天国の囚人

イチ

第1話 お前らは死んだ

 鍵は合わない。もう上るしかない。

 男はそう思い、かじかんだ手でフェンスの網を上っていく。ここで脱走を試みようとした囚人は、未だこの男以外にいない。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 檻の中にいるのは男だけだ。

 囚人の主はわざわざ檻の前へとやって来て、男に言った。

「また看守さんを殴っただって?」

 この罰当たりめが、と囚人の主は言った。

「そうだぞ」

「何やってんだよ」

「何か喋れよ」

 次々に周りの囚人たちが喚く。男は何も答えない。

「まあいい」

 囚人の主はそう言って眉を上げ、男を見た。薄暗い檻の中で、男は壁にもたれていた。

「お前、そろそろこっちへ来いよ」

 鼻を掻きながら囚人の主は言った。片手にはホットココアの入ったマグカップが摘ままれていた。筋肉の養われたその肉体に対して、マグカップというのは似合っていなかった。

 周りにいる囚人たちもマグカップ片手に、「そうだ」「早く来いよ!」と続けざまに言った。

 早朝のことだった。囚人たちはあっちで温かいブレックファストを食べて来て、何かに満ち足りた顔をしていた。

 男は何も答えない。

「来ないのならまあいいが。それよりそれ、もらってもいいか?」

 囚人の主は、男の前に置かれているブレックファストを指さした。

「もったいねえ。俺が食べる」

 囚人の主は、健康的な肌つやで男に言った。檻の中の男は、皿の上に乗っているものへと目を遣った。顔はげっそりとしていた。腕や脚は箒のように細く、あごには無精ひげが生えていた。風呂にもずっと入っていない。

 男は、皿の上に乗ったものを数秒眺めた。そしてためらいなく、

 ベッ——

 それに向けて唾を吐き、まるで道端の犬にエサでもやるかのように、檻の前の囚人たちへ放り投げた。

「うわっ」

「汚いっ」

 唾のかけられたエサはちょうど、檻の柵を出ないところで囚人たちの前に落ちた。男の筋力も集中力も、本当は既にすり減っていた証拠だ。

「おいおい、もったいねえなあ」

 囚人の主は足元に落ちた汚いそれを見て、本当にもったいなさそうに、心穏やかに、そう言った。

「ちゃんと食わねえと。断食でお陀仏なんてお釈迦様も泣くぜ」

 周りの囚人は、主のその一言でどっと笑った。

「うまいこと言いますね」

「さすがっ!」

 周りの囚人たちは手を叩いて口々に言った。

 幸せに包まれている囚人たちだった。楽しい人生を送ることは素晴らしいことだと心の底から認めている囚人たちだった。

 そんなガヤガヤとうるさい檻の外に対して、男の居るのは、薄暗く、沈鬱な檻の中。囚人たちが居るあっちは楽しそうな空間で、男が居るこっちは静かで空虚な空間。いまとなっては、檻の中にはこの男一人しかいない。皆改心して、檻の中を抜けて行ったのだ。

 男はそんな静かな檻の中で、しかしその場の誰よりも強く、鋭く、眼を光らせていた。

「お前らは死んだ。俺は死なない。それだけだ」

 男はそう言った。「へ?」と名前も知らない囚人の誰かがそのセリフに反応したが、始めからそれほど興味もなかったかのように、すぐに楽しそうな空間に戻って行った。

 男は静かに、数歩先に落ちているブレックファストを眺めていた。

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