冥府の守人
露藤 蛍
第1話 堕ちた命は葬るべし
激しい衝撃音がした。シートベルトをしていなければフロントガラスを突き破って車外に飛び出てしまうほどに激しい衝撃に、一瞬何が起こったのか分からなかった。
茜は痛みを堪えて薄く目を開ける。前方も後方も、車が複雑に入り乱れていた。横転しているものもあればひっくり返っているものも、バンパーがへこんでいたり、バックドアが歪んで破損していたり。交通事故にあってしまったことは間違いなかった。
対向車線も含め、何台もの車が巻き込まれた多重衝突事故だった。茜が乗っていた車は幸い最後尾に近い位置にあり、被害は少ない方だった。
しかし。ここまでの事故になると、オイル漏れからの火災が怖い。茜はシートベルトを外し、車外に出るべきだと考えた。
──このまま、己を攫った両親の下からも逃げてしまおうか。ふっと運転席と助手席を見ると、両親もどうにか動けるようだった。半ば自分のせいで狂ってしまったものだが、それでも生きてはいてほしい。早く逃げよう、と進言しようとして、茜は遥か前方の異変に気付く。
ひしゃげた車の上に、おおよそ人の体躯には思えない人型の何かが乗り上がっている。それは車の車体の上から手を突っこむと、腕をまさぐって何かをしている。
『────!!!!!!!』
途端、ソレの乗り上がった車から絶叫が届く。車を透過して引き抜いたソレの手は、人間の頭をむんずと掴んでいた。
ソレは次々と破損した車を乗り移り、同じように人間の体を引き抜いていく。そのたびに続く断末魔に茜は震えあがったが、意識のある両親には聞こえていないようだった。
身の毛もよだつ絶叫。無表情で近寄ってくる天使に見える死神。あっという間に茜が乗る乗用車のフロントガラスに移り、巨体の手がフロントガラスをすり抜けて母の頭を掴んだ。
ぶち、と引き切れる音がした。何事かと父が母の方を振り向く。バックミラーで覗き込んだ母は白目を剥いて口を大きく開き、体は痙攣している。
響く。耳をつんざき、魂を直接揺さぶるような猛烈な振動が茜を襲う。母の体から半透明な魂が引きちぎられながら剥ぎ取られて、完全に分離したところで痙攣が止まり、力なく倒れ込んだ。
父も直ぐ、同じ末路を辿った。茜も次の標的となるはずだった。
死神が茜の顔に手をかける。無造作に伸ばされた手は、しかし何かに弾かれるように後ろに飛ばされた。
『……やはり妙だが……ま、収穫はあったか』
死神はそれだけ呟いて、事故現場から立ち去った。
──門戸高速アクアラインで起こった多重衝突事故での死者、二十五名。唯一の生き残りである目撃者の話により、全て天使による魂の連れ去り事件であると認定。
天使は四枚羽根の上位天使と思われ、発端となった車の運転手などからアルコールが検出されなかった事により、天使の心理操作による殺人であると思われる。
以後、防衛省特殊刑務課の管轄案件として処理する。尚、生き残った生存者に関しては、魂に強力な霊子拘束がかかっていたため、要観察対象とする。
──記述者:門戸市特殊刑務所 特殊刑務官
*
信仰とは、ヒトが生きるための導であり。
信仰とは、ヒトを狂わす麻薬である。
ぽつぽつと、踵が跳ね上げた水滴が水面を揺らした。行き交う半透明の人々をすり抜けながら、女は辺りをきょろきょろと見回して担いだ両剣の柄を小突いた。
「……ちょっと、見つからないじゃない」
『仕方ねぇだろー⁉ 走ってるくらいのスピードであっちこっち行きまくってんだよォ』
「だったら先回りくらいしなさいよ」
艶やかな黒髪はバレッタで留められていた。着込んでいるのは革のライダースジャケットと使い込んだジーンズで、どこかスタイリッシュな雰囲気を纏っている。
女、
空は霧がかかったように白く滲み、歩道や路面の底はなく、満たされた水が川の様にそこかしこを流れている。どこかぼんやりとした浮世離れした世界は、生物が生きる現世と、死した魂が行きつく冥界の間──狭間と呼ばれる場所だった。
俗にいう三途の川というやつだ。しかし狭間は此岸と彼岸にはっきりと分かれているのではなく、魂は空からやってきて、川底に沈んでいく。生と死を地平でなく天地で隔てるのが、この狭間。地上の風景そのままを映しているが、魂でしか入り込めない場所だ。
「早く帰りたいんだけど」
『珍しくせっかちだなァ相棒?』
「知ってるでしょ⁉ 今日、出資馬の、新馬戦なのよ! 観たいに決まってるでしょ⁉」
『そうはいっても仕事はちゃぁんとすんだろ?』
「だから早く見つけろって言ってんのよ、このポンコツ
八つ当たりとばかりに担いだ両剣の柄を何度も叩いて、茜は深く息を吐きながら白く滲む狭間を見回した。
現在は仕事中。
狭間は死した魂が冥界への入り口として使用する空間だ。通常は迷わず川を潜り冥界まで行けるはずが、たまに行き方を忘れたか、トラブルに巻き込まれて狭間に取り残されてしまう魂がいる。そんな魂を無事に冥界に導いてやるのも仕事の一つで、今回狭間に潜った目的だった。
茜は契約している
「……アキヒコ」
『なんだァ』
「魂、多分追われて移動してるのよね……合ってる?」
『おうさ。近ェぞ、ウォーミングアップは済ませたかァ?』
頭の中に念話で届いたアキヒコの声が、ほんの少し強張った。
魂の感知はできているのに見つからない。導を失った魂はその場に留まる習性があるが、そうではない。ざっと目的の魂に何が起こっているのかを仮定して、茜はキッと目を細めた。
一歩、ローヒールのブーツが水面を揺らした。あっちだ、とアキヒコの指示に従ってビルの間に視線をやると、唐突に何かが飛び出してくる。
「そこの人、ちょっと待って」
茜は飛び出してきた魂を引き留めた。慌てている様子の魂は簡素な病院着を着ていて、長く走っていたのか息を切らしている。突然現れた第三者に大きく肩を跳ねさせた魂だったが、近代に似つかわしくない大きな長物を担いでいる茜を見るや、顔をひしゃげさせて懇願してきた。
「──っお願いします、助けてください!」
──大体予想通りか。茜は肩から両剣を下ろし、左手に持ち替えて魂に歩み寄る。
「大丈夫、大方把握はできてるから……よかったね、間に合って」
『いやァ、運がいいなぁネーチャン! オレたちが来たなら百人力だぜェ?』
『アンタはもっと早く案内できるようになりなさいよ。危ないのは変わりなかったのよ?』
心の中で軽口を交わしながら、まずは迷子の状況確認だ。ざっと見るに魂の欠損も汚染も見受けられない。生前の体と同じく、まだ人の形を保っている。
「なんか……なんか、空飛ぶ赤ちゃんに追いかけられてて、へんな矢撃ってくるし、撒いても撒いても見つかっちゃうし!」
「どのくらいいたの? その赤ちゃん」
「えっと……多分、四人くらい? だと、思います」
間に合った。が、数が多い。大方新人の教育か何かで侵入してきたのだろう。独り身でよく逃げ切ったものだ。
『来るぜェ、構えな!』
「ちょっとあたしの後ろに下がってて」
アキヒコが注意を促して、茜は両剣を弄びながら心細そうに身を縮める魂の前に出た。
「大丈夫よ、心配しないで」
一言思いやりの言葉を呟いて、魂が今しがた出てきたビルの路地に目を向ける。
飛び出してきた小さな人影を視認して、両剣を柄の真ん中で切り離し、双剣に切り替えてから強く足を踏み込んだ。
路地裏から出てきたのは体に相応の大きさの短弓を持った赤ん坊だった。肩から布を一枚巻き付けただけの姿は、多くの人間がキューピッドと言われて想像する姿と似ているだろう。実際その通りだし、否定するつもりもないが──実のところ、人間が思うほど良心的な存在でもない。
天使。ヒトの信仰によって産まれた生物ならざるモノ。人間の魂を昇華させた神の使徒。
現世と冥界から成り立つ世界において、人間という文明が生み出してしまった異物だ。
赤子の天使が突っ込んできた茜に向けて矢をつがえるが、既に遅い。引き絞られた弦もまとめて短弓を両断すると、反動を使って一回転しながら赤子の天使を袈裟斬りにする。
血は出ない。大きな裂傷から血液の代わりに真っ白な粘液を噴き出し、赤子の天使は三途の川の水面に落ちていく。
『もう一匹来たぜェ!』
「分かってるわよ!」
天使の亡骸が水しぶきを上げて川底に沈んでいく。促されて路地の入口を再び見やった茜は、似たような赤子の天使がもう一匹出てきたのを確認して双剣を連結させ両剣に戻した。
柄の長さは自由自在だ。一般的な長さの柄は連結されてあっという間に伸び、全長が身の丈以上となった両剣を上段で構え、槍投げで赤子の天使へ投げつける。真っ直ぐに飛んでいった両剣の切っ先は的確に赤子の天使の腹部を捉え、ビルの壁に衝突して貼り付けた。
『……近くにゃいねェな、どこ行きやがった』
「アレ、どうせ下っ端も下っ端でしょ? 逃げ帰ったとすると……どうにか処理したいところだけど」
後二匹いるはずだが、どうやら近辺にはいないようだ。指を鳴らして両剣を呼び戻し、手元に戻ってきた両剣の切っ先には赤子の天使が突き刺さったままだった。
「ひとまず今は安全よ、迷子の魂さん」
この場での戦闘は終わったと保護した魂に振り返ると、あっけにとられて口を半開きにしていた。この分では事態を飲み込めていないだろう。そもそもここがどこなのかすら分かっていないはずだ。
とりあえず、状況を分かってもらう必要はある。天使を倒し切っていない以上、しばらくの間面倒を見なければならない。
「……迷子?」
「そ。迷子。どこまで覚えてるか知らないけど、今までの事思い出してみなさい」
茜が促すと、迷子の魂は腕組をして俯いた。
「気づいたらもうその……あなたが倒してくれた赤ちゃんに追いかけられていて……」
「その前。身体、軽くない? 病院着だし入院してたんでしょ?」
「え──あれ、ほんとだ……痛くもないし、ぼんやりもしてない……そういえば!」
自身の状態にやっと気づいたようだ。身なりからして病死した魂だろうが、推察通りだろう。
「立ち上がれだってできなかったのに……って、いうことは……」
「ここは狭間っていう場所。分かりやすく言うと三途の川よ」
「……私、死んだんですね」
「そうなるわね」
三途の川、と言った茜の言葉に、迷子の魂はぼんやりと眼下を見た。立っているのは道路の代わりの川。そこは深く吸い込まれそうで、透明な水の上に波紋が重なっていた。
「死んだ人の魂って、普通はそのままこの下に潜って冥界にいっちゃうんだけど。たまーにあなたみたいに行き方をド忘れしたか、トラブルに巻き込まれて迷子になる人がいるのよ──ずっとあなたって呼ぶのも不便ね、名前は?」
簡単に説明してしまって、名前を問うた。
「
「オッケー、花崎さんね。あたしは柳楽茜よ。この場所の案内人兼治安維持係ってところ」
茜が自己紹介をすると、治安維持という言葉に引っかかったのか、恵子はじっと茜の片手を見やった。
「トラブルって……その子のことですか?」
「そ。これ、天使っていうんだけどね」
ゆさゆさと両剣の切っ先を揺さぶって、突き刺さっていたままの天使の亡骸を水面に落とす。僅かに身を縮めながら恵子が観察していると、川底が徐々に黒ずみ、底の無かった三途の川から何やら這い上がってくる。
「社会が言うほど、いい存在じゃないわ。カミサマも天使も、人間の敵よ」
川底から伸びてきた黒い物体は、細長い幾重もの手だった。水面に浮かんだ赤子の天使に群がると、我先にと手を伸ばして川底に引きずり込んでいく。小さな体はあっという間に黒い手に覆いつくされて、そのうち綺麗さっぱり消えてしまった。
「……どうなったんですか? あの赤ちゃん」
「地獄落ちよ」
「え⁉ この下、地獄なんですか⁉」
「入り口が一緒なだけで冥界とは別よ、あなたは地獄には行かないわ」
正しい魂は冥界行き。天使は地獄行き。この二つを狭間にて成すのが茜の仕事だ。
迷ってしまった恵子はこのまま
『連中、コソコソ隠れやがったぜ。こりゃー出てきそうにねェぞ?』
できれば危険に晒したくはないが、提案くらいはしてみるか。茜は思って、気を取り直す様に恵子に話しかけた。
「ところで花崎さん。今あなたを追ってた天使を二体地獄送りにした……でもあと二体か、それ以上はいるはずでね? あたしはそっちの対処もしなきゃいけなくて。ちょっとだけ、手伝ってくれる?」
もちろん絶対に守る。その上で手を貸してほしい。告げると、恵子はしばらく考えた後に答えた。
「大丈夫です──私もちょっと、整理をつける時間が欲しかったので」
交渉成立だ。少し心細い思いをさせるだろうが、我慢してもらわねばならない。
アキヒコの先導を頼りに狭間を進みながら、茜は恵子に天使の何たるかを粗方説明した。
耳障りは良いものの、実際は魂の輪廻を阻み切断する害悪でしかないこと。
人間の信仰心によって産まれた異物であること。
魂を収穫するために、現世において助かるはずだった魂を無理矢理肉体から引き剥がしてしまうこと。
つまるところ──命の循環と節理に反する存在であること。
「……なんで天使って言うんですか、そういうのを」
「元は宗教を発端にする存在よ。人間の救われたい助かりたいっていう集団的無意識がなんでか力と形を持ったもの。向こうも善意で動くんだから、まぁ信じてる人にとっては正しい存在なのよね」
実際そうじゃないんだけど。茜はぼやいて、アキヒコが指示した街中の公園へとたどり着く。側には住宅があるだけの、一般的な公園だ。天使が狭間への入り口を広げるためには、ある程度の広さと地面が必要になる。
出入りするとすれば、ここが一番可能性がある。そう思ってやってきたが、どうやら正解だったようだ。
「やっぱりね」
『当たりだったなァ。さっすがオレ』
「門が小さいからそこまで強いわけじゃなさそうだけど……」
公園の入り口で姿勢を低くしながら中を窺う。公園の真ん中には真っ白な球体が浮かんでいるが、あれが天使たちの扱う門だ。茜たちが天獄と呼ぶ魂の牢獄から狭間に直結する道を、どうしてか天使たちは生成できてしまう。理屈も分からないので見つけ次第潰すことしかできず、門の内部がどうなっているのかも分からない。
「……いない」
取り逃がした二体の赤子の天使の姿がない。まだ帰ってきていないのか、恵子ではなくほかの魂にめぼしを付けたか。
『雑魚はこっちに戻ってきてるみてェだが、親玉は中だ。どうにか出てきてくれねェもんか』
「他に迷子の魂はいない──かしら?」
『そっちも居ねェ。この嬢ちゃん以外は普通に川に潜ってらァ』
「あのー、もしかして、アレの前に出ろ……ってことですか?」
利便性のために恵子にもアキヒコの声が聞こえる様にしている。手を貸してくれ、との要請を思い出したのか、おずおずと恵子が言った。茜は顔を伏せながら恵子を見やって、小さく頷く。
天獄への門を閉じるには、門を生成・維持している首魁の天使を叩く必要がある。通常であれば外に出て人間の魂を物色しているはずだが、今回は門の内部に居座っているようだ。引きずり出さなければ仕事が終わらない。
「あっ……あの得体の知れないのの?」
「だって狙いは花崎さんなんだもの。で、あたしの仕事はアレを壊すこと──普段なら頼まなくてもいいんだけど、今回は多分、赤子の天使の練度上げのために来てるからボスが引っ込んでるって訳」
「怖いんですけど……! 絶対襲われますよね……⁉」
「大丈夫よ、出てきたのを見計らってあたしが殺す。指一本触れさせない」
おろおろと動揺する恵子を励ました茜が、静かに背中を擦った。
「もしも、柳楽さんが間に合わなかったら?」
「ない。間に合うわよ。あんな小さな門しか開けない天使に負ける気がしない」
『万が一でもあろうもんなら、そん時ャ茜が死に物狂いで助けに行くぜェ?』
だから大丈夫だ。恵子の不安を笑い飛ばしたアキヒコの声は、彼女には聞こえていない。しかしながら、しばらく口を半開きにしていた恵子が、意を決したように立ち上がった。
「分かりました。行きます」
「ごめんなさいね、ありがとう」
「行かないと……私もどこにも行けないんでしょう?」
「そうね」
彼女の言う通り、あの門を閉じない限りは彼女を冥界に送れない。恵子が一歩公園に歩みだしたのと同時に、茜も両剣を分割してから姿勢を低くして入り口から様子を伺う。
一歩、ゆっくりとした足取りで、また一歩。恵子が白い球体に近づくと、隠れていたらしい赤子の天使が二体、公園の上空から飛来する。
恵子の体がぶるりと震えた。まだかと言いたげに顔を僅かに入り口にいる茜に向けたが、まだ動けない。幸い赤子の天使は恵子に矢を向けることはせず、何か指示を待っているような素振りを見せている。
『門が動いた。来るぜェ』
アキヒコが短く言った。茜が目を細め、恵子が見上げると、天獄の門の表面が液体の様に揺らめいた。
開いた小さな穴から、真白い腕が這い出てくる。思わず後ずさった恵子の退路を阻むように赤子の天使が背後を塞いだ間に、門からずるりと首魁の天使が姿を見せた。
『イイ子ですねぇ、それほど信心深いわけではなさそうですが……』
これも人が想像する典型的な天使と同じく、白い布を纏った長髪の男だ。背中の羽は純白の二枚羽根。天使は羽の枚数である程度階級が判別できるから、成体の天使と言えども下級も下級、端役に過ぎない。それでいてカッコつけなのか、ろくに整えていない顎より下まで届く前髪が邪魔そうだ、清潔感がない。何気なしに思って、茜は腰を上げた。
『忌々しい川底に向かわず、自ら門までやってきたということは、素質がありそうだ』
言うと、天使が虚空から槍を出現させた。魂を天獄に連れていく方法は極めてシンプルだ。
恵子のような迷子の魂か、現世で死にかけている人間から魂を剥ぎ取り、力尽くで門に押し込む。たったこれだけ。既に死人で死ぬことはないので、少々乱暴なことをしたってかまわない。
どうせ槍で串刺しにして持って帰るつもりだろう。そうはさせるか。首魁の天使がまんまと外に出たのなら、天獄への門は防備もなにもない丸腰だ。破壊してしまえば、連中も天獄に戻れなくなる。
「素質だかなんだか知らないですけど、私、ついていくつもりはないです!」
『おやぁ、せっかくの救済を無下にするのですか? 良い所ですよ天国は。苦痛も絶望も、争いも病も何もない! こんな幸福な場所がどこにあると?』
「聞きました、着いていっちゃいけないって!」
恵子が言い放つと、二枚羽根の天使は遠目からでも分かるように顔を歪めた。槍ではなく片手を振り上げて合図を出したらしい、恵子の背後に浮かんだ赤子の天使が短弓に矢をつがえたところで、茜は公園に飛び込み渾身の力でもって両剣を投擲した。
『ヒィヤッホォー! 天使サマの玄関に突撃ってなァー!』
アキヒコがすこぶる楽しそうに笑う。真っ直ぐに公園のど真ん中を突っ切った両剣は、天獄の門に開いたままだった穴に深々と突き刺さる。衝撃で液体の様に揺らめいていた表面が硬く硬直し、両剣を突き立てた穴からヒビが入る。
「アキヒコ、やっちゃって!」
『あいよォ、まかせなァッ!』
突然の乱入者に、天使三体は茜に釘付けになっていた。当然天獄の門からは視線が外れている。
門を壊すのはアキヒコ
茜がアキヒコに指示を出すと、両剣が揺らめいて門の内部に吸い込まれ、しばらく経った後にヒビが球体全体に回っていく。恵子を衝撃から庇うと同時に、門が内側から爆発を起こした。巻き上げられた破片がパラパラと降り落ち、視界が若干見えにくいが、天使が爆風に煽られて転倒したことまでは理解した。
アキヒコめ、門の破壊など久しく行う機会がなかったからって張り切り過ぎだ。護る魂もいるというのに。
気を取り直してフィンガースナップでアキヒコを呼び寄せる。一瞬で両剣に戻ったアキヒコの体は柄になって右手にすっぽりと収まった。
「花崎さん、外に逃げてて」
「はい!」
公園の外を示してしゃがんでいた恵子を促すと、フェンスにぶつかった赤子の天使がよろよろと立ち上がる。迎撃させまいと茜は両剣の柄を切り離し、二本の剣を投げつけた。
剣の投擲は得意な方だ。寸分違わず赤子の天使の腹部を突き穿ち、双剣を両手に呼び戻してから亡骸を二枚羽根の天使に投げつける。
「どうも、こんにちはクソ天使。現世から刑務官がアンタらを地獄に落としに来たわ」
ごろごろと赤子の天使の亡骸ともみくちゃになりながら公園に転げ落ちた天使に、茜が宣言した。
天使に地獄行きという極刑を送ることから、誰が名付けたか刑務官。狭間の治安維持が職務であるものの、現世においては特殊刑務官という肩書で通っている。
『っア、ああ──ッ! 私の美しい翼が汚れてしまったではないですかッ!』
「いいじゃない、これからもっと汚れるんだし……存分に穢してあげるわよ」
無様に地を這った翼をはためかせ、天使が赤子の亡骸を雑に吹き飛ばしながら起き上がる。応じて茜も双剣を連結させ、タイミングを計って地を蹴った。
振り下ろした両剣の切っ先が、天使の槍をぶつかり合う。浮いているため天使の方が形勢が良く見えるが、茜は槍の穂先を刃で滑らせて力をいなす。身体ギリギリを通り過ぎた槍はそのまま地面に突き刺さり、接近してきた天使の顔が間近に迫る。
自慢の槍を簡単に殺がれたのが予想外だったのか。長い前髪から覗く金眼がわなわなと震えていた。
「その前髪、邪魔じゃない?」
斬ってあげるわ。天使の槍を蹴り飛ばし、体勢を崩して両剣を振るう。刃は天使の額を一文字に斬り裂き、パサついた長い髪を両断した。落ちてくる髪が体につかないようにバックステップで避けてから、両剣を回転させて更に連撃を加える。両端についた刃が踊るように天使の体を斬り、布地はぼろきれも同然、体の方は半裸と言って差し支えないありさまだ。
ざまぁない。常に上から目線の忌々しい天使をこうしてボコボコに叩きのめすのが、茜にとっては楽しくて仕方がない。
本当に、楽しくて、愉しくて。嗤ってしまいそうなほど、その信仰に縋る姿勢を叩き潰したくなる。
救われたいって信じた結果が地獄行きなんて、残念ね、と。心の底から哀れに思う。
「……アキヒコ、そろそろいいでしょ」
『そーだなァ、ま、十分かァ』
茜に切り刻まれた天使は、骨だけで繋がった体から白濁を漏らし続けていた。アキヒコに呼びかけて両剣を地面に突き立てると、砂の地面が揺らめき溶けて、あっという間に路面と同じ水面に変わっていく。茜の視界の端では胴体に穴の開いた赤子の天使が水底に沈んでいくところだった。
「アンタの救済はここで終わり。大人しく地獄でその性根叩き直してもらいなさい」
『何をッ──! 我々は救い、救われ、生の罪を許されたから天国に召し上げられたのですよ⁉ 唯一絶対の主を認めない人間よりもッ! どうして私のような敬虔な存在が地獄に落ちるのです⁉』
「そういうところよ」
茜が伏し目で天使を眺め続けている。血に這いつくばった二枚羽根の天使は、ゆっくりと川底からせり上がる数多の手に身体を絡めとられていく。しぶとく水面にしがみつくものの、地獄の手の引き込む力は強く、じわじわと三途の川に沈んでいた。
『ッぁあ、主よ、お助けください、主よ! 貴方の教えを守り広めたこの私を、お救い、下さい……!』
じっと、断末魔に近しい叫びを茜は聞いていた。ここは狭間で、天獄ではない。どれだけカミサマに向かって祈ろうが届くことなんてないのに、それでも願わずにはいられないのだろう。
そうすれば救われると、自分は救われたのだと本当に信じているから。いっそ盲目的で吐き気がする。
「カミサマなんて、祈っても助けてくれないわよ」
早く楽になったら?
無様な命乞いを見ているのに嫌気がさして、茜は両剣を引き抜くと、天使の額に投げつけた。
顔を上げた天使の額に凶刃が突き刺さる。刺さった勢いのまま水面に崩れ落ちた天使を地獄の手が引きずり込み、しばらく経つと立ち続けていた波紋が消えた。
ぽつりぽつりと湧いていた泡もそのうちなくなって、
水面に突き刺さった両剣を引き抜いて、慣れた手つきでバトンの様に弄びながら肩に担ぐ。まだ恵子が公園の外から様子を伺っている気配がして、茜は公園から出た。
「お待たせ。ほら、大丈夫だったでしょ?」
緩く微笑んで、茜は三途の川の上で待っている恵子に言った。後は彼女を冥界の
「……すごかった、です」
『当ッたり前よォ! なんせこのオレが見込んだ女だからなァ!』
『調子乗ってんじゃないわよアキヒコ』
心の中で呟いて、茜は両剣の柄を小突いた。実際戦ったのは茜で、アキヒコは力を貸しただけだ。まるで自分が最初から最後までやりましたと言わんばかりの態度は少々癪に触る。
「さて、じゃあそろそろいいかしら。迎えを呼ぶわ」
恵子が僅かに肩を震わせた。見なかったフリをして茜が川面をブーツで小突くと、再び川底からぽつぽつと泡が湧いてくる。天使を地獄に引きずり込んだ時とは異なる、小さくて細かな泡だ。次第に何かの姿が見えてきて、水面から顔を出したのは大型のペンギンだった。
『どうも~お迎えに上がりました~』
嘴をパカパカ開けながら、現れたペンギンが恵子に言った。冥界への案内人と言うのだから人なのかと思っていたようで、恵子はきょとんとしながら頭を出しているペンギンを見つめている。こちらはきっちり体を持った
『あっ、ヒトじゃないんだぁとか思ってますね~? 私、人に転生するための勉強を冥界でしてるんですよ~、ちゃんとお連れするのでご心配なく~』
恵子が目をぱちくりしながら茜にアイコンタクトを寄越したので、返事にウインクを返してやる。
なにも冥界は人間の魂だけが行きつく場所ではない。ありとあらゆる生物の魂が還り、輪廻転生のために現世での穢れや汚れを掃う場所だ。生前の行いや罪などで次の生がどんな生物になるのかが決まり、動物の魂が飛び級して人間に転生することもある。
このペンギンはその類だ。生前、知性が他の同胞より高かったとか、そこら辺の理由だろう。
『ほらほら行きましょ~。大丈夫ですよ~、冥界はそんなに怖い所じゃないです~。私たちみ~んな優しいので~』
『そんじゃ任せたぜェ』
「あと、よろしくね」
『お任せくださ~い』
ペンギンの
「あの、助けてくれてありがとうございました!」
見送りもせずに立ち去るつもりの茜の背中に、恵子が呼びかける。
「仕事だもの、当然よ」
後ろ手に手を振ってその場を離れた茜は、手近なビルを探して両剣を投げた。両剣が発した引力に引っ張られるように空高く飛び上がると、高層ビルの屋上まで一気にたどり着く。
今の茜は魂だけ狭間に潜り込んでいる状態だ。少しでも現世に近い場所に行かなければ、帰還が安定しなくなる。現世から狭間への侵入先は地上が選ばれるが、逆の場合は魂が落ちてくる空に近いタワーか高層ビルなどの屋上だ。
「アキヒコ、帰り、任せたわよ」
『分かってらァ。目ェ閉じてな』
アキヒコに言われるまま目を閉じる。握った両剣が自然と天を差し、唐突な浮遊感と共に体が浮き上がる。
身体から切り離していた魂が、現世に引き戻されていく。いつになっても侵入と帰還は慣れないなと思いながら、ぷつりと茜の意識が途絶えた。
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