第4話 怒号は発するべし

 数週間後、叔父の要望通りに自宅を出て、出かける前だった叔父を迎えるべくマンションに向かう。せっかく一族集まるとのことで本家にしばし泊まるらしく、大きな旅行鞄やキャリーケースがリビングに広げられていた。


「こんにちはー。入るわよ叔父さん」


 今回は前もって来訪を伝えていたため、インターホンは鳴らさず合鍵で入った。旅行の最終確認中なのか、忘れたものがないのかしきりに確認する片手間に出迎えたのは渚だ。


「姉さんも来ればいいのに。一応血は繋がってるん……でしょ?」

「……うん、そうね。血縁上はね」


 行けない理由がある、とは面と向かっては言えない。義姉弟たちは一切知らなくてもいいことだし、知られたくないことでもある。


「……そっか。おみやげ買ってくるね」

「ありがとう」


 渚も司も、茜が同居していたことに対しては『何かあったんだろう』程度に察してはいる。が、そこまでだ。恭介も茜も、事実を伝えたことはない。


「茜、冷蔵庫に食べ物残ってるけど、適当に使っていいからな」

「はーい」

「よし、じゃあそろそろ行くか」


 恭介の号令で、荷造りを終えた義家族らは荷物を抱えて玄関に向かった。見送りのために茜も玄関内で立つと、つかの間の別れを惜しむようにみたらしとホイップもついてくる。


「留守番よろしくなーねーちゃん!」

「みたらし、ホイップ! 姉さんに迷惑かけないようにするんだよ!」


 思い思いに家に残すペットと言葉を交わして、叔父家族は家を出ていった。


 落ち着いてからリビングに戻り、ソファーにどっかりと腰を下ろす。一瞬で様子が変わったのを感じたのか、みたらしがソファーに乗り上がって体をくっ付けてきた。珍しくもホイップも同じで、先日やったのと同じようにお尻を密着させて香箱座りしている。


「……ごめんねぇ、大丈夫、ごはんは出すから」


 くん、とみたらしが鳴いた。

 ホイップ、と呼びながら撫でると、白猫はナン、と小さく返事をした。


 動物は好きだ。言葉が通じないとか何をするか分からないからと怖がる者もいるが、彼らも同じ魂を持っていて、知性や知能の違いは持って産まれた脳領域の差異でしかない。


 痛みも苦しみも、喜びも悲しみもする。なまじ言葉を介さない分、彼らは人間に対して嘘をつく理由がなく、裏切ることもない。


 感受性が豊かだから、気づかれてしまうのだ。迎えてからずっと、二匹揃って茜の側に来るのは彼女の元気のない時だった。


「……いいよねぇ、家族って」


 叔父家族は世間一般でいう典型的な核家族と言えるだろう。夫の恭介は門戸市役所の都市開発課で働くバリバリの公務員だし、絵里も専業主婦をしながらハンドメイド品を作る副業をしている。渚も司も、勉強も運動も並み以上にはできる。将来設計や進学先を選ぶのに、壁となるのは本人くらいで、他の障害はない。


 何より、家族仲は良い方だ。喧嘩はすれどちゃんと仲直りはするし、笑顔が絶えない。


「なんでだろうなぁ」


 茜はぼふんと二人掛けのソファーを独り占めして、二匹のペットを器用に避けながら横になった。


 茜の実の両親は既に死亡している。表向きには事故死だ。恭介が保護者として引き取ってくれなければ、孤児院や児童施設に入ることになっていた。


「はぁ……こんなこと思いたくないんだけど」


 渚と恭介が羨ましいと思う。俗に毒親と呼ばれるクソな大人に心身ともに束縛されるでもなく、自ら進路を決めることができ、金銭面で不自由ない。


 恵まれていることが当たり前であることがどれだけの幸福であるのか、あの姉弟は知らない。これから先、そうしたギャップがあるよ、くらいは教えるべきかもしれない。


 せめて。毒親に振り回された当事者として。ろくに医療に繋げられず死にかけ、叔父に助けられた人間として。人間の闇──というか、社会の薄暗さくらいは。


『おい、イヌとネコが呼んでるぜ』


 ぼんやりと思考の波の上を漂っていると、入れ墨に宿ったアキヒコが呼びかけてくる。


『ごはんの時間だぞ、だってよォ』


 気が付くと、みたらしとホイップがソファーから降りて、揃っておすわりしながら茜を見つめていた。茜が上体を上げると、気づいたのかひと鳴きして催促してくる。節操なく急かしてこないのは賢いなぁ、と思いつつ、時計を見れば確かに昼ご飯の時間だった。


 二匹のごはんをやった後、自分の食事も作らなければ、か。


「はいはい、ちょっと待ってね」


 そういえば彼らが来たのも、このマンションにやってきたっきり心を開こうとしなかった茜に対し、『動物なら仲良くなれるんじゃないだろうか』と叔父夫婦で話し合った結果だそうだ。幸いペット可であり、最初にやってきたのはみたらしで、ホイップは保護猫を引き取った形になる。


 叔父の見立ては見事的中して、二匹の世話という自分の役割を得て初めて、茜は叔父夫婦の家を己の居場所だと認識した。よそよそしい態度はなくもないが、それでも家族の真似事くらいはできるようになったのである。


 この後の予定を考えながら、元気に乾燥フードをがっつく二匹を眺める。初日だし、手っ取り早く昼も晩もテイクアウトか出前で済ませてしまおう。


 スマートフォンで出前を取っている間に、昼ご飯を食べ終えたみたらしとホイップはすっかり落ち着いていつもの調子に戻っている。


 あたしもこんな家族がよかった。でもそうじゃなくなったのは。ぼんやりと思って、食べカス一つない二つの食事皿を手に取った。



 *



 実家に等しいマンションでの留守番に、茜は時間を持て余していた。ペットの面倒を見ないといけないと紬たちに一応連絡したところ、いい機会だと思われたのか無理矢理有給を取らされたのである。茜としては出勤する気満々だったのだが、天使憎しでろくに有給もとらず、暇があれば狭間に降り気が済むまで天使を探して狩りつくすほどのワーカーホリックである。休めるときに休ませなければいつまでたっても定休だけで済ませてしまう。


 とはいえやることはない。ゲームは一人で遊ぶものがないし、みたらしとホイップがいるのも日常過ぎて新しさがない。結果、リビングのソファーでだらだらぼーっとするしかなかった。


 買ってきた缶チューハイと、今日もお手軽にチェーン店のハンバーガーセットを買ってきた。強い塩気の利いたフライドポテトをつまみにしながらチューハイを煽って、何気なく窓の外を見る。


 カーテンで閉ざされているが、外が騒がしい気がする。今日はマンション近くのドームで有名バンドのライブがあるらしいが、そのせいだろうと思っていたのに、ざわざわと得体のしれない胸騒ぎが止まらない。


「……みたらしー? ホイップもどうしたの」


 二匹がじっと窓の外に釘付けになって、鳴いてばかりだ。なんだか妙に感じて、ポテトをかじりながら汚れていない左手でカーテンを開ける。


『おいおいなんだァありャあ』


 アキヒコが珍しく息を呑んだ。マンションの高層階、そこから見下ろすドームの上に、明らかに天使の門と思しき球体が浮かんでいた。


「あんなもの突然なんで……」


 みたらしとホイップが、茜の足元をくるくる回りながら鳴くのを止めない。


 一般人には見えないだろうが、明らかに狭間に存在する天獄への門だ。慌ててテーブルの上のスマートフォンを取り、門戸島を中心とするオカルト掲示板にアクセスする。案の定投稿数が今日の夕方──恐らくライブの入場が始まった頃だ──から異常なほどに増えていて、事態の異常さにどうして気づけなかったのかと己に腹立たしくなってきた。



〝門戸市のドームに滅茶苦茶デカいUFOいるんだけど、見えてるやついる?〟

〝俺も見える。一般人には見えてないっぽいから、例の天国への門ってやつ?〟

〝ついに開いたかー。見に行ってみるかな〟

〝とうとう政府が隠してる事実が明かされる時だろ! 歴史的な瞬間になるぞ〟

〝天国の門ってさぁ、なんか政府の手先に毎回ぶち壊されてるって話だけど、あんなデカいのも壊しに来るのかな〟

〝だったら見物だろ、ドンパチ天使と悪魔がやり合っててすごいらしいぜ。知らんけど〟



 書き込みの内容はともかくとして、これ以上人間が集まってしまうのはマズい。

 天使の狙いは何だ。どうしてわざわざライブを狙ったのだ。


 そもそも現世において門の感知ができるアキヒコがいて、どうして気づかれずにこんな大きな門を呼び出せた。


 一人で考えても埒が明かない。他の仲間はこれだけ巨大な天獄の門が開いたことに気づいているのか。慌てて緊急回線で連絡を繋ぐと、流石に皆すぐに出てくれた。


『どうした茜ちゃん、緊急かい?』

『今出先でメシ食ってたんだけどなんなん……』

『茜、狭間なら、監視には何も引っ掛かってない』

『どうした? なんかあったか』


 各々反応を返してくれた同僚に、茜は窓の外に現れた天獄の門を睨みつけながら問うた。


「みんな、見れる場所からでいいからドームの方見てくれない? 天獄の門が出てる」

『お前の眼使って見えちャいるが、今でも感知ができてねェ。何だありャあ新手か?』


 基本的に、冥人くろうどであれば天獄の門が開いたことの感知はできる。それを受けて茜たち特殊刑務官が狭間に潜り、相棒の冥人くろうどから送られる思念情報を頼りに門を探す。直接会話ができる茜は特殊刑務官の中でも門や天使の索敵に長けているが、全く気が付かなかった。


「あんな大きいのに全然気づかなかった……なんか妙だわ、みんな視認はできる?」


 今のところ存在しているだけで、内部から天使が出てくる様子は見受けられない。しかしあの規模、あの大きさだ。内部に積み込める数は並みの門を軽く上回る。


 最悪数百体以上はいる。となると疑問なのは奴らが目的とする魂の略奪方法だ。

 基本的に、天使は死にかけた人間か狭間に降りた魂そのものを奪い去るしかない。肉体との繋がりが強固である現世の生命から魂を引き剥がすことはできないため、死にかけた人間を狙うのだ。


 現場は人間が多く集まるとはいえただのライブ会場。人が死ぬことなど余程のイレギュラーがない限りはあり得ない。


「どう、見えた?」

『……確認、できた』

『僕もだ。でも感知ができない』

『なんだありゃ……ビルがずらっと建っとるに隙間から見えるで?』

『……親玉でも出てきたか?』


 各々別の位置にいるが、視認しかできないのは同じなようだ。


「あたしが一番近いかしら、すぐ潜って様子見るわ」

『お願い……ちょっと、冥界と地獄にも、増援を頼んでみる』

『茜ちゃん、注意してね。アレは中にいるのも恐らく位の高い天使だ、何をしてくるか分からない。僕もできるだけ早く現場に行くよ』

『俺は家帰ってからになるけんちょっと遅れーけど、すぐ行くけんな!』


 素早く今後の行動を決めて、茜は通話を切った。


 話している間、みたらしとホイップが心配そうに茜の顔を見上げていて、カーテンを閉めてから視線を合わせるためにしゃがみ込む。


「みたらし、ホイップ、教えてくれてありがとう。あたしはアレをぶっ壊しに行くから、ちょっと動かなくなるけど心配しないでね」


 こうして話したところで理解できているか分からないが、一応話はしておくのが筋だろう。二匹とも返事をするように軽く鳴いたので、満足して一人掛けのソファーに深く腰を埋めた。


 叔父の家にいるとしても、帰ってくるのはもう少し先だ。安心して目を閉じ、アキヒコによる狭間への侵入に備える。


「アキヒコ、お願い」

『あいよォ。行くぜ』


 深く、長く呼吸する。意識を階下に集中させ、地下の先、魂のみが侵入できる狭間の空をイメージする。


 ずるり、と背中を引っ張られる。閉じた瞳の奥が真っ暗になって、座っていたソファーの感覚が一瞬で消えた。背後から落ちる様に、肉体と魂が分離して落ちていく。



 *



 一瞬意識が途切れた後、目を開けば浮遊感と共に狭間の空を落下していた。空中で体勢を整え、手元に両剣を呼び出す。


『よォ相棒! 今日のは大物だなァ!』

「言ってる場合⁉ ちょっと、めっちゃ高い……!」

『あァん? そりゃそうだろ、マンションから入ったんだぜ? そりゃー落ちる場所もマンションの、屋上だァ!』


 薄く霧がかかった空を斬り裂いて、なんとか屋上に着陸する。髪を纏めていなかったと懐からバレッタを取り出すと、間違えてお守りを手に取ってしまったらしい。アキヒコに気づかれないよう何気なく目的のものを取り出し直すと、案の定バレていたようだ。


『なんだァ、結局持ち歩いてんじャねェか』

「うるさいわね、別にいいでしょ……さて」

『現世からじゃ分からなかったが、流石に狭間に入りゃ感知できるな』


 髪を結い直して、マンションの屋上からでも見えるドーム上空の門を睨みつけ、茜は門の全容を確認する。形状は通常の天獄の門と変わらないが、やはり規格外なのはその大きさだろう。マンションの部屋からは分からないが、外に出てから眺めてみると高層マンション以上の大きさはある。


 ドームどころではない。周辺の商業施設全てを飲み込んで余りある巨大さだ。送電線の鉄塔や、ひょっとしたら東京スカイツリーと同じくらいの大きさなんじゃないかと思うくらいには、規模が大きすぎる。


 どう考えても門戸島の特殊刑務官五人では手に余る。しかし、他所から刑務官を集めてどうこうできる代物でもない。冥界と地獄に応援要請を出した紬の判断は正解だ。


 人間の戦力も、まぁまぁ揃ってはいるのだ。近接戦闘を得手とする茜と蓮に、竜久は鋼線をつかった搦め手と立体移動ができる。翔矢が契約している冥人くろうどは武器形態が様々な近代兵器で、広範囲の制圧力に優れている。紬は後方支援に徹しているが、本領はまだ発揮していないと聞いている。


 下手な刑務官を寄越すよりは、マシな結果になるだろう。


「しかし妙ねほんとに……向こうからこっちの反応だって分かるだろうに、あたしが潜ってもなんの動きもない……どうアキヒコ、中にどのくらいいそう? あの大きさなんだし、最悪入り口を塞ぐくらいしかできな──」

『茜、ヤベェぞ』


 滔々と喋りながらアキヒコに問うと、言い切る前に珍しくも狼狽した声が返ってきた。思わず屋上のコンクリートに突き刺した両剣を見ると、促されてアキヒコが続けた。


『あの門、動かしてんのは六枚羽根だ。クソカミサマのその下の奴……熾天使だな。分かる範囲で言えば更に下に四枚羽根が──二体、その手下が数えきれねぇほど居やがる……門っつーより巣かァ?』

「……そんな人数で何するつもり……?」

『突っ込んでも数の差で押されるぜ。下手に動けねェな』

「でもここで見てるだけってのもできないでしょ」

『わーッてるよ』


 思ったよりも状況が悪い。幸いなのは天獄の門に動きがない事だけで、単騎でどうこうできる問題ではなさそうだ。

 しかし、疑問は尽きない。そもそも狙いが何なのか分からない、という疑問に終着する。


『茜、門よりもアレがヤバくねェか』


 考えこもうとした瞬間、アキヒコに呼びかけられる。彼が体を動かしたのか、自然と視線がドーム付近のビルの一室を眺めた。


 ぐぐ、と焦点が寄る。冥人くろうどによって強化された視力が捉えたのは、各々に銃火器を持った統一感のない人間達だった。あまりに物騒だ。普通に考えてガスガンでもエアガンでも銃刀法違反にはなるだろう。改造を施して初速を上げれば十分に殺傷能力を持つ。


「アキヒコ、紬さんと繋げて。現世にいるからあたし達じゃ手が出せない」

『おうさ、やってる』


 まだ現世にいる紬に通報を任せる準備をしつつ、茜は疑問を解消するために頭をフル回転させる。そういえば、今日ドームでライブをするバンドはどんな活動をしていただろうか。そのファンたちの間に妙な思想がはびこっていないか。


 天使絡みの話はほぼ全て特殊刑務官たちの耳に入る。いままで聞いた話から、関連するものがないだろうかと己の記憶を掘り起こし──茜はあることを思い出した。


「……そういえばあのバンド、メンバーが魂魄救済会に入ってて揉めてたような……」


 記憶が正しければ、確か数年前にメンバー同士がいざこざを起こして真っ二つに分裂、再結成されていたはずだ。


 その理由が──茜もよく知る魂魄救済会というカルト宗教にメンバーがのめり込み、知人やファンにも広げようとしていたことだった。結果として該当者はバンドを追放、今残っているメンバーは、自分たちは一切関係がないと断言して活動していた。


 ならば──ならば。茜の経験も踏まえてこの状況を分析すれば、どんな結果が出る?


 現場には巨大な天獄の門と、武装した信徒がいる。どちらも目的は人間を天に召し上げ天使とすることだ。方法は、人間を殺すことただそれだけ。


「テロでも起こすつもり……⁉」


 あり得ないとは言い切れなかった。むしろ確率が高いまである。

 救うために人を殺せと教義として命じられれば、当然マインドコントロールされている教徒は疑いもせずにそうする。


 ドーム内に武装集団が突入し、例え実弾でなくとも乱射事件など起こせばどうなるか。慌てふためいた群衆はコントロールを失い、小さな入り口に大挙。密集して群衆雪崩が起きかねない。そして天使からすれば殺すまでもなく瀕死にすれば無理矢理魂を引き剥がせるのだから十分なのだ。


『……茜、どうしたの。連絡はもう少しかか──』


 こうして狭間と現世に分かれた相手と念話を繋げられるのも、何故かアキヒコだけだ。詳細は話していないが、アキヒコは索敵や念話に長けた冥人くろうどだ、という説明をしてある。実際はもう少し複雑なプロセスがあるらしいが、面倒なので聞いていない。誤魔化せてはいるし。


 基本的に境界を跨いで念話を繋げるのは紬だけ。彼女も彼女で冥界や地獄との連絡ができるらしく、ここは相互不干渉と言う形で方法を伏せている。


「ドーム近くの雑居ビルの……四階? に武装警察呼んで。銃持った集団が控えてる」

『本当? ……そっちが先だった?』

「かもしれないわね。実弾かどうかは分からないけど、確か今ライブしてるの、魂魄救済会とひと悶着あったガングニールだわ、やりかねないと思う」


 アキヒコを通じて応対に出た紬に、見たままの状況を伝える。


 人間にとって救いとは崇高な目的だ。救済とは立場が上の存在が、下の者に対して給わすモノに過ぎない。その行動が手っ取り早く、且つ強烈な悦楽をもたらすからこそ、人間は逆らえない。


 ヒトは酔う。正義と暴利に。己が正しいのだという優越感に。ヒトより優れていなければ己を保てないからこそ。理由を求めて他者を蹴落とし、我あれかしと世に示し──栄誉を見返りに、倫理と道徳をかなぐり捨てる。


 ──人間に人間としての倫理を失わせる教えなど笑止千万。須らく排斥すべき巨悪である。


『こっちは冥界との通信がある、警察とのやり取りは竜久にまかせる』

「了解。あと、天獄の門にいるの、ボスが熾天使、下に四枚羽根が二匹、雑魚多数。あたしも様子見しかできないわ、連中をとっちめてライブに来てる人を安全に家に帰す方が被害が少ないと思う」

『分かった。なら翔矢にはちょっと、気合をいれてもらう』

「こっちもこっちで状況に応じて動くわ、できるだけ早くよろしく」


 紬との連絡がそこで途切れて、茜は再びドーム上の天獄の門を眺めた。


 本当に見ている事しかできないなんて腹立たしい。けれど自分一人突っこんでもどうにもならないことは理解している。


 両剣を弄びながら、援軍を待つ。時たま武装集団がいるビルの一室に目を向けて監視するのも忘れないが、動きはないようだった。まだライブが始まったばかりだ。襲撃するなら、群衆が我を忘れるほど熱狂した瞬間がいい。


 何が起こったのか判断させないまま、退路を断ち、数人を倒れ伏せれば、それだけで被害を出せる。実弾でなくとも、化学兵器でなくとも。それこそ爆弾で吹き飛ばしだってしなくとも。天使という人殺しに最適な機構を呼び寄せているのだから、混乱させるだけでいい。


 群衆は、パニックになれば自然と死ぬ。統率が取れず秩序のない一群が自滅をするのは明白だ。


『茜、動いたぞ』

「……参ったわね、まだ誰も来てないじゃない」

『こっち来るぞ、備えろォ!』


 本当にどうしようもない連中だ、と茜が小さくため息をつくと、アキヒコが声を張り上げた。天獄の門を見やると、最下層からずるりと天使が這い出して来るのが見える。その白い影は二つ、狭間に降りた夜闇を斬り裂くようにして白い光を残しながら、茜がいるビルの屋上に接近してきた。


 両剣を取り回し、僅かに腰を落として構える。一瞬で到達した天使二体の姿に、茜は強く歯を噛み締めた。


 脳内が沸騰するようだった。沸き上がった激情に呼応するかのように、両剣が小さく震えて嘶いた。


『やっぱり堕ちちゃったのね、茜』

「堕ちたのはどっちよ、どっちが──!」

『そんな言葉遣いいけないな、よく言うだろ、お天道様に顔向けできる事をしなさいって』

「その言葉、そっくりそのまま返させてもらうわ! 罰当たりなのはどっちよ!」


 茜は声を張り上げ罵った。現れた天使は、己の実父母の魂を元にした存在だった。

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