スタートダッシュ・マラソン
桜井直樹
〈1話完結〉
新年最初の新月は、まだ旧暦では十二月が始まったところらしい。昨年は閏月があったとかで、一年が十三ヶ月だったのだそうだ。
だったら一月一日に、新年の抱負を書き出し損ねた私にも、まだチャンスはあるってことだ。だってまだ旧暦では十二月になったばかりなんだから。
都合のいい時だけ旧暦にするというのも変だけれど、そもそも都合とは自分に合わせるものだ。だったら別に、今だけ、私だけ、旧暦に従ったっていいと思う。
私だって、今年の一月一日が、特別に縁起がいい暦だったということは知っている。神様がすべてを赦してくれるとか、天からの恩恵を受けられるだとか、一粒の稲穂が万倍に実る日で、甲辰の年の甲子の日だったという、詳細をうまく説明できないものも含めて。
こんなに縁起のいい元日は長い間なかったとか言っていたし、別に古暦や占いやスピリチュアルに興味が深いわけでもない私だけれど、身内にそういうことを研究する人間がいるのだから仕方がない。
いちいち「今日の暦から見る運勢は〜」なんて毎朝食卓で話し出す兄の言葉を、けれど母は興味深そうに聞いている。父は出勤が早いのでもうその時間には家を出ているし、誰も兄の口を閉じさせないから、当初は「うるさいなぁ」なんて言って邪険に扱っていた私でさえ、なんとなく用語を覚えてしまった。
そういうわけで、兄の前では鬱陶しく思っているように見せながらも、私は大晦日の夜から日をまたいだ子の刻までの間に、今年の抱負や願い事を書き出そうと思っていたのだ。
ところが、だ。
本当に迂闊なことに、毎年年越しに特別なことをしているわけでもなく、夜中から神社に出掛ける習慣もない私は、普通に寝てしまったのである。夕方、兄に「子の刻まで起きてろよ」と言われていたのに。もちろん、その時は「やーよ」と返したけれど。
自分の部屋に入ってしまえば、同じ家にいたって何をしているかまではわからない。だから私が夜更かしをして、事前にしっかり買っておいたちょっと値の張るノートに向かって、熱心に書き物をしていたって、兄にはバレないのに。チャンスだったのに。
私はみすみす、自らの大チョンボによって、何十年に一度あるかどうかという機会を喪失した。あっけないほどにあっさりと。
後悔していないわけがない。ビニールで個包装されて売っているノートなんて、初めて買ったくらいなのに。
とは言え、いくら私がしばらく旧暦で過ごすことにしようとも、この大吉日が再び訪れるはずもない。ただ、「一」が三つ並んだゾロ目の日が新月で、旧暦ではまだ年が明けていないのなら、新年の抱負を書き出すというチャンスはまだあるということだ。
三十日後に向けて、私は書き損なっていた新年の抱負や願い事を、改めて頭の中で確認する。
大丈夫、覚えている。何なら増えてさえいる。
兄が研究室で作っている日めくりカレンダーのおかげで、旧暦の日付も毎日確認できるし、今度こそチャンスは逃さないと私は意を決する。
何しろ新品のノートがもったいないし、頭の中にある抱負や願望を書き出さないことには、他のものが入ってこない。記憶できる容量をオーバーする前に、アウトプットしたいのだ。
ただそこで、下書きとしてどこかにメモしておくという手段は、私の個人的なモットーによって許されなかった。そういうところは偏屈だと自分でも思う。こだわりが強いのだと言い直して納得させる。
今年は昇り龍の一年にする! と自分の心の中でだけ決めたのに、単純に辰年を迎えただけになってしまった。それでは私が浮かばれない。生きてはいるけど、浮かばれないのだ。
大晦日の深夜からスタートダッシュをかけて、そのまま次元上昇の渦に乗っていく! なんて思っていたのに、アイドリング状態のまま、まだあと三十日待たなければならないのか。
これじゃあスタートダッシュどころかマラソンじゃないの。
ああもう、早く年が明けないかしら。旧暦で。長距離は得意じゃないのよ。せいぜい百メートル走が限界な私は、人生でも短距離走者なのだ。
きっと兄はたくさん書き出して、何なら部屋の壁にでも貼り出しているのかも知れない。くそう、何だか悔しくなってきた。
あと三十日。アイドリング状態を続けながら、スタートダッシュを狙ってやるんだから。
〈了〉
スタートダッシュ・マラソン 桜井直樹 @naoki_sakurai_w
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