第3話「メール便」
平成10年5月中旬の昼休み、その日は労働組合の集会が報知されていた。集会はいつも昼食が終わった頃合いに全社員を体育館に集め、組合役員から会社との折衝事の報告をするイベントだ。
僕と正雄はみんなが集まるまでに筋トレと組手を終え、流れる汗を拭きながら体育館で人が集まるのを待っていた。
その日の組合役員の話は、次の衆院選に向けて会社と組合が推す政治家の紹介だった。僕らは所属する職場ブロックのグループに混ざり、体育座りをしながらボンヤリと話を聞いていた。
紹介された三人の候補者が、選挙に向けた決意表明すると、組合は応援を約束する「えい!えい!おう!!」のかけ声で会場は盛り上がり、昼休みが終わる5分前に政治劇場は終った。
「あーあ、やっぱりバドできなかったなぁ」
小声でボヤきながら、僕と正雄はそれぞれの職場に戻る人混みの中を歩いていた。そんな雑踏の中、後ろから軽快な足音が近づいてくるのに気づき振り向くと、思いもよらない男に呼び止められた。
声をかけてきたのは、仕事以外ほとんど交流のない後輩の松野だ。風貌は刈り上げた茶髪に前髪はクリクリパーマ。肩まで捲し上げられた作業着から見える筋肉質な二の腕と、常につま先立ちの太いO脚の脚。実業団リーグで活躍するサッカー部のエースストライカーだ。
いかにもヤンチャな体育会系のノリで声をかけてきた。
「しのぶ先輩!天間さんからこれ!渡してくれって預かってます。
天間さん、今日から海外出張なんで。
じゃっ、あとよろしくです!」
彼はそう言って預かり物を僕に手渡すと、返事をする間もなく走り去った。
一瞬の出来事に、僕も正雄もただポカンとしていた。
渡されたのはグレーの封筒。差出人の天間先輩は会社の北米拠点、アトランタ工場に長期出張するチームで今日出発する。アトランタ出張のことは聞いていたが、天間先輩もそのメンバーだったことをその時知った。
僕は設計棟に戻る正雄に手を振り、体育館から戻ったサーバー室で、やけに重たいその封筒を開けた。これが、これから僕に訪れる混沌の日々の始まりだった。
「うーん・・・。何が入っているんだ?」
封筒は何の変哲もないグレー色の封筒だったがズシッと重たい。手紙サイズだが分厚く膨らみ、ゴツゴツした物が中に入っているようで硬い。
封筒表面に貼られた宛名票の宛先欄に、天間先輩の所属と名前が書かれていた。それは仕事で良く見かける、社内連絡用の「メール便」だった。
ここは神奈川県西部にある自動車部品メーカー。小さなこの町では少し名の通った会社だ。
駅から少し離れた小高い丘の上に本社を構え、工場が併設された広大な敷地に2000人ほどの社員とその数倍の業者が出入りしている。
他に本社に匹敵する規模の工場が国内に5箇所。天間先輩が出張に出かけた北米工場をはじめ、アジア圏など海外拠点が数箇所。営業所に至っては国内外に無数に展開するグローバル企業だった。
その拠点間を所属と名前だけで書類や届け物を簡単にやりとりできるのが、この「メール便」だ。
僕がいる本社工場は、守衛所がある南側に社員と業者の通用門があり、敷地の中に入ると売店と食堂、社員更衣室棟が並んでいる。
通路を西側に行くと、実業団リーグの強豪企業らしく、ウェートトレーニング室を備えた立派な体育館がある。
その奥を進むと白塗り5階建ての本社ビルと研究棟、さらに奥には宿泊可能な研修施設が軒を連ねている。
通用門正面に立ちはだかる敷地中央、巨大な工場棟を囲むように、東側から南側にかけて設計事務所と実験施設が並んでいた。敷地の外周をぐるっと囲むようにテストコースを兼ねた連絡通路がある。仕事で眠いとき気分転換に歩くと1時間は時間を潰せる広さだ。
僕の仕事場は連絡通路東側、設計事務所2階の設計オフィス。それとは別に、通路を挟んで建っている実験施設の2階に設けられたコンピュータールーム。
通称「サーバー室」と呼ばれている四畳半ほどのスペースは、最新鋭のネットワーク機器とコンピューターがズラリと並ぶ、僕だけの秘密基地だった。
僕の仕事は設計技士と社内システムの面倒を見るシステムエンジニアも兼任していた。元々はメカ設計を専門としていたが、持ち前の
その実、この小さなサーバー室は世界中に散らばる工場や事業所をつながっていて、僕だけが出入りできる秘密のネットワークがあった。
僕はそのネット空間を自由に駆け回り、外部からのハッキングや情報流出リスクから情報資産を人知れず守る、後に「ホワイトハッカー」と呼ばれる職業が僕の裏側の仕事だった。
当時、日本はまだ一般家庭にインターネットが普及し始めたばかりで、メールやネットは一部のオタクの遊びというのが社会通念だった。
先端技術を扱う僕の職場では、世界中の技術論文を読むことができるインターネットは欠かせないものだったが、コンピューターの職場普及は始まったばかりで、中高年を中心としたリテラシーはまだまだ十分とは言えなかった。
そんなおじさん達の起こす面倒事の後始末も僕の仕事だった。
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