第10話

明るい髪をシニョンに結い、円縁眼鏡をかけた女性。羽織っていた薄手のカーディガンを脱いで腕に掛けている。派手目の化粧をナチュラルに直しているので印象が全く異なる。

それでもたきがコーヒーショップで見た女性と同一人物であると判別できたのは、彼女の周囲に憑いている無数の影のお陰だった。霧や雲のように常に形を変えて女性に纏わりついている。目、鼻、口と複数の人間の顔のようなものが表面にボコボコと浮かんでは他と混ざり崩れていく。

ーーあんなもん背負ってりゃ見間違えないよな。

クローゼットのスリットは細く、全体像までは見えないが、影が女性に執着して憑いているのは瞭然だった。

ーーしかし、あの女性とむかえ君はどういう関係なのだろうか。

むかえが通う大学には在籍・在職していない人物だ。

「ごめんなさい。どうしても早く会いたくって。もしかしてお邪魔だったかな、彼女さんとか?」

謝罪する気のない態度でカマをかける女性にむかえは「とんでもない」と慌てて否定する。

「かかか彼女とか居ないから!そそそんな女性を招くような部屋じゃないし!」

ーー僕は居るけどな。

クローゼットの中に。

むかえは嘘は言っていない。そしてむかえの狼狽ぶりでたきは得心がいった。

成程。意中の女性との関係性を発展させる上で自身の部屋に発生する怪奇現象が障害と成り得るかを危惧していたらしい。どれだけ害は無くとも相手が気味悪がれば差し支える。だから今回相談するに至ったのだろう。

ーーしかし、あの手の女性はむかえ君のような子はカモとしか認識しない気がするが。

他人事ながら大丈夫かな、などと心配する。

「この間の話、考えてくれた?」

「セミナーの件?」

「そう。色々な人の話が聞けて勉強になるし、私達みたいな学生のことをよく考えてくれているから好条件のバイトなんかも紹介してくれるのよ」

ーーうん、大丈夫じゃないみたいだ。

この女性の得意料理は鴨鍋だろう。さらに女性に憑いている影がモヤを延ばしてむかえを覗き込んでいる。口のような部分がパクパクと動いているので必死に何かを訴えようとしているようだ。残念ながらむかえには見えていないようだったが。

「ね?試しに私と一緒に参加してみましょうよ。きっと歓迎してくれるから。その後二人でご飯でも行きましょう?あ、気になる映画があるって教えてくれてたわよね?」

ーー随分と手馴れてるな。

これは押し切られるか?と思っているとクローゼットの暗闇に犬の気配が現れ、低く敵愾心剥き出しの唸り声を上げる。


ヴヴゥーーーーーー……。


目を凝らしてもやはり姿は見えない。しかし獣の気配が濃く漂ってくる。敵意の矛先はあの女性に向かっているようだった。

今にも喉元に飛び掛かり喰い破りそうなほどに殺気立つ獣と狭いクローゼット内で一緒なのは居心地の良いものではない。

ーーそういえば僕の靴にあの女性は気づかなかったのだろうか。

ふと、疑問が浮かんだ。


カタン、と。


玄関に揃えていたたきの革靴が前触れもなくクローゼットの中に出現した。

「ねえ、何の音?」

聞き咎めた女性がむかえに訊く。

「つっかえ棒がズレたのかな」

誤魔化そうとするむかえ。声が上擦っているのを除けば完璧なアドリブだった。

「さっきから犬の唸り声も聞こえるし……。もしかしてこっそりペット飼ってる?」

「唸り声って?そんなの聞こえるかな?」

これは本気で分からないようだ。

「ずっと聞こえるよ?ね、ね、私誰にも言わないからちょっとわんちゃん見せて?」

「いや本当にうちで飼ってないから……駄目、駄目だってクローゼットには何も無いから!」

「何も無いなら見られても構わないでしょ?」

何とか阻止しようとするむかえを無視してクローゼットに歩み寄る女性。

ーーマズイな。開けられたら……。

唸り声はますます獰猛さを増している。クローゼットの扉が開けられると同時に獣が牙を剥く未来が見えるようだった。女性の周りの影ごと食い千切りかねない。

ーー仕方が無い!

クローゼットの扉に女性の手が掛かった瞬間、たきは勢いよく部屋に躍り出た。

「きゃっ!?」

驚いて尻餅をつく女性。たきは流れるような動作で懐から名刺を取り出す。

「ご挨拶が遅くなり失礼致しました。私は百目どうめ保険リサーチから参りました、調査員のたきと申します」

営業スマイルとともに名刺を差し出す。しかし女性は名刺に目もくれずたきを指差してむかえに叫ぶ。

むかえ君!誰よこの男!?」

はらさん、こちらは百目どうめ保険リサーチの調査員のたきさんだよ」

「だからどうしてそんな人がここに居るわけ?しかもクローゼットの中に隠れて盗み聞きしてたってことでしょう!?」

「盗み聞きなど人聞きが悪い。私は偶然クローゼットの中に居ただけです。あなたこそむかえさんとはどのようなご関係でしょうか?」

「お、同じ大学の学生よ」

「お名前を頂戴しても宜しいですか?」

はら……はらよ」

「それはおかしいですね。院生含む学生数10459人の中にあなたのお名前はありませんでした。しかし、時間が限られていたもので過去三年の在籍記録しか確認できていません。当方の調査不足かもしれませんので何期生か教えていただければすぐにーー」

たきに最後まで言わせることなくはらは立ち上がり憎々しげに睨むとむかえに一言も無く足音高く帰って行った。乱暴に玄関ドアが閉められる。

嵐が通り過ぎたような静寂が残される。あれだけ殺気に溢れていた獣の唸り声も消えている。

結局受け取られなかった名刺を再度懐に仕舞ったたきは「今のは?」とむかえの方を向く。

「同じ大学の学生……だと今の今まで思っていましたけど、違うんですね」

「少なくとも現時点での在籍者ではありませんね」

断言する。

「そんなことまで調べられるんですね」

「記録に残されている事柄ならアクセスする手段はありますから」

逆に言えば記録されていなければ調査難易度は高くなる。調査員の手腕は記録外の正確な情報を如何にして収集・精査できるかにかかっている。

「じゃあ、彼女は誰だったんだろう……?」

狐につままれたようなむかえは先程の女性と知り合った経緯を話し始めた。

はらさんとは今年の新歓シーズンに知り合いました。構内で何か探し物をしていたようだったので声をかけて。見ない顔でしたけど新入生かな、と思いましたし、キャンパスは広いので他学部生なんか知らない顔ばかりですからね。

探し物を手伝うついでに色々話して。まあ、初対面ですしそれほど深い話はしませんでしたけどね。一人暮らしだとか、家族構成とか、その程度ですよ。女性にあれこれ訊くのもどうかと思ったので専らおれが喋ってましたね。彼女は相槌とか間の取り方というか、聞き上手だったんで」

「それで、探し物は見つかったんですか?」

「はい。それが学生証だったんですよ。そう、だからはらさんが同じ大学の学生だって疑いもしなかったんです」

「ICカード学生証でも偽造可能ですからね。人の目を一瞬騙す程度ならいくらでも用意できるでしょう。ほら、職業が異なる名刺を複数使い分ける人も居るじゃないですか。その延長線ですよ」

「居るじゃないですか、と言われても……」

なかなかピンと来ていない様子。

「まあ、先程の女性に関しては一旦置いておきましょう。邪推になりますが目的は明らかでしたし。ご相談のむかえさんの家の物が頻繁に消失する件について優先させていただきます」

「わ、分かりました」

やや強引に話を軌道に戻す。

「まず結論から申し上げますと、物を隠していた犯人の正体はたきさんのご実家で飼われていたチワワでしょう」













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