第2話 魂を差し出した
はだけるヨレヨレの囚人服の裾から、刃みたいな暴風が吹きすさぶ。着ても着ていなくてもこの気温じゃあ、致命的なのは変わらない。男は鉄の網に五指をかけ、一手一手、一歩一歩、上っていく。
「お前、そろそろこっちへ来いよ」
あのとき囚人の主が言ったことを、男は思い出していた。
「こっちの世界は楽しいことがいっぱいある。幸せで満ち溢れている。だからお前もこっちへ来い。変な気い張ってないでよ」
フェンスの網が、指に食い込む。まるでほとんど感覚はない。食い込んだ網が指を千切っていたって、男はきっと気づかない。
「なんでそんなつまらなさそうな顔してんだよ。笑おうぜ? こっちへ来い!」
差し伸ばされる手。凍てつく寒さの中、男は頭に思い浮かべたそれをひっぱたく。五指をかけ、フェンスを一手、上る。
その手を無様にも握ったアイツらは、立ち上がるために魂を差し出したのだ。
男は気づいていた。
もう誰も一生、ここから抜け出せない。誰も抜け出さないように誰かがこれを仕掛け、まんまとアイツらは、それに引っかかった。
ここは誰も知らない施設。極悪犯罪刑務所から、ある日いきなり連れてこられた施設。眠りから覚めると、国中の名だたる極悪囚がここに集まっていた。
今日の囚人たちは揃って笑う。
「ここはいい。まるで天国だ」と。
中には、千人以上人を殺した極悪囚もいる。今となっては、そいつはホットココアをすすりながら「ああ、いい朝だ」などと言う。そいつ以外にも、存在しないほうが絶対に世の中のためになる極悪囚は腐るほどいた。しかしそのうちの誰もがいまは、美味しそうにホットココアをすすりながら、「ここはいい」と心の底から施設への賛美を、微笑ましい表情で口にしている。
いいのか、それで。
男は、ゆっくり、ゆっくりとフェンスを上っていく。ついにもう、あと二手進めば、フェンスの頂上に届くところ。
いきなり天国みたいな施設に連れてこられたあの日、極悪囚たちは「帰らせろ!」とうるさかった。室温は快適。血も死体も異臭もない。ゴミ一つだって落ちていない。
こんな世界と、こんな世界で生きている人間どもを、彼らはこの世で一番気に食わないのだった。そういうやつらに思いのままケリを入れてきた連中が、そこにいる大多数だった。
しかしその日、施設に連れてこられて初めてのご飯時だ。用意されたのはごく普通の、しかしバランスの良い、温かい食事だった。
それでも大半は興味もなさそうに、目の前の食事に手を付けなかった。実際は、興味がなかったのではない。こんなもの食ってたまるかという、それは囚人たちのプライド、魂だった。
しかしそんな囚人たちの中で、我慢に耐えかねた数名が、貪るようにそれらを食べ始めた。中には涙して飯を掻きこむ者さえいた。
「うめぇうめぇ!」
「なんて救いだ!」
残された囚人たちはそれを見て、少々面食らった。ゴクリと生唾を飲み込む音が、そこかしこの喉から聞こえてきた。やがてお互いがお互いの目を合わせるようにして、「少しだけなら、まあいいか」とでも言うように、ゆっくりゆっくりと食べ物へ手を伸ばし始めた。
そのとき、アイツらは魂を売ったのだ。
本当にいいのか。それで。
男はなぜか、囚人の全員が人間らしい、輝かしい生活をしているはずなのに、それなのになぜか、彼らが死んでいるように見えるのだった。死人が、輝かしい生活をしているだけのように見えるのだった。
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