一世一代の大勝負

杉野みくや

一世一代の大勝負

 ピピピピ。ピピピピ。


「うーん……」


 耳が腐るほど聞いた目覚ましのアラームを止め、ベッドの中で大きく伸びをする。体を温めてくれたお布団にサヨナラを告げた後、意を決してガバッと飛び起きる。


 真冬の冷えた空気が肌をなで、思わずぶるっと身震いしてしまう。いつもならここで別れを告げたお布団と2度目のランデブーを決めるところなのだが、今日はそんなことをしている余裕などない。


 1階に下り、洗面所の冷たい水道水で顔を洗う。毎年やっているはずなのに、この凍りつくような冷たさにはイマイチ慣れずにいた。


 リビングに行くと、お父さんがコーヒーを片手に新聞を広げていた。そういえば今日は土曜日だから仕事休みなのか。


「おはよう」

「おお。おはよう」


 それだけ口にすると、お父さんは再び新聞に視線を戻した。お父さんは昔から、あまり多くを語らない人だった。今日から娘の運命を決する日が始まるというのに、相変わらずだ。


 席に着くと、さっそく朝ごはんが並べられた。今日のメニューは味噌汁とおにぎり、それから赤い耳が特徴のうさぎリンゴ。飲み物は体温まる特売のほうじ茶。

 いつも学校に行く時となんら変わらない、朝食の風景。

 そしてこちらも、いつも通りの様子だった。


「由梨、昨日はよく眠れた?どこかおかしいとこはない?」

「大丈夫だよ。小学生じゃないんだから」


 呆れ気味に笑いながら、味噌汁をズズッとすする。味噌と出汁の優しい味わいが硬くなった体をじんわりとほぐしていく。

 お母さんの作る朝ごはんはいつも簡素だけど、真心は人一倍こめられていた。どんな時も、食べればいつだって元気が湧いてくる。


 朝ごはんを食べた後、歯を磨いてお手洗いを済ませる。2階の自分の部屋に戻り、着慣れた制服に袖を通せば、いつもの私の出来上がり。コートとマフラーを身につければ、寒さ対策も万全だ。

 玄関に降りると、お母さんがお弁当を持って玄関に立っていた。


「由梨、頑張ってね。お母さん応援してるからね」

「わかってるよ。それじゃ、行ってくるね」


 お弁当を受け取って玄関の扉を開けると、お父さんが車のエンジンをつけて待っていた。最寄り駅まで送ってくれるらしい。


 車に乗り込むと、温かい空気が出迎えた。しばれる体にはとてもしみ渡る。

 シートベルトを閉めると、車がゆっくり前に進み始める。心配の尽きないお母さんに見送られながら、私たちは我が家を後にしていった。


 先ほども言ったように、お父さんはあまり多くを語らない人だ。車中であっても、それは変わらない。コートに身を包んだお父さんの顔は、昔よりもシワが増えているように見えた。

 車のエンジン音とラジオの音だけが終始車内に響いていた。特に言葉を交わすこともないまま、最寄り駅に到着した。


「由梨」


 車を降りる手前で呼び止められる。「行ってきます」のひと言ぐらいは言おうと決めていたが、まさかここで口を開くとは思わなかった。


「落ち着いて、頑張ってくるんだよ」


 その言葉に胸がぎゅっと締め付けられる。こんな時に限って、お母さんみたいなお節介さんになるなんて、ずるいよ。


「うん。わかった」


 できる限りいつものように返すと、車をおりて駅に向かっていった。声が少し震えていたのは、きっと寒さのせいに違いなかった。


 電車には学生らしき人たちが何人か乗っていた。その誰もが英単語帳や歴史の用語集など、何かしらの教材に没頭している。中には、表紙がぼろぼろに擦り切れているものもあった。

 席に座ると、私も英語の単語帳をカバンから取り出した。表紙に犬の顔がプリントされたそれには、数え切れないほどの小さな付箋がびっしりくっついていた。


 改めて見ると、こんなに勉強したんだという実感が湧いてきた。よしよし頑張った、えらいぞ今までの私。

 そこから予め見ようと思っていた箇所にいくつか目を通す。目的の駅に着くまで、そう時間はかからなかった。


 駅を降りると、一緒に乗っていた学生らしき人たちが同じ方向に向かって歩いているのが見えた。その背中はどれも大きくも小さくも見える。なんとも不思議な感覚だった。

 会場となる大学に着く頃には、たくさんの人の流れができていた。そこで学校の先生と予備校のスタッフに激励をもらいつつ、すっとキャンパスの中に入っていった。


 受験表を何度も確認しながら、目的の席を探す。案外すぐに見つかったその場所にカバンを下ろすと、横からちょんちょんと肩を叩かれた。


「おはよう由梨!」

「沙耶じゃん!おはよう!」


 見知った顔を目にし、肩の力が少しだけ抜けたような気がした。


「席はここ?」

「うん!沙耶は?」

「うちはあそこだよ。けっこう近いね!」


 沙耶が指さしたのは、私よりも2つ前の席だった。


「お互い頑張ろっ」

「うん。頑張ろ」


 互いに小さな声援を送りあった後、それぞれの席に着いた。

 沙耶の方を見ると、机に平積みになったノートの束が目に入る。学校や予備校でたくさん勉強してきた、彼女のだ。


 私も筆記用具や腕時計を机に置くと、歴史の用語集で最終確認を始める。既に覚えているものばかりだが、それでも心配がつのる。つい色々と確認したくなってしまうのは受験生の性だろう。


 時計の長針が4の数字に差し掛かった頃になると、試験監督の人が注意事項をつらつら読み上げ始めた。惜しげに思いながら、用語集をカバンにしまう。監督官の話に耳を傾けながら、深く、何度も深呼吸をする。


 2024年1月13日。今日は大学入学共通テストの1日目。ここから、大学受験の本戦がいよいよ始まる。

 今までの集大成を見せる時だ。

 そう思った途端、部屋の空気が変に重たく感じた。背中にズシンとのしかかり、『不安』の2文字を体からぎゅぎゅっと抽出しているように感じる。


 きっと日本中がどこもこんな緊張で包まれているのだろう。そう考えると、なんとも異様なものだ。

 凝縮された不安はお腹に、膝に、全身にズンと体重を乗せてくる。目を力強く閉じ、何度も深呼吸を繰り返す。


 それでも、不安はだんだんと大きくなっていく。あらゆる負の感情に押しつぶされそうになる。

 今までかけてきた時間が、努力が、もし報われなかったら?

 そんな根拠の無い憶測が私を暗闇の中に引きずり込む。


 怖い。ただただ怖い。


 それでもめげずに深呼吸を何度も繰り返していると、やがて一筋の光がパッと差し込んだ。続けて、お父さんの「落ち着いて、頑張ってくるんだよ」という言葉が脳裏に響き渡った。

 差し込んだ光が加速度的に大きくなっていくにつれて、今までの頑張りが頭の中で一気に蘇ってくる。


 最初はボロボロだった模試も、回を重ねる事にじわじわと点数を伸ばしていった。

 単語帳や用語集はもはや付箋だらけ。でも、その分だけたくさんのことを覚えることができた。


 やるべきことはやったつもりだ。

 不安を押しのけた今の私に、敵はもういない。

 後はスタートの合図をただ待つのみ。


 現在の時刻は9時29分。秒針はもうすぐ11の数字を通り過ぎようとしていた。


 3……、2……、1……。


「では、試験を始めてください!」


 戦いの火蓋が、切って落とされた。きっと日本中で紙をめくる音が響いていることだろう。

 私は、私の全力を出し尽くす。

 一世一代の大勝負が始まった。

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一世一代の大勝負 杉野みくや @yakumi_maru

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