第12話

ザリッ、と靴底が砂利を踏む。 

夜も更けて日付も変わろうかという頃、山奥の廃寺を一人の青年が訪れていた。古い映画から抜け出たような書生スタイルの長身の青年、あやくらしずは日本人形を大事そうに抱えて長い階段を上っていた。街灯も全く無い夜の山。梅雨空の雲が星の光さえも遮り、一寸先も見通せない。霧雨がとけた空気がじっとりと服に染み込む。辺りは植物と土のにおいが濃く、夜行性の鳥の囀りが何処からともなく甲高く聞こえてくる。

湿った風が木々を揺らして吹き抜けた。あやくらは人形が濡れぬよう和傘を傾け、歩を進める。

鳥がまた、けたたましく鳴いた。悲鳴じみたそれは鳥獣のものが、否か。判ずるも困難な闇の中にあっても昼間と同じように物が見えるあやくらの手には傘と人形以外、灯りとなるような懐中電灯や提灯などは持っていなかった。

この廃寺は一般的な知名度こそ低いが廃墟探索やオカルト愛好家界隈で穴場スポットとされていた。このような場所は攻略難易度が高い程箔が付く。バスも廃線となって久しく、地元のタクシーも辛うじて送り届けてくれるが、帰りは予約や乗車を拒否されるという。交通の便の悪さも相まって実際に現地入りする者は少ない。

しかし、手垢のついていない穴場ではあるので動画投稿目的の来訪者はじわじわと増えていた。

山門を潜るとすぐに池があり、中央に架けられた石づくりの円弧橋を渡らねば先に進めぬようになっていた。水面は浮葉で覆われており、水深が分かりにくい。開花を控えた幾つかの花芽が立ち上がっていた。時折こぽり……こぽり……と水中から気泡が浮かび波紋を作っているので何らかの生き物は棲息しているらしい。

橋を渡ると左に層塔があり、塔と対になるように本堂が配置されていた。塔の更に左奥には滝へと続く道が伸びている。本堂の向こうには鐘楼があるのが見えた。至る所に雑草が蔓延り、苔むしている。荒れ寺という表現がぴったりの雰囲気だった。

「おや。落とし物ですか」

草の合間に壊れたハンディカメラを見つける。野生動物に囓られたのか、無数の歯型がついていた。

境内はハンディカメラの他にも自撮り棒や懐中電灯、スマートフォン等が散乱していた。マナーの悪い人間が捨てたにしてはどれも真新しく、こういう場に放置されていそうな菓子箱や飲み物のパック等の食品類は全く見当たらない。


ゴォーーーン


突如として腹の底を震わせるような重い鐘の音が山中に反響する。

境内は無人の筈だった。

音の発生源である鐘楼は梵鐘が吊られているのみ。打ち鳴らせるほどの風も吹いてはいなかった。


ゴォーーーン


再び鐘の音が響く。空耳の可能性は潰えた。

いつの間にか鐘楼を支える柱の一本に身体を巻き付けて逆さにぶら下がったものがいた。

ボロボロの袈裟を痩せさらばえた躰に引っ掛け、眼窩から溢れんばかりに突出した目玉がふたつ、ギョロギョロと忙しく動いている。人型であるが、人間では有り得ぬ様相の怪。

木乃伊のように筋張った腕で橦木を操る姿にあやくらはある妖怪の名を呼んだ。

「野寺坊ですか」

廃寺に出るという妖怪。

鳥山石燕の画図百鬼夜行に登場しているものの詳細については記載されていない。

野寺坊は逆さまのままニタニタと笑っている。

「きた、きた、きた、きた」

乱杭歯を歪めて繰り返す。

「とむら、う、弔お、う」

ーー弔う?


廃寺に棲む怪異、野寺坊は新たな獲物に舌舐めずりをしていた。地元の人間は寄り付かず、長らく放置されているこの場所で朽ちるばかりと思っていたが、近頃は訪れる人間が増えていた。初めこそ討伐に赴いた修験者かと息を潜め遠巻きにやり過ごしていたが、彼ら彼女らは小さな光る物を手に寺の中をうろうろするばかりで一向にこちらに気づく様子も無い。入れ代わり立ち代わりやって来る人間達の会話に耳をそばだててみれば意味不明な単語が多かったが術者の類いでないのは明らかだった。

怖い怖いと口にしていても顔に恐れは無く、面白半分に鐘をつく者もいた。始終を息がかかる程近くで見ていても全く気がついていない。

しめた、と思った。

試しにその人間を持ち上げて橦木がわりに頭から梵鐘に打ちつけてみた。

「ぐゥぶぎゅ」


ゴォーーーン


なかなか良い音で鳴らせた。

気分を良くした野寺坊は二度、三度と撞座に生きた橦木を打ちつける。その度に「ぐゥぎ」「ぷギゅぃ」と橦木が鳴いて痙攣する。

すっかり満足した頃には撞座に彫られた花が柘榴を弾けさせたように鮮やかに染まっていた。ポタポタと石張りに滴るさまは絵筆が豪快に踊った後のようで実に風情がある。

これはとても良い橦木だが、吊るしていては腐れて使い物にならない。

野寺坊は橦木を引き摺って本堂へと向かう。今は昔、本尊が安置されていた須弥壇。別の場所に移されたのか、はたまた盗難にあったのか。本尊があるべき場所は空になっている。

その仏の領域に肉で形作られ血が詰まった橦木を据えた。

途端に内陣と言わず外陣と言わず本堂内の至る所からキーキー、キュッキュッと声がする。声は鼠算式に増えてゆき、堂内に木霊する。

やがて一匹の鼠が須弥壇に駆け寄り一際高く鳴いて齧りつく。それが契機となり四方八方から鼠の大群が押し寄せ群がりひしめいて須弥壇を覆う。湿った咀嚼音が聞こえてくると、野寺坊はニタニタと笑いながら聞きかじりの経を読む。嗄れた不吉な読経は咀嚼音が止むまで続けられた。

鼠の群れが散った後には肉と臓物と血が全て舐め取られた骨だけが残されていた。支えを失った骨は須弥壇から転がり落ち、バラバラになった。

鐘をつき、弔い、仏をつくる。

なんと楽しいことか。

訪れるのが余所者ばかりというのも野寺坊に味方した。集落からごっそりと人が消えれば大事になるが、各地から一人二人消息不明になっただけですぐに捜査の手が廃寺に行き着く筈もなかった。尤も、野寺坊のような妖怪に人間の法が適用されるかは与り知るところではない。

そして、今夜もまたひとり、橦木となり仏となる人間がやって来たのだった。

昨今とんと見掛けなくなった服装の長身の男。他の人間は皆、灯りを携えていたがその代わりに童が抱えていそうな人形を腕におさめている。人形からはなにやらゾクリとする気配が洩れ出ているが、人の手に抱かれている時点で大した事は無いだろうと野寺坊は思った。動かぬ置き物よりも興味をそそられるのはやはり人間のほう。

「野寺坊ですか」

少し脅かしてやろうと鐘をついたが、予想外に落ち着いた反応だった。こちらを見据えて名を呼ぶ声にも震えは全く感じられない。

いつもは鐘の音だけで震え上がり、青褪める人間の姿を見るのが楽しみのひとつになっていたので肩透かしを喰らった気分になる。

もしや、逃げられると高を括っているのだろうか。青年は橋を渡ったばかりの所にいる。鐘楼との距離よりも背にする山門のほうがはるかに近い。回れ右をして走ればすぐに石段を下っていけるだろう。

だが、そうは問屋が卸さない。

野寺坊は低く念仏を唱える。すると池の水面がふつふつと隆起し、水底に棲まうものが濁った水や水草と共に持ち上がり、姿をあらわにした。

錦鯉のような魚。品評会に準じた五センチ刻みの単位で表すならば九十部超は下らない。錦鯉のような姿を模していながらも艶やかな模様や優美さには程遠い泥色の鱗がてらてらとしていた。藻と水草を纏った怪魚は二桁以上の数。共喰いでもしたのか、片目のもの、鰭がびらびらに千切れているもの、肉が削がれて骨が見えているものもいる。怪魚の歯は一様に鋭く大きく、小動物程度なら簡単に噛み砕けるであろう獰猛さを有していた。

円弧橋は水に隠れて渡れない。怪魚は空腹なのか、明らかに青年を狙っていた。

「おっと」

怪魚の突進を紙一重で躱す。水中どころか空中を遊泳する魚はまるで現実味が無い。それでも水が腐ったにおいと激しい動きによって剥がれ落ちる鱗は紛うことなく本物だった。

早いもの勝ちとばかりに次々襲い掛かる怪魚の攻撃を躱す青年。自分よりも人形を気にしているようで、和傘も閉じずに水飛沫や泥が汚さぬように庇っている。一歩間違えれば鋭い歯の餌食になるというのにひとえに人形を守る過保護さは異様ですらあった。

だが、猛攻に次ぐ猛攻。いつかは体力も尽きよう。僅かにでも動きが鈍れば怪魚に利があった。野寺坊は自身が念仏で起こしたとは言え、折角の獲物が横取りされるかもしれないという状況が少しおもしろくなかった。けれどものたうち回り、徐々に喰い破られて打ち上げられた魚のように跳ねる人間の姿を眺めるのもおもしろくて好きだったので手は出さずに見ていた。

いよいよ怪魚から逃げ回る最長記録を更新した青年。三方向から同時に突撃してくる魚を危なげなく躱す。しかし旋回し再度首を狙って来た一匹を回し蹴りして数メートル飛ばした時だった。

「あ」

しまった、という思いが滲み出た声。あまりに勢い良く蹴り飛ばしたので人形をほんの僅かに汚したらしい。

「すみませーー」

青年が言い終える前に人形の気配が膨れ上がった。青年が弾き飛ばされ、和傘が地面に転がる。人形の小さな足は泥を踏むこと無く空中で静止している。

人形は怒っていた。

背筋を凍らせる憤怒の矛先は境内を浮遊する怪魚達に向けられる。ぬばたまの髪が一瞬で滝のように伸び、一匹残らず絞め上げる。それだけでは飽き足らず捉えた魚を地面に叩きつける。地面を抉る力で執拗に、原型を留めなくなるまで何度も何度も打つ。反撃や懇願の暇すら与えぬ絶対的な暴力だった。

「あ痛たた……」

ゆっくり身を起こす青年。気絶していないのが不思議なくらいだ。

野寺坊は焦った。

人形を見誤っていた。

取るに足りない置き物などととんでもない思い違いをしていた。今は怪魚の処刑に専心しているが、それだけで終えてくれるだろうか。

次は、自分だ。

心胆寒からしめる予想に慄く。どうにかして逃げなければと突破口を探す野寺坊に天啓が降りた。

あの人間は使えないだろうか。

同伴していたのだからそれなりに親しい間柄だろう。人間のほうに危険が迫ればそちらに気を逸らせる筈だ。橦木として鐘がつけないのは勿体無いが背に腹は代えられない。

人形に弾き飛ばされた青年は本堂の近く。好機と見て野寺坊はまたも経を唱える。

本堂の扉を内側から押し破って鼠の大群が流れ出た。

「うわっ!?」

逃げる間も無く意思を持った鼠の津波に呑み込まれる青年。

キーキー、キュッキュッ……。

境内に鼠の小山が蠢く。

キーキー……キッ、キキ……。

おかしい。

目論見外れて人形は鼠に襲われている人間に一瞥もくれぬまま怪魚を甚振っている。助ける程の価値を持っていなかったのか?

それにしても青年のほうも驚きの声を上げただけで悲鳴も聞こえない。生きながら鼠に囓られる苦痛を受けて沈黙を保てるものだろうか。

この時点で全て知ったことかと放置して全力で逃げれば野寺坊が生き長らえる可能性はあった。

しかし、鐘楼から下りて本堂前の鼠の山に近づいてしまった時点で完全に命運は尽きた。

蠢く鼠の嵩は減っていない。中はどうなっているかと数匹の鼠を踏み潰して覗こうとしたところで小山から伸びてきた手が野寺坊の顔を掴む。

「ギャッ!」

叫び声を上げた。

指が眼球を貫き眼窩を掻き混ぜ、凄まじい握力で顔の皮ごと剥ぎ取る。ベリベリみちみちと嫌な音が自分の顔面から発せられる。驚愕、戦慄、激痛が滅茶苦茶に暴れ廻る。

「困りますね、まったく」

そんな風にぼやきながら青年ーーあやくらは鼠を払いながら立ち上がった。

「僕、鼠は嫌いなんですよ。良い思い出が無くて」

べしゃっ、と剥いだ皮を地面に捨てる。水滴を飛ばすように二、三回手を振り、言った。

「どれくらいの面の皮の厚さだろうと思っていましたが、案外薄かったですね」

穏やかに口の端を上げる。

「あ、あひゃ、ひゅ」

悶える野寺坊。

「人間を殺すなとは言いませんけどね。人間基準の善悪の外にいるのがあなた方ですし。好き勝手やるのも構いません。かわりにこちらも好きにさせてもらうだけですからね。僕達、あなた方を討伐するつもりとかさらさら無かったんですよ?」

穏やかにあやくらは言う。

「でもね」

ゆっくりと野寺坊に近寄り、優しく頭に手を載せる。

「ひゃっ、ひゃふへ」

恐怖と激痛で呂律が回らぬ妖怪に微笑みかける。


ぐしゃっ。


優しい手つきのまま妖怪の頭を握り潰す。

「売られた喧嘩なら、買わなければ失礼ですよね」

















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