第2話 退屈をこそ愛するべし


 意識が戻ってくるのも唐突だった。覚醒した茜が思いきり目を開くと、狭間に侵入するときに座ったふかふかのソファーの上で、動かした反動でぼよんと体が跳ねる。


 どうやら無事に戻ってきたようだ。見渡すと慣れ親しんだ事務所の中で、同僚たちが思い思いに過ごしている。今回は大事でもなかったので狭間に降りたのは茜だけで──競馬の中継が見たいからと渋った結果、誰が行くかをじゃんけんで決めて、ものの見事に負けたのだった。


「あー、おかえり茜―。どだったー?」


 二人掛けのソファーを占領して携帯ゲームをしていた男が視線も寄越さずに言った。褪せた金髪ショートの男を金築かねつき翔矢しょうやといい、茜より一年先輩の刑務官だ。他三名が、特殊刑務官の同僚として同じ事務所で働いている。


「んー、小物が一匹と天使になったばっかりっぽい赤ちゃんが四匹。迷子の魂狙って門開いてたわ」

「マジで? なんやぁ、新人の訓練でもしとったん?」

「かもしれない。小物が開けた門だったけど、引きこもってたから」

「そりゃー時間かかるわけだわな」


 言って、翔矢が親指でテレビを指し示した。狭間に潜る前につけた競馬中継がまだやっていて、ちょうど第8レースの発走間近だった。


 つまり、出資馬の新馬戦はとうに終わっている。デビュー戦を観れなかったと分かって、茜は心底悔しそうに膝を叩いた。


「終わってたぁー! やっぱり⁉」

「一応レースは観といたけど、茜の金出した馬が勝ったかは分からんで」

「何番だった⁉ 一着は⁉」

「覚えてねぇけど、白っぽくて紫色の服着とった」

「じゃあうちの子と違う……! あー何着だったのあの子!」


 どうやら初レース初勝利とはいかなかったらしい。茜は上着のポケットに突っこんでいたスマートフォンを取り出して競馬の情報サイトを出した。


「……ほんと、人が変わったみたいに競馬が好きだね、茜ちゃんは」

「ワーカーホリックにも熱中する趣味があるなら、そちらの方が安心」


 同じく同僚である安食あじきたつひさと片平紬のぼやきも気にせず、お気に入りから出資馬の項目へ飛ぶ。結果は既に更新されていて、どうやら一着からクビ差の二着だったらしい。そのままレース動画も再生すると、短距離の一二〇〇メートル戦、最後方から猛烈な脚で追い上げる愛馬の姿があった。


 成長によって毛色を変える葦毛の、まだ黒ずんだ馬体が弾んでいる。飛ぶような大きなストライドの跳躍に、一目惚れで出資を決めたのだった。実際にターフを駆けている姿を見るのは、過去映像と言えども興奮する。


「勝ったの超良血馬のフィアレスゲイルじゃない……! それを相手にクビ差二着は頑張ったわ、実力はあるし次は勝てるって……!」


 愛馬の活躍に力強いガッツポーズをしながら、噛み締める様に呟いた。ここが職場であることも忘れた反応に、微笑ましそうに竜久が笑った。


「好きだねぇ、僕らが見ても何が何だか分からなかったよ」


 穏やかに笑った竜久は、口調のわりに体は屈強だ。見た目と性格のギャップにも慣れたものだが、とにかく穏健で大人しい。


「慣れたら分かるわ。毛色と勝負服と、あと帽子の色で枠番が分かるから。頭絡とか馬具が厩舎ごとに違うから、それも参考になるし」

「……楽しいのはいいけど、競馬はギャンブル。節度は持ってね」


 破産する同僚をみたくは、ない。今度は紬からくぎを刺されて、茜は肩を竦めた。


 確かに競馬は賭け事、ギャンブルの類だ。大金を賭けている人間もいるが、そんな度胸は茜にはない。そもそも馬が好きという延長線上で競馬をやっているので、そうした人々とは認識も視点も違うのだ。


 蹄鉄が芝を蹴り、人より大きな馬体がターフを駆ける。彼らが走るだけで、何故か心が躍ってくる。


「分かってるわよ。馬券より出資にお金出してるし、応援馬券くらいしか買わないわ」


 なので、ギャンブルよりは競馬というコンテンツに関わりたくて、一口馬主なんてやっているのだ。幸い特殊刑務官は公務員扱いであり、給料は良い。独り身ならば出資する金額は捻りだせる。


 ならば何故そうした進路ではなく特殊刑務官になっているのかというと、そもそもなれる人間が希少だからだ。


 狭間に潜るには、幽体離脱の経験がなければならない。肉体と魂を完全な形で切り離し、本来双方を繋げる命綱を冥人くろうどが担当することで初めて狭間での自由行動が可能となるためだ。つまり──一度、危篤状態になるか、生死の境を彷徨う経験が絶対条件。狭間に存在する魂を見るだけなら現世の霊能力者でも可能だが、彼らは狭間が見れるだけであって干渉はできない。


 だからこの事務所にいる全員が、死にかけた経験を持つものだ。普通の人間は、故に特殊刑務官にはなれない。


 ソファーでゲームをしている翔矢も、元は音楽家だったらしい竜久も、素性が知れない紬も。死を超えてここにいる。


「あ、茜帰ってきてたのか……おかえり」

「あんたまだお腹緩いの治ってないの? 今日は帰ったらどうなのよ、別に全員いるんだし」


 トイレから出てきたのが最後の一人、妹尾せのおれんだ。


「いやでもストレスだからさ、どうしようもないんだよ」

「だったらそのストレスどうにかしなさいよ……仕事じゃないんでしょ?」

「相変わらず彼女の意識がな……戻らなくて」

「……よく腹が緩いだけで収まってるわねそれ……」


 蓮が腹を抑えてふらふらと歩いてきたので、茜は立ち上がって一人掛けのソファーを開けた。入れ替わりで座った蓮がぼそぼそ何か言いながらぐったりとひじ置きに体をもたれかけたので、その様子に呆れながら別の二人掛けソファーに腰を下ろす。


 数週間前から、蓮の恋人が意識不明になっているらしい。詳しい話は聞いていないが、危ない状況なんだとか。仕事終わりには毎回顔を出しに行っているので、精神的な疲労も相当あるはずだが。側にいてやれと休職を進めても、やることがあるから、と突っぱねられてしまった。

 相変わらずよく分からない男である。


「あーそうだった、忘れとったわ」


 おもむろに翔矢が言って、ゲーム機をスリープモードにしてからソファーから起き上がる。何かと座って待っていると、何やら取り出したのは白い小さな袋だった。


「これこれ、さっき三人には渡したけど、茜には渡しとらんかったけんな」


 ずい、と差し出されて思わず受け取る。首を捻りながら中身を見ると、白一色のお守りだった。


 高級感のある白い生地に、色味の違う白糸で亀甲紋が刺繍してある。真ん中には『厄除御守』と刺繍してあって、ひっくり返して裏面を見ると、どうやら出雲大社のものらしかった。


「実家帰ったついでに全員分買ってきたんよ。こんな仕事しとるし、願掛けは大いに越したことないっしょ?」


 翔矢は島根県東部の出身だったはずだ。先日の里帰りの際に、ご丁寧に買ってきたものらしい。


 しかしながら、茜は神頼みや信仰の類には否定的だった。だからこそ特殊刑務官という職に、自ら進んで就いたのもある。


「厄除け? ……こんなので効くの?」


 ただの布になんか詰めただけじゃない。茜の返事に、翔矢がむすっと頬を膨らませて答えた。


「効く効かんじゃなくて、お守りだけん精神的なもんだわや。実際効くかも俺には分からんけどこう……いやそうじゃなくて、こんなのって無礼だなぁ」


 意外にも信心深い翔矢としては、親切心で買ってきたのだろう。日本人としては至極真っ当な信仰心である。


 無宗教と言われることがままあるが、実際のところは他宗教と比べると目に見える信仰が少ないだけである。初詣に盆、彼岸にクリスマス。とりあえず人間より高次の存在なら祀り立てて拝んどこう。災いが死んだ人間が起こした祟りであるとして、死後祀られることとなった歴史上の偉人も多い。とにかく軽く気楽な信仰だが、だからこそ国民性の奥深くに根付いた特殊なものであるとも言える。


 人ならざる者を全て祀るのならば、冥人くろうども信仰対象の一つに挙げられるのだろうが。ちゃらんぽらんでいい加減な相棒を見ていると、そんな気も失せてくる。


「んなこと言っとるとバチが当たるで?」

「当たんないわよ、カミサマとかいないじゃない──いや、天使共の親玉は別にしてね?」

「おらんって考えんのもロマンのねぇ話だよなー。八百万の神々とクソ天使共のクソ神様と一緒にすんなやって話だわ」

「……じゃあ何が違うのよ」


 機嫌の悪そうな言葉の応酬に、竜久と紬が顔を見合わせる。神や宗教を毛嫌いしているのは公言していたが、ここまで嫌いだとは思わなかったのだろう。


「……神様は救うもんで、神々は……手を貸してくれるもんなんよ……って思う」


 一神教と多神教の違いを問われた翔矢が、考え込んで言葉を選びながら言った。


「俺もそんな宗教とかは知らんし信じとらんし、実家だって仏教だけど葬式のためみたいなもんだし。よー分からんけど、ほとけさんは元々人だけんさぁ、悟りを広めるためって感じっしょ?」


 お前は考えすぎなんだと思うで。翔矢は言う。


 そんなことを言われたって。彼はきっと知らないのだ。


 人間は信じることしか信じない。次第に何も見えなくなって、信仰の救いは何もかもを破壊する。

 ならばそんなもの無くていい。ヒトの命と権利を軽んじる思想など、ヒトを導くもので会っていいはずがない。


 ぎりりと歯を噛み締めて、つまんでいたお守りの組紐を握りしめる。


「クソ天使の救済は一方的に与えるもんで、仏様とかご先祖とか、神社とかの神々とかは、お願いして、力を貸してもらって……どうにかするのは人間なんだわ」

「──受動的か、能動的か、の違い?」


 紬が補足するように口を挟んで、そうそれ、と翔矢が顔を綻ばせた。


「神々は祈ったら助けてくれるって訳でもねぇし、人間を助けるための存在でもねぇ。勝手に信仰して勝手にありがたがっとんのは俺らだけん。だけん気楽なんよな」

「……やり場のない気持ちの行先、ってやつかしら」


 翔矢が言うのも理屈は分かる。生きるのは不安だから、人間は古来から生きるための指標を必要としたものだった。それが国であり、法であり、宗教だ。長い年月をかけてしみ込んだ思想であるからこそ、なんとなくは分かる。


 それこそ一神教だって。死後には救われると信じなければ、生きる気力を持てない人間の受け皿でもあるのだろう。


「そーそ、一応持っとけやそのお守り。別に信じんでもいいけん、俺からの気持ちと思ってさ」


 な? と翔矢が首を傾げた。確かに親切心でわざわざ買ってきたものを邪険に扱うのも礼儀に欠ける。茜は握っていたお守りを持ち直すと、ぎゅっと握り直してポケットに突っ込んだ。


「……信じてないけど、まぁ……貰っとくわ」

「ありがとな! まぁ元々持ってるからって悪い事に巻き込まれないって保証はないし!」


 持っていると安心するから、というやつか。はたまたご利益にあやかりたいとの出来心か。どうせ現実で何かするのは人間なのに、よくわからない。思いながら、茜は再び一人掛けのソファーにぼすんと座った。


 一応これでも仕事終わりなのだ。竜久が気を利かせて──翔矢と茜の口論を聞きたくなかったのだろうが──淹れてきてくれた紅茶を、サイドテーブルのカップを手にして一口飲む。


 胃に紅茶の熱さが染みわたる。面白おかしく笑うアキヒコの声が脳内に響いて、カップを置いたのちに彼が宿った右腕の入れ墨を叩いた。


『よくされてんなぁハッハッハ』


 うるさいわよ、と内心でアキヒコを罵倒する。


 茜はこうして普通に契約している冥人くろうどと会話をしているが、通常、冥人くろうどとは意思疎通が図れないものだとか。冥人くろうどにとって、生者と契約するのは問題ないとしても、武器化するのにかなりの負担がかかる。武器としての形態に全ての力を振り切っているため、契約者と意思疎通を図る余裕がない、とのこと。思念の節々で感情を理解することはできるが、アキヒコの様にはっきりと言葉を喋り、会話することはできないようだ。どうしてかアキヒコに聞いても『オレは特別だからなァ』と一点張りだったので、諦めて隠すことにしている。


『お守りだってよ、お前にも大国主オオクニヌシの加護があるといいなァ』

『カミサマ呼び捨てとか。不遜じゃない?』

『ハッハー、そう言うたァ、お前も分かってんじゃねェか』

『は? 意味わかんない』


 アキヒコはからかうように笑った。口うるさい冥人くろうどにも慣れたものだが、別に自分は仕事をするだけなのだから、意思疎通なんでできなくてもよかったのに。

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