SIDE BOY
僕が君について知っていること。
人を見るときは、小鹿のような大きな目をぱちぱちと瞬いてじっと見つめること。
エリック・セラのサウンドトラックが好きらしいこと。
通勤電車だというのに『解夏』に感動して泣いてしまうこと。
僕と並ぶと、彼女はちょうど僕の腕の中にすっぽりとおさまるサイズだということ。
ゆるりと絶妙な曲線を描き、やがて華奢な足首できゅっとしまる、この世に二つとない素晴らしいふくらはぎを持っていること。
彼女が瞬きする瞬間さえもはっきり思い出せるほどなのに、でも、僕は彼女の名前さえ知らない。
*
前から2番目の車両、後方の入口に一歩足を踏み入れるだけで、僕は身体が一瞬緊張する。
僕は半年前から、毎日この電車に乗ることにしている。
コンタクトを入れる時間さえなくて眼鏡で一日過ごす羽目になっても、この電車には必ず乗る。
鞄に入れっぱなしの文庫本を取り出して(もうとっくに読み終わっているのだが、僕はこの数カ月ずっと 「重力ピエロ」を読んでいる)、僕は彼女から意図的に視線をそらすように活字に目を落とした。
彼女はじっと周囲のものを、 それこそじっと見る癖があるようで、僕がそのまま気付かずにそんなことされてしまえば、 僕が彼女のことを見つめているのを気づかれるのは時間の問題だった。
くすっ、と小さな笑い声が聞こえたような気がして顔をあげる。
ぱっと顔をあげたちょうど向かいに彼女が座っていて、僕は面食らうと同時に、動揺しているのを自覚する。
彼女は珍しく眠っているのか下を向いたまま、膝の上で組んだ白い両手を見つめている。
気のせいだったのかもしれない。
僕はとっくに内容を覚えてしまった文庫本に、再び目を落とした。
幸いにして、というか、努力の甲斐あって、というか、とにかく彼女に気づかれている様子はない。
ずっと知らない男に見られてると知ったら、気持ち悪い以外の何物でもないだろう。
僕がこうしてただ息をつめている間に、電車は毎日順調に進んでいく。
ラッシュの時間帯からはずれているので、乗客の数もそこそこだ。
彼女に偶然この電車で出会うようになるまでは、毎日ぎゅうぎゅうづめの満員電車で、押し合いへしあいしながら通学していて、大学に着くころにはもうへとへとだった。
たまに大学の友人と乗り合わせることがあって、そういう時に僕は本当に混乱する。
本来ふさわしくない時に、ふさわしくない奴としゃべってるみたいな気分になる。
そういうとき、僕は必ず奇妙な陽気さか不自然なけだるさをわざとらしく前に出しながら、ちらりと彼女の様子をうかがってしまう。とはいえ、僕が何をしようと、彼女はまったくいつも通りだから関係ないんだろうけど。
CDショップの袋から新品のサウンドトラックを取り出していた彼女はそっとそのケースのふちをなぞった。
その間からちらりと『NIKITA』の文字がのぞいて、影のある切ない様子のアンヌ・パリローを思い出す。僕は『ニキータ』の彼女が好きだった。
ある日、ちょうど僕が電車に乗ったとき、彼女は鞄の中にさだまさしの『解夏』をしまおうとしていた。
うつむいたまま鞄を膝の上に置きなおす彼女から、すん、と鼻をすする音が聞こえて、僕は彼女の眼のふちが赤くなっていることを知る。
そういうあれこれが、いちいち彼女を僕の中で親密な何かにさせるのだ。
趣味の合う仲間だけでの暗黙の了解、同じシーンで見合わせる顔。
僕と彼女が示し合わせたように笑うところまで想像できて、このままでは危ないなと自分に大してききそうもないブレーキをかける。
電車のアナウンスを聞いて、僕は詰めていた息を吐きだした。
今までの僕の思いが濃密になったような溜息。
立ち上がる瞬間、彼女と目が合った。
それがあまりにも唐突で僕はぶっきらぼうに視線をそらす。
あんなのまっすぐ見れるわけがない。
僕がゆっくりと考える間もなく足は自然に動いていた。毎日決められているように。
少しずつだが人の増えてきた駅をひたすら無心で歩いているうちに、僕は唐突に悟る。
これが最後だったかもしれないと。
僕と彼女が会える(というより僕が一方的に彼女を見ているだけなんだけど)時間は、僕らのうちどちらか一方が3分前か5分後の電車に乗るだけでなくなってしまう。
これは世間でいう一目ぼれっていうやつなのか?
だとしたら僕が何か行動を起こさない限り、絶対彼女への思いが実ることはない。決してない。
僕は途方に暮れた。
そうこうしているうちに、僕の足はどんどん大学へと近づいている。
今日もまた、1日が始まる。
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