休みだったと思う。
常の如く、部活動の一環として自主的フィールドワークを行っていたある日のこと。どこだったかはもう忘れたが、片田舎の寂れた神社の境内で高宮は笑いながらそう言った。
「…ああ、蝉か」
俺達は蝉時雨が降り注ぐ木陰の中に立っていて、高宮の足許には蝉の死骸が転がっていた。
「何蝉だっけ、今鳴いてるの」
「熊蝉だよ」
答えて、高宮は爪先で蝉の死骸を突き、
「俺、この鳴き声嫌いなんだよ。呪詛を吐かれてるように聞こえてさ」
ぱき。と何の躊躇いもなく踏み潰し、踏みにじった。
いつもと寸分違わぬ端正な微笑が彼の顔に浮かんでいたのを覚えている。乾燥した土の上を靴が滑って、後には砕けた外骨格と破れた翅、白と存外鮮やかな橙色の内容物が取り残された。
猫が減っている。
学校でそんな噂が流れ出したのは、高校二年の秋からだった。家猫ではなく野良猫がどうやら一部地域で少なくなっていたらしい。殺されてるんだ、とまことしやかに語る者もいたけれど、なにぶん野良猫である。死体が見つかっていない以上、知らぬ間に殺処分された、野垂れ死んだ、そう考える方が妥当だろう。
それだというのに中々噂の火が消えず、あまつさえ「殺されて、顔を潰されている」「犯人はこの学校の生徒だ」と尾鰭が付いたのは、猫が相変わらずじわじわ減り続けていた為と校内で奇妙な死体が時折発見され始めた為である。
死体と言うより死骸と言った方が、言葉の質感としてはいくらか近いかもしれない。概ねは、虫や蜥蜴や蛙の――それも頭をもがれたり、潰されたりした死骸だった。
一度だけ俺は犯行現場を見たことがある。
あいつは、高宮は、部室に入り込んだ蜻蛉を捕まえ、無造作に捩じ切った頭を親指と人差し指で磨り潰し、翅を千切った残骸をゴミ箱に捨てながら、平素と同じ笑みを全く崩さなかった。だからまぁ、やっぱりこいつだよな、と俺は思ったのである。
驚きはなく、反感も薄く、予定調和の事実のみが唯々すとんと腑に落ちた。
野良猫は、微妙な立ち位置の生き物である。一部の人間に可愛がられる一方で、飼うという行為に伴う手間暇は多くの場合敬遠されて、正確な数は把握されないまま、雑多な要因でいつの間にか増えたり減ったりを繰り返している。
そして何より害獣としての側面を持つ手前、よほど猫に寛容な土地でもない限り、表立った管理をされていない。だからこそ死体が見つからない状態では「猫が減っている」「殺されている」などの噂はあくまで噂の域を出なかった。警察が動いたという話も聞かない。
「……また頭のない死体、あったんだって」
「近所に黒猫いたんだけどさ、最近見掛けないんだ」
「やっぱり、殺されてるんじゃないの」
校内に不穏な噂がぼんやり蔓延っていようとも、当たり前に季節は巡る。冬が過ぎ、春が終わって、夏が来た。
九月には文化祭がある。そのため花形以外の文化部も夏休み中に多少は活動していた。相変わらず部員が二人だけだった民俗学研究会も同様で、八月某日、俺達はいつものように部室に集まり、受験勉強の息抜きがてらぐたぐた駄弁っていたのである。
表面上は普段と何も変わらなかった。
仄かな疑念はありつつも、猫殺しの証拠までは見つからず、だから俺は、俺達は最近聞いてる音楽、食べたいアイス、気になっている漫画や映画――どうでもいいようなことばかりを話した。安易に壊しがたいほど平凡で穏やかな時間と空間の中、高宮の笑顔はあの日もやはり完璧だった。
高宮が自殺したと報せを受けたのは、その翌々日である。遠い町の踏切で、電車に飛び込んで死んだらしい。
踏切の近くに置かれた遺書には、猫を何匹も殺した旨と死体を遺棄した場所が記されており、学校と周辺地域は一時騒然となった。
猫の死体、顔が潰されてたらしいよ。
じゃあやっぱり学校のやつも……。
家が何か色々やばかったって。
え。虐待?
猫殺したのもあんな死に方したのも、家族への当てつけなのかな。
事情があったってさ、ひどいよね。
葬式、結局なかったっぽい。
遺体の顔ぐちゃぐちゃだったって、ほんと?
………
………
夏休み明けの学校は、高宮に関する噂話で持ちきりだった。真実らしい噂もあれば邪推を含んだ噂もあり、いずれにせよ何だか漠然と不愉快で、俺はなるべく聞かないように努めていた。だが、否が応でも耳に入ってしまう噂はあって、そのせいだろう。一度、やけにリアルな夢を見た。
高宮が猫を殺している夢である。
喉元を優しく撫でていた手が、不意に乱暴な動きで首を掴んで骨を折る。ナイフで裂いた頸動脈から血が溢れ、やがて脱力した猫の頭部に高宮は白いタオルを被せた。
淡々と顔に向かって金槌を振り下ろす。
いつの間にかタオルで顔を覆われた猫の死体は、死装飾の高宮になっていた。タオルは真白い
顔掛けが真っ赤に染まったところで、もういいだろうと布の下を覗いてみると、原型も定かでないほどぐちゃぐちゃになった顔面がどろりと蠢き、高宮がほんの僅かはにかむように、珍しく下手くそに笑った気がした。
高宮と最後に会ったあの日から、俺は部室へ足を運ばなくなった。文化祭も何もかもほっぽり出してしまったが、当時俺が三年生で受験を控えていたこともあり、顧問もいくらか気を遣ったのだろう。特に咎められることはなく、何かから逃れるように勉強に没頭する内、気づけばもう卒業という時期になっていた。
学校は閉鎖的な場所である。在校生でなくなると校内を自由に動けない。三年間通った校舎が、土地が、俺達の居場所でなくなってしまうのだ。だからそうなる前に――卒業式の後にはきっと部室に行こうと決めていた。
式当日は快晴だった。
空気が冷たく澄んでいる一方で、陽射しはとろりと暖かかったのを覚えている。
久しぶりに手にした鍵で、懐かしい扉の錠を開けた。ドアに嵌まった磨り硝子には『民俗学研究会』とマジックで書いてある古い張り紙が黄ばんだセロテープで固定されていて、今日限りこの扉もこの文字もこの部室も二度と見ることはないかもしれない――そう思ったら少しだけ、感傷的な気分になった。
今までここに来れなかったのは、二人で過ごした部室に自分しかいない、どんなに待っても高宮は来ないという現実を直視したくなかったからだ。がらんどうの部室に話す相手もなく一人きり。そんな情景を想像すると、物寂しさに背筋が冷えた。
深呼吸して、引き戸を開ける。
最後にもう一度、
「―――」
咄嗟に声が出なかった。
折り畳み机と四脚のパイプ椅子が中央に置かれた部室は以前より埃っぽくなっていて、しかしそれ以外はあの頃と何も変わっていない。何も。
本棚の傍、あいつが好んで座っていた定位置に、三月だというのに夏服を着た男子生徒が俯きがちに座っており、
「高宮、お前、待ってたのか」
声を掛けると彼は、あいつは、高宮はこちらを向いて、潰れた顔を不器用にぐずりと歪めた。
あれ以来、高宮は俺の傍にいる。
悔恨が作り上げた幻覚なのか、幽霊なのかは判然としないが、俺にしか見えない彼は無言のまま何をするでもなくそこにいて、映画を観せたり話し掛けたり流行りの音楽を聴かせたり――与えた外界の刺激に反応し、潰れた顔をどろりどろりと蠢かしている。
もし仮に、と考えてみる。もし仮にこいつが幻覚でなく、本当に高宮の幽霊なのだとしたら。
顔貌の血肉の動きは高宮の感情に対応しているらしく、慣れてみると笑顔を崩さなかった昔より、今の方が返って喜怒哀楽が分かりやすい。かつては残酷なまでに超然とした奴だと思っていたが、しばらく一緒に過ごしてみて察した。案外ちゃんと人並みの感情がある奴なのだ。
特異な人間が特異な心理から動物を殺したのではない。等身大の少年が追い詰められて、罪を犯した末に自殺した―――そうだとすれば、俺の目前で蝉を踏み潰したのも、蜻蛉を殺して自分が猫殺しの犯人だと暗示したのも、あいつなりの精一杯でひどく迂遠な救難信号だったのかもしれない。
思考しながら、自嘲する。
こいつに関してはさっぱり気楽な間柄でいたい……容易に本心を曝せない程度には、警戒心が強い奴である。初めは高宮も、たしかにそう思っていただろう。だが途中から何かが変わっていたとして、俺がそれに気づいていなかったのだとしたら。怒って、叱って、ぶつかって、顔に張り付いて自分ではもう剥がせなくなっていた
だから、
沈んだ気持ちを紛らわそうとベランダに出て、近頃やっと二十歳を過ぎて吸えるようになった煙草に火を点けた。煙を吸い込み、慣れないせいで噎せ返る。高宮が嫌がるというよりは嫌悪するような顔を見せたので、仕方なしさっさと灰皿に煙草の先を押し付けた。
そういえば町中で煙草の匂いがすると、高宮はいつも妙な具合で顔を歪める。何かしら良くない思い出でもあるのかもしれない。
「…なあ」
言葉は交わせないが、今の高宮なら質問に素直な反応がある。問い詰めれば、あの当時何が起こっていたのか大枠を知ることくらいは出来るだろう。何か訊こうとして、けれどもやっぱり躊躇ってしまい、口を噤んだ。
気に掛ける癖に、一線を越えた付き合いは疎む――高校時代の俺が高宮にした対応は、無責任な者が野良猫にするそれと同質だった。親友になれたかもしれない人間を、俺は見捨てたのだ。
高宮の過去を知れば、その事実が今よりも重くのし掛かってくる。いつかは知らねばならない。だが知った時、臓腑に蟠る罪悪感はどれほど膨れ上がってしまうのだろうか。
「高宮――お前、俺にどうして欲しいんだ」
まだ午前だというのに苛烈な陽射しに焼かれつつ、俺はベランダの手摺に凭れて空を仰いだ。
目を瞑れば万雷の蝉時雨。
夏が今年も、死ね、と呪詛を吐いている。
炎天 白河夜船 @sirakawayohune
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