第8話 偶然は必然の産物なりや

 再び目を開けると、深海のような川底ではなく、溶岩の流れる洞窟でもなく。僅かな光が灯された、宮殿の中のような、玉座のような。死んだ後の世界って、なんだか現実では考え付かないほどいろんな場所がある。


「イザナミ様―。連れてきましたけどもー?」

「ご苦労。無理を言った」

「いえいえー。下ろしますー?」

「いや、乗せたままでよい。近くに」

「はーいただいまー」


 フィアレスノヴァを呼び寄せた当人は大きな広間の奥にいるらしい。軽快に広間を進んでいくと、暗がりの中に誰かいることに気づいた。


 全身黒い鎧に身を纏った、己やフィアレスノヴァよりも大きな人だ。玉座も相応に大きく、足元から見上げるほどの大きさで、茜は思わずフィアレスノヴァの首筋に抱き着いて身を隠した。


 こんな大きな偉そうな人が何の用だろう。イザナミと呼ばれた大男は、確か地獄の溶岩洞窟でも言及があったはずだ。


「だいじょぶだよー。この人はイザナミさまって言ってねー、冥界と地獄の王様なのー」

「座っているだけだがな」

「またまたぁー、そんなこと言っちゃってー。居てくれないとみーんな困っちゃうんですよー?」


 つまり、死後の世界の偉い人。なんだかとんでもない人に会ってしまった気がする。そんなイザナミは首を左右に傾げながら茜をじっと検分するように見ていて、なんだか居心地が悪い。フィアレスノヴァの鬣をぎゅっと握って肩を縮こめていたものの、イザナミはいつまでたっても眺めたままで動こうとしない。フィアレスノヴァの方も要件を伝えてくれないし、自分から切り出すしかないか。


「あの……あたしに何か、用ですか」


 茜が意を決して問うと、イザナミが足を組みなおして言った。


「我も玉座に就いて長い。そろそろ後継が欲しいと思っていた」


 唐突な話だった。冥界について知識のない茜にとっては返事のしようがない。


「冥界も地獄も、死人が回す世界だ。しかし輪廻に戻らぬとあらば、相応の強さが求められる」


 お前はそれに相応しい。イザナミは言った。

 正直な話、何を言っているのか理解できなかった。単純に頭で解釈できないのでなく、唖然としてしまって言葉が耳に入らなかった、が正しい。


 首を傾げて返事を返す。兜で表情の読めない相手に膠着状態が続き、茜は耐え切れずにフィアレスノヴァの首をぽんぽんと叩いた。


「もー、何が何だか分かってないみたいですよー」


 助けに応じて、フィアレスノヴァが鼻を鳴らしてから言った。


「主、この玉座を継ぐ気はあるか」

「いやだからねイザナミ様―、話が突然なんですってー。この子事情分かってないですってばー」

「ふむ……」


 玉座を継ぐ、とはなんとやら。まだ生きているらしい自分に、死者の世界を任せようとでも。今まさにこの場で死ねと言っているのだろうか、この冥府の王は。


 イザナミの言葉の足りなさにも慣れたようで、フィアレスノヴァは仕方ないなぁ、とため息交じりに呟くと、頭を茜の方に向けて言った。


「あのねー、ぼくもそうなんだけど、冥界で働いてるって言っても、いつまでもここにはいれないんだー。しばらくしたら輪廻に戻って転生しなくちゃいけなくてねー、それはイザナミ様も同じなのー」

「……そうなの?」

「うん、そうなのー。遅いか早いかの違いでねー。今代のイザナミ様は王になって随分経つから、そろそろ現世に戻らないといけないんだよねー。それで、代わりになれる魂を探してたってわけー」

「だが王となる者には相応の資格が問われる。生来の魂の強度、現世で得た精神の強さだ」


 フィアレスノヴァの言葉を引き取ったイザナミだが、栗毛の馬の背に隠れたままの茜を今一度見やって首を捻った。


「条件としては相応しい……恐らくは過去世が何代か前の王だったのやも知れぬ……しかし」


 イザナミはそれきり黙り込んでしまって、茜はおずおずとフィアレスノヴァの首から顔を出す。勝手に相応しいとか言っておきながら、同時に問題事もあるようだ。


「既に天使に目を付けられているのが、少々厄介だな。確保しておきたいところではあるが」

「うぇ、あー、やっぱりですかぁー? それは困っちゃいますねぇー」


 天使。溶岩洞窟で見た真っ白な人の形をした何か。その姿を思い浮かべて、茜はふっとこれまでの生を思い出す。


 茜に宗教の自由はなかった。親から強要されていたのだから、当然反発心もあった。なにより苦しんでいる自分をよそに天国に行くためとか幸せになるためとか言われても、全く説得力がなかった。


 覚える気はなかったが繰り返し何度も言われて頭に染み付いた言葉に、こうあった。


 現世での生を乗り越え、正しく清く生き続ければ、死後に天使が迎えに来る、と。


 人間の上位存在として、神とその使いである天使がいた。天使などいないと思っていたが、こうして冥界に堕ちた天使がいたのなら──本当に、存在するのでは。


「……それ、親の、宗教のせいかも」

「ほう? 詳しく聞かせろ」

「うちの親、正しく生きてたら死んだ後に天使様に天国に連れて行ってもらえるんだよって、言ってたので」

「──直近で帰ってこない魂が多いのは、それか」


 心当たりをイザナミに話すと、兜に隠れた視線がフィアレスノヴァにアイコンタクトを寄越したらしい。二人してゆっくり頷くと、茜の体がふわりと浮いてフィアレスノヴァの背から下ろされる。


「どちらにせよ、これだけの魂が天使に堕ちるのは避けたいな」

「ですよねぇ」

「茜と言ったか。近くに──案ずるな、これは主を守るためだ」


 降り立った床は硬く、実体を持たないはずの素足がひんやりと冷める。足先から急速に体温を持っていかれる感覚がして、咄嗟につま先立ちをすると、見上げたイザナミが僅かに鼻で笑った気配がした。


「だいじょぶだいじょぶー。いっておいでー」


 フィアレスノヴァが顔を寄せて促すので、茜はおずおずと玉座に近づく。身を縮めながらイザナミの挙動を見守っていると、彼は玉座に座ったまま、茜を指さした。


 途端、茜の周りに細かな光が現れる。包み込むように展開した光は数を増やしていって、仄かな輝きが漂ったかと思えば、ある程度の量になると茜の体に入り込んでいく。


 身体の中に侵入されているというより、光が表皮を覆っているような感覚だ。身体の外側に分厚い膜ができ、それによって産まれた圧迫感に茜は眉根を寄せる。


 単純に苦しかった。正常だったはずの呼吸は細く荒くなり、体の締め付けは光を取り込むたびに強くなっていく。イザナミは守るためだと言っていたが、滅茶苦茶にしんどい。耐え切れずにその場にへたり込むと、フィアレスノヴァの足音が後方から聞こえてきた。


「ありゃ、ちょっときつくしすぎじゃないですかー?」


 闊歩の後、フィアレスノヴァがイザナミに問うた。茜としては今自分に成されたことが何であったのかすら分からないため、少々説明が欲しい気分だった。


「このくらいしなければ天使の目を掻い潜れぬ。発する霊力の大部分を抑えることにはなったが、我慢しろ。しばらく経てば体が慣れる」

「うーん、封印が終わったらそのまま返すつもりだったけど、ちょっと休んでからにしよっかー。もうちょっと観光していくー?」


 フィアレスノヴァの気遣いを聞きながら、茜は思う。イザナミの目的は、茜を次代の冥王にすることだ。強い精神力と魂が必要と言っておきながら、わざわざ押さえつけるのはどうしてなのだろう。やはり天使絡みの話なのだろうが、一刻も早くこの圧迫感から逃れたかった。


「……あの、なんで、あたしの……魂? を、抑える、必要が……?」


 茜は息も絶え絶えに問うた。死後の世界だというのに意識が飛びそうになるほど、目の前は半分暗くなっていた。


「どうにも、霊力は並外れてあるが、それが霊感として機能していなかった。本来であれば霊力を狭間を視る力に転化することで和らげている者が大半だが、主はそうではなかった。自覚のないまま発する強い力が、人ならざる魂を引き寄せていた訳だ。視えない以上、己で身を護ることができないのだから、危険度は大きく跳ねあがる」

「……そんなこと、ないと、思いますけど」

「あろう。主の親だ」


 イザナミの静かな言葉に、抑え込まれている魂が跳ねた。


「主の親に接触したのも、現世で天使を信奉する輩だろう。主は魂が強靭な故、干渉を阻めたが、主の両親はごく普通の人間。汚染に耐えられなかったのだ」


 故に、信奉に堕ちた。


 イザナミの言葉は、茜にとっての死刑宣告のようなものだった。


 茜が物心ついたころは、まだ両親はまともだった気がする。それがいつの間にか別人のようになってしまって、けれど幼かった自分ではどうすることもできず。その変遷の要因が、冥界の王に注視されるほど強かった己の魂のせいだったとするのなら。


 両親は嫌いだ。護ってなんてくれない。けれどそうしたのが、そうなってしまったのは、自分のせいだったのなら。


「……二人とも、あたしのせいで、おかしくなったんですか……?」


 茜は問うた。喉から必死に吐き出した声は酷く震えていた。


 とんだ親不孝だと思った。両親に自覚がない分尚更だ。


 産み落とした子供のせいで、両親の人生は滅茶苦茶になったのか。


「……主とて未だ人だ。いくら魂が強靭であろうと、天使の霊力に曝され続ければその内汚染される──熾天使を越え、神にまで近づけよう者を、我としては捨て置けぬ」


 今一度言うが、主は王の器なのだ。冥界にとっても、天獄にとっても。


 イザナミは言ったが、右から左に受け流れてしまって頭に入らなかった。静かにフィアレスノヴァが膝を折り、座り込んで頭を寄せてくる。身体を蝕む霊力の圧迫感は薄らいでいたが、代わりに深奥から嗚咽が漏れてきそうで、茜は己の体を掻き抱いた。


 あたしのせいで。あたしのせいで、親の人生をぶち壊した。他人の生を台無しにしたのだ。


「……ねぇ、スノくん」

「なぁに?」

「……あたし、やっぱり帰らない」


 茜が言うと、フィアレスノヴァは困ったように鼻を鳴らした。


「それは困っちゃうなぁー。またどうしてー?」

「……あたしがこのまま死んだら、お母さんもお父さんも、天使に良いように使われなくて済むんでしょ……? 元に戻るんでしょ?」

「……それは、ねぇ……」

「天使の汚染は現世では浄化できぬ。酷だが、主がここで死を選んでも、主の親は元の生活には戻れぬのだ──王の器ではあるが、王とするには経験も足りぬ。我は冥界の王として、主を現世に返さねばならぬ」


 言葉を濁したフィアレスノヴァと違い、イザナミは真正面から正論をぶつけてくる。


「……王様になるなんて、言ってません」

「そうだな。我は主に望んでいるだけで、命じている訳ではない」

「……強制することもできるんじゃないんですか」

「王とは孤独な者だ。承諾も無しにどうして席を譲れよう」


 あくまで決定権は茜自身にあるということか。とはいえぽっと出の話を深く考えることなく決められるはずがない。死者を纏める長ともなれば、責任も相応のものとなる。


 席に座っているだけだとイザナミは言っていたが、どんな仕事をしているのかすら茜は知らないのだ。もっとよく考えて判断する必要はあった。


「……主がここで生を終える理由にもなるまい。事は初めから主の手の中にはないのだ」


 故に。主は生を全うし、冥界に来るがいい。その時再び、主に意志を問おう。


 イザナミは茜に言った。彼と話している間に、体を蝕んでいた圧迫感は静かに消え去っていた。封印は馴染んだようだが、霊力が封じられたと言っても特段変化は感じない。


「頃合いか。フィアレスノヴァ、送迎は任せたぞ」

「はいはいおまかせ~。だいじょーぶ? そろそろ動けそう?」


 王になるか否か、それは今決めなくてもよさそうだ。確かにイザナミの言う通り、茜の存在が両親を狂わせたとして、本人に自覚がないのなら、命をわざわざ断つ理由にもならない。


 この経験が転機になることは確実だ。立ち上がったフィアレスノヴァを見上げて、茜は問うた。


「……ねぇ、あたしの人生、マシになると思う?」


 問うには無責任かもしれない。憶測でしか答えられない問いに、しかしフィアレスノヴァは一言で言い切る。


「なるんじゃないかなぁー。ま、わかんないけどねー」


 おっとり、のんびりとした調子を崩さない言葉が頭上から降りる。そのまま茜の体は浮き上がると彼の背に乗せられて、フィアレスノヴァは玉座の間を後にする。


「さてー。せっかくだしもうちょっと観光してこー。次はどこがいいー? いろんなとこがあるよー?」


 フィアレスノヴァの問いにどこでもいいと返して、茜は今一度イザナミの座る玉座を振り返る。どっしりと玉座に座り、どこか退屈そうに頬杖をついているイザナミは、茜の姿が見えなくなるまで視線を送っていた。





 目が覚める。おぼろげなまま、か細い糸のような意識で僅かに目を開ける。


「意識、回復しました──! 大丈夫ですか、茜さん、分かりますか?」


 女性の声がする。力の入らない手を誰かが触っている感覚がして、返事の代わりに添えられた手を握りしめて答えた。


 全身至る所に器具が付けられていて、身動きはとれなかった。重く苦しい呼吸はそのままで、重力が倍かかったように体がだるく、喉を震わせる気力はない。


 おかしいな、こんなに苦しくなかったのに。そう思って、茜は自分がやっと冥界から戻ってきた事に気づいた。不服ではあったが、フィアレスノヴァの言う通り、なんだか大事になっているようだ。


 とりあえずここがどこなのか状況が知りたい。意識が戻ったことで忙しなく動き続ける人々の騒音を聞きながら、何度も目元に力を入れて、茜はうっすらとだが目を開く。


「────だ、れ」


 視界に入ったのは、得体の知れない人間だった。四隅で動き回っている人間は看護師たちだろう、自分が無事に病院に担ぎ込まれて治療を受けていることまでは理解した。


 ただ、明らかに生きている人間ではない存在がいる。茜が寝ているベッドに乗り上げるようにして覆いかぶさる男は、今起きたばかりの茜の顔をむんずと掴むように手を伸ばしていた。


『……面倒だな、気づいたか……ん?』


 頭を直接揺さぶるような強烈な声に、茜は開けたばかりの目をぎゅっと閉じて耐えた。意識がどうにかなりそうなくらい、脳みそをもみくちゃにされるような不快感がある。


『……これほど霊力が少なかったか……? 俺の見込み違いか?』


 男は頭痛を併発させる声で言いながら、伸ばしていた手を引っ込める。茜は薄く目を開いて再度男の姿を確認し、冥界で伝えられた情報と比べてみた。


 白い布を何枚も纏った豪奢な出で立ちで、背中には四枚の鳥のような羽が輝いている。無駄に光っていて眩しく、直視することができないほどだ──何より、成人男性を遥かに超える背丈だというのに、茜以外の人間は男の存在に気づいていない。


 茜はようやく、自分が天使に連れ去られかけていることに気が付いた。どうやら霊力の量で連れ去る相手を判断しているようで、イザナミに魂の大部分を拘束されていなければ問答無用で体から引き剥がされていただろう。文字通り、冥界の王によって普通の人間と同じ魂であると隠蔽され守られたわけだ。


『……様子を見るか……召し上げるだけならいつでもできる』


 男は呟くと、乗り上がっていたベッドの上から離れて浮き上がる。そのまま四枚の羽を広げると、病室の壁をすり抜けて去って行った。




 その後、茜は児童養護施設に保護され、ひと悶着あった後に親権が叔父に移ったのだった。フィアレスノヴァが適当に言った言葉も、あながち間違いではなかった。

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