第9話 後戻りなどするつもりは、ない

 マイコプラズマ肺炎で生死の縁を彷徨い、幽体離脱までして帰ってきた病室で見た天使と、交通事故でまだ生きていた両親の命をむしり取った天使。巨大な天獄の門から聞こえた声は、茜が何度か出会った天使のそれと同じだった。


 あの六枚羽根の熾天使が全ての元凶だ。両親を狂わせた挙句、多くの命を召し上げ歪ませた悪鬼。この門戸島における天使の親玉とも呼べる存在かもしれない。


 しかし。茜が再び意識を取り戻すと、暗く陰った空間に居た。石畳の床に、細かな彫刻の彫られた柱。並び立つその奥には、大きな玉座が一つ。三途の川に落ちてしまったことは記憶にあるため、此処は──冥界を統べる、冥王の玉座。幼い時分に一度だけ訪れた、あの場所だ。


 茜はゆっくりと立ち上がって指を鳴らすも、アキヒコが転じた両剣は手元に来なかった。


「……いや、あいつはまだ狭間にいるんだっけ」


 癖だった。相棒がそばにいなくて心細かったのかと、茜は己の行動を鼻で笑って玉座を見据える。


 気だるげに頬杖をついたままの冥王がそこにいた。相変わらず全身鎧で覆っているため表情は読み取れないが、茜は気負うことなく玉座に歩み寄る。


「お久しぶりですねイザナミ様。あたし死んだってことであってます?」


 生を全うし、再びここに帰ってこいと。その時王になるかどうか、再度問おうとイザナミは言っていた。今がその時なのだろう。


「申し訳ないんですけど一回狭間に戻してもらえません? 殺し損ねた天使がいるんですよね」


 帰りたくない、このまま死にたいと力なく言ったかつてと違い、成人した茜には成し遂げることがあった。冥界に落ちてしまったとはいえ、全ての元凶である熾天使を地獄に落とさない限りはゆっくり話をする気にもならなかった。


「イザナミ様? あたし狭間からここに落っこちてきたから、本当に死んだかどうかわからないんだけど?」


 アキヒコの主導で狭間に降りたため、茜の体は生命活動を続けたまま現世にある。幽体離脱に等しい状態のため、本当に死んだかどうかが──己が生を全うしたかどうかが分からない。


 イザナミは茜に再三問われて尚、返事を返さなかった。いつまで黙り込んでいるのかと苛立ちが募って、茜は眉間に皺を寄せる。


 こんなところで休憩している場合ではないのだ。あの天獄の門と天使を放置してしまえば、現世でどれだけの被害が出るか。何より天使と化してしまった両親を、せめて己の手で地獄に叩き落してやらねば気が済まない。


 狭間に残したアキヒコとの接続が切れてしまっているため、冥界から戻るには別の冥人くろうどの助力が必要なのだ。協力を取り付けるにはうってつけの人選だというのに、反応がないとはどういうことだ。


「ちょっとイザナミ様? 返事くらいしてよ。どうにもならなかったらフィアレスノヴァを捜しにいくからね?」


 あのマイペースでおっとりとした尾花栗毛の元競走馬に会ったから、茜は馬に興味が湧いたのだ。おかげで大学では馬術部に入ったし、今でも一口馬主を嗜む競馬好きになった。勝鞍のレースは何度も見たし、何一つとして趣味も持たなかった茜に好きなものを与えてくれたのがフィアレスノヴァだったから、礼のひとつくらい言いたいところ。しかし彼もその内現世に戻る魂だから、まだ冥界にいるのかも定かではなかった。


 冥界での知り合いは彼しかいないし、どうしたものか。辺りをきょろきょろと見渡していると、おもむろにイザナミが席を立った。


「……反応するなら返事くらいしてよね?」


 茜はぼやきながらイザナミを見上げる。一般人の二倍から三倍はありそうな体躯のイザナミは、鎧が擦れる音を立てながらゆっくりと茜に一歩歩み寄った。


 意図が読めない。昔のように一言くらい話してもらわないと、会話の糸口が掴めない。困ったと頬を掻くと、見上げたイザナミが己の兜に手をかけた。


「──随分と不遜な物言いをするようになったものだ」


 イザナミが発した言葉に、茜は僅かに顔をしかめた。


 聞き馴染みのある声だったのだ。何も子供の頃に聞いたイザナミの声を思い出したのではない。声色こそ違うが、直近で何度も聞いていたような、そんな気が。


 訝し気にイザナミを観察しながら、茜はその場に立ち尽くす。兜を外し、露になった厳めしい顔で見下ろされて、茜は口を尖らせた。


「何よ、不機嫌なの? 悪いわね、志半ばで死んじゃって。あたしだって不本意なのよ、あのクソ天使に不意打ち食らって回避もできずに直撃食らうなんて」

「あれは主でも避けきれなかっただろう。いくら我が強化を施しても、抑え込んでいる魂では我の力を十全に発揮できぬ」

「じゃあその拘束くらい解いてくれる? 全力なら太刀打ちできるって物言い──は?」


 普通に狭間での戦闘を回顧して、噛み合った会話に気づいて生返事を返してしまった。


 イザナミは冥界の王だ。玉座に座っていたというのに、どうしてつい先ほどの狭間での戦闘を知っている?


 それに、我が強化を施しても、とは。茜が契約している冥人くろうどはアキヒコのはずだが。


「……何だよ、やっぱ気づいてなかったのか?」


 イザナミの声色が変わる。威厳のある権威者然とした冷徹な声から、快活なお調子者の声に。一気に気安い口調になったイザナミを、茜は口を半開きにして唖然と見やった。


「そんなに驚かなくてもいいだろうよ……ったく」


 目の前の冥王から放たれた声は、紛れもなくアキヒコの声だった。数年共に天使を狩ってきた相棒なのだから、間違えるはずもない。


「は……? あんたもしかして、アキヒコなの?」

「如何にも。イザナミの名は冥王が受け継ぐ名前でな。アキヒコは生前の名だ」

「いや、口調違い過ぎでしょ」

「カモフラージュってやつだよ。冥王が人間と契約して狭間で暴れてるってなったら天使共が騒いで仕方ねェだろ」


 茜の問いを、イザナミ──もといアキヒコは肯定した。


「それにオレの本体も冥界に残したままだし、契約したテメェも魂を抑えてるからそこまで力のある刑務官だと思われなかったはずだぜ?」


 結果偽装は大成功。してやったなァ相棒よォ。アキヒコは巨大な体躯を震わせ、腹を抱えて笑った。既に冥王としての威厳はすっかり失われていて、茜の思う普段のアキヒコの印象に近づいている。


 にわかには信じ難いが、本当にイザナミはアキヒコのようだ。知らぬうちに冥王と契約していたとは、驚きを通り越して呆れてしまうほど。


「……なんで冥王ともあろうお人が前線に出てるのよ……」

「不可抗力って奴だぜ? どっちかってとオレを前線に引っ張り出したのはテメェだ、茜」

「あたし? なんで?」

「テメェと契約できる冥人くろうどがオレしかいなかったんだよ。戦うのを望んだ手前、無碍にもできやしねェ。ホントはテメェが天寿を全うしてから接触する予定だったんだが、急遽生きてる間も見守ることにしたって寸法よ。まぁオレの術がかかってんだし、当然っちゃ当然だが」


 言って、アキヒコは茜に近づくと巨躯を折って膝をついた。大きな瞳がスッと細められて、矢で射抜かれたように背筋が伸びる。


「──とはいえ、約束は約束だ。もう一度会った時、主に問うと決めた」


 アキヒコは口調を変えることで、個人としての己と冥王としての己を使い分けているようだった。銀色の瞳が、茜を撃ちつけるように見ていた。


「王となり冥界を統べる気はあるか、柳楽茜」


 魂を統べる、世界を回す歯車になる気はあるか。アキヒコは問うた。


 返す言葉は既に決まっていたが、その前に聞くことがあって、茜は威圧に震える唇を何とか開く。


「……返事の前に聞きたいこととお願いがあるんだけど」

「よかろう。問うてみよ」

「あたし、まだ死んでないわよね?」

「──そうだな、肉体はまだあのマンションで生きている」

「じゃあまたあんたの力を借りれば現世に戻れるってことよね?」

「そうなるな」


 まだ生きている事は確定。ここで再びアキヒコの協力を取り付ければ、問題なく戦線に復帰できそうだ。


「魂の拘束を解いて、あたしを狭間に戻して」


 アキヒコによる身体強化で感覚が無くなるほどの負荷がかかっていたのも、元々は茜の魂の大部分が封じられていたからだ。元々の霊力を発揮できるようになれば、天使にも対抗できる。弄ばれるだけだった両親にも、真正面から拮抗できるはずだった。


「天使もカミサマもみんな殺してあげる。それが終われば、王にだってなってやるわよ」


 茜の宣言を瞬きもせずに聞いていたアキヒコが、ニッと口角を吊り上げて笑った。


「──よかろう! その言葉に嘘偽りなし!」


 元々話は聞いていたから、ぼんやりと考えてはいたのだ。ただ玉座に座っているだけだと呟いたイザナミはどこか気だるげで、確かにつまらないんだろうなとも思ったが。


 茜は自分がどう判断するか分からない未来の事よりも、現実に起こっている事を優先した。


「少し待て、今拘束を解く──この際だ、久しぶりに我も出てやるか」

「いいの? 王様が席外しちゃって」

「短時間なら構わぬ。長期間不在とするならまだしも、少々我がいなくなったところで慌てふためく冥人くろうどは冥界にも地獄にもおらぬよ」


 アキヒコが立ち上がると、茜の頭上に手をかざす。途端に茜の体から光の粒子が漏れ出し、漂うように旋回し始めた。


「主との契約は、抑えた魂に合わせた仮のものだった。これより正規の契約を成す──後戻りできぬぞ?」


 本当に王になる気があるのだな、とアキヒコの再三の忠告に、今度は茜がニヤリと笑う。


「上等! やってやるわよ!」


 ぶわ、と足元から突風が舞う。呼応してアキヒコの巨体が一斉に光に散り、漂っていた光は茜の体を覆い始める。


 茜の体を依り代に現界したのだ。身に纏った霊力はアキヒコが身につけていた鎧の形状に変わり、その場に残ったのは突き立てられた両剣だけだった。


「……器用なことするわね」

『こうでもしねェと、狭間にいけねェんだよな』

「王様だから?」

『おうさ。魂がデカすぎる。あんまり騒ぎにはしたくねェしな』


 姿が見えなくなってしまえば、いかに冥界の王と言えども軽口を交わす仲に戻る。


 冥人くろうどのアキヒコによって身体が守られた状態なら、天獄の門の内部に侵入することも可能だ。鎧を通じて体に霊力が満ち溢れているが、両親と交戦したときの様に感覚が消えることもない。これが本来の、茜の魂の防御力なのだろう。アキヒコの霊力も上乗せされれば百人力だ。


「狭間に飛ばして。戻ってあいつら潰すわよ」

『ハッハー、まかせな! テメェが死ぬにゃあ、まだ早ェ!』


 両剣を引き抜き、一端の切っ先を天井に向けて目を閉じる。強い重力がかかったと思えばぐんと頭上に引っ張り上げられ、次の瞬間には冥界の出口、三途の川の川底にいた。


 フィアレスノヴァに連れられてみた時より、漂う魂の数が少ない。右往左往するようにせわしなく動き回っている魂たちは、茜の──もといアキヒコの気配に気が付くと光を点滅させて意思表示をした。


「前より少ないわね、魂の量」

『言っただろう、帰ってこない魂が多いのだと』

「いやあんた、コロコロと口調変えないでよ……調子狂うわ」

『仕方なかろう、自然とこうなるのだ』

「いやまぁ、公私が分かりやすくていいけど……なんて言ってるの、この子たち」


 アキヒコに問うと、握った両剣が一つ震えて答えた。


『狭間が怖くて戻れない、と』

「まぁあれだけ大事が起こってればね……」

『そういや、出てきてあのデカい門が感知できなかった理由が分かったぜ』

「なによ」

『あの天獄の門、人間の魂を外周に張り巡らせてんだ。だからオレたちにゃ、現世からじゃ人間の魂としか感じられないって訳だな。冥人くろうどは視覚を使えねェ。感じ取れないもんを認識するこたぁ出来ねェって寸法よ』


 アキヒコが雑談のついでにとんでもないことを言った気がする。思わず両剣を二度見して、それから茜は川面の向こう側を睨みつけた。


 夜闇の中、輝かしい光が差し込んでいる。忌々しく自己主張を続ける天獄の門の隠蔽方法が、予想以上に凄惨だった。


 あれだけの巨体を覆うほどの魂を、一体どこから調達してきたのだ。それも信仰で汚染していない普通の人間の魂を。疑問に思いながら、ひとまず狭間に向かおうと茜は両剣を振るって水を斬り裂いた。

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