Adorable
ようこ
SIDE GIRL
あたしが彼について知っていること。
シド・ヴィシャスを好きらしいこと。
寝坊すると茶色いふちの眼鏡をかけてくること。
エルレガーデンの活動停止を心の底から残念がっていること。
あたしと並んで立つとあたしの目線がちょうど彼の胸元に来ること。
筋っぽいような骨っぽいような、この世に二つとない素晴らしい手の持ち主であること。
「100万回生きたねこ」で感動して泣いたこと。
目をつぶっても彼の顔を頭に描けるほどなのに、でも、あたしは彼の名前さえ知らない。
*
「100万回生きたねこ」で感動するくせに、シド・ヴィシャスのTシャツを着てるなんて変な人だ。
あたしはくすっと向かいの席の彼をみて小さな笑いをもらした。彼がふっと手元の文庫本を閉じて、片眉をあげてみせた。
いけない、思わず笑っちゃったよ。
気を引き締めなおす。彼はしばらくあたしを見ていたが、あたしがひたすら下を向いていたので、再び文庫本へと戻る。本のカバーが外されているので、何を読んでいるのかは分からない。彼の胸元でシドが中指を立ててあたしを睨んでいた。
毎朝6時43分にうちの最寄駅を出発するこの電車に、彼は大抵乗っている。あたしが乗っている駅から大学が集まる街中までは電車を乗り継いで1時間ほどのところだから、彼も大方、大学生といったところだろう。
ごくまれに、途中で乗り合わせたらしい彼の友人が、隣に座っていることもある。
そういう時、ちらりと見える彼の毎日が好きで、あたしは、「また彼の友達が乗り合わせてくれればいいのに」と思う。
彼は友人に、エルレガーデンの無期限活動停止をずっと嘆いていた。
黙っているとずいぶん男っぽい顔なのに、なんだかその時の彼は駄々をこねる子供みたいな顔をしていた。
こうやって、彼の一挙手一投足をあたしは毎朝見つめている。
なんだかストーカーにでもなったみたいだ。
幸いにして彼に気づかれている様子はないけれど、気持ち悪がられでもしたら、立ち直れない気がする。
何か機会があったら少しは話でもできるようになるのかもしれないけど、そんなものが天からきちんと与えられるのは映画かドラマの中だけでの話で、現実にはそんなこと望むべくもない。
自ら行動するしかないわけだ。…でも、それは無理。
こういった堂々巡りを続けてもう半年にもなる。
出会ったのが、カフェとか学校とかバイト先とかだったら、もっとなんとかできたのに。
あたしは悶々としながら懲りずに彼の手元をじっと見つめる。手から視線は胸元を辿って、大きな顎へ。伏せられた睫は男の人の割に長くて、目元に影を落としている。これぐらいの年の男の子にしては珍しく黒い髪は猫っ毛で、ワックスできちんとセットされていた。
何度も何度も彼を見るうちに、一度も会話は交わしたことがなくても、なんだか近しい人のように感じる。
我ながら危ないなとは思うけど。
彼が小さなため息を吐きだして、本を閉じる。そろそろ彼が電車を降りる頃だ。あたしが降りる駅は次の駅。
ひと駅くらいなら彼がどこへ行くのか降りて見てみてもいいけど、それってなんだか危ない気がする。
じっと見ていたせいで立ち上がる彼と一瞬だけ目が合った。
何事もなかったようにそらすよなあ…
こんな些細なことで、あたしって馬鹿みたいだ。
でも、もう動きだしてしまったものはしょうがない。
毎朝、あたしは一人で浮かれて一人で悲しくなる。
発車のベルがなってから全速力で走っても電車は待ってくれないように、あたしの気持ちは、もう勝手に動きだしてしまった。
どちらかが少し時間をずらすだけで、この淡い交わりはあっという間に消えてしまう。
あたしは彼が電車を降りるまでの間、じっと組んだ手元を見つめて、ゆるゆると抑えていた息を吐きだした。
今日もまた、1日が始まる。
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