第4話

耳馴れぬ音を拾ってたきは目が覚めた。

天井の木目が視界に映る。手探りでスマホを探し、画面の電源を入れる。液晶パネルに表示された時刻を見て「まだ夜中じゃないか」と呟く。

「……何の音だ?」

半端な時間に起こされた原因。

ズ……ズズ…………ズズズッ……。

何かを引きずるような音が聞こえる。耳をよく澄ませてみると音は下からのようだ。ここは二階の和室なので、真下は台所にあたる。

もしや空き家と勘違いしたこそ泥でも侵入してきたかと心の中の警戒レベルを引き上げる。もう一度畳に耳をつけてよくよく階下の音を探る。

「足音じゃないな。動物でも入り込んだか?」

さてはイタチかハクビシンか。寝床の内見に来たのかもしれない。何にせよ放置しておくわけにはいかないので立ち上がる。用心のため手頃な棒でもあれば良かったのだが、荷物は概ね処分している。まさか箪笥一棹片手に階段は下りられない。万が一の際はスマホを投擲するしかないかと覚悟して襖を開ける。和室の前は廊下があり、右手奥に階段。廊下の壁には各部屋の扉横に電灯のスイッチがある。

「やけに冷えるな……」

襖一枚隔てただけの廊下は冷気が充ちていた。冷たく湿った空気には土のにおいが混じっている。服の布地越しに肌を粟立たせる冷たさは五月の夜のものとは思えない。そもそもつい先程まで寝袋も使わずに畳の上で眠っていたのだ。勿論和室に暖房器具は置いていなかった。この温度差は明らかにおかしい。

そろりと手だけを伸ばして電灯のスイッチをカチリと押す。

「ん?あれ?電球が切れたか」

繰り返し押しても照明が点かない。

接触不良だろうか。なんとも間が悪い。

スマホのライトを頼りに和室から一歩廊下に踏み出す。ギシリと軋む床板。素足なのを後悔するほどに冷え切っている。

ほんの数歩の距離がやけに長く感じるのは無意識に歩幅が狭まっているからか。呼吸の度に湿った土のにおいが鼻腔を通って肺に流れる。周囲の暗闇と相まって土中のトンネルを行軍しているような錯覚に陥る。

「こっちもか?」

階段の電気も点かない。寝ている間にブレーカーが落ちてしまったのか?それとも偶然電球の寿命が同時に訪れたのか。

階段の上から照らす。スマホのライトが届かぬ範囲は黒く深い穴がぽっかりと穿たれているかのよう。或いは曇り夜のたどきもしらぬ……というような。山越えなどの大層なものではないが、それほどまでに粘度の高い暗闇だった。

正直、下りたくない。

しかし、部屋に戻って寝直せるかというと無理な話である。引きずるような、這っているような音は階下から継続して聞こえている。

確かめなければ一つ屋根の下で謎の音と朝まで過ごす羽目になる。人であろうと獣であろうと良い気分はしない。

意を決して階段を踏み外さないよう注意を払いながら一段一段下りていく。

ギシ、ギシ……。

ズズ……ズズズ…………。

踏み板は氷のよう。足の指はすっかりかじかんで痛いくらいだった。怪音は一歩毎に大きくなる。

ズ……ズズ……ズズズズズズ…………。

「ん?」

かね折れ階段の踊り場にライトを向けた刹那、何かがスッと退いたように見えた。須臾の真偽定かならぬと目を擦る。

スマホのライトは前方に向けている。この場で光源はこれ一つなのでたき自身の影とは考え難い。

「やっぱり動物か……?」

光に驚いて咄嗟に逃げたのだろうか。

階段を下りきって違和感を覚える。

非常に暗い。

ライトで照らしているにもかかわらず、床も、壁も、縁側の硝子戸ですら木目も色も輪郭すら分からぬほど。墨を塗りつけたように黒くて暗い。

そして、何かを引きずるような音が床と言わず天井と言わずそこかしこから聞こえている。

ズズ……ズズズ…………ズ…………ズズズズズ。

「なっ……」

言葉を失う。

人でも獣でもない。

この世のものですらない何かが家中で蠢いている。

呆気にとられていると何かに足首を掴まれた。

「うわっ!?」

反射的に振り払う。スマホが手から滑り落ち、ゴトンと音を立てる。ライト部分が接地して明かりが無くなる。バランスを崩してたたらを踏み、肩が縁側の硝子戸に当たる。

「ぐぅっ……!」

ぶつけた痛みに呻いたのではない。

どこからか伸びてきた何組もの五指が首に巻き付き気道を圧迫したことにより、喉から空気が漏れたのだ。

ギリギリと締め上げられる。引き剥がそうと首に手をかけても自らの首の皮膚を引っ掻くばかり。

ーーこのままでは縊られる!

かろうじて自由な両足で背中の硝子戸を蹴り破る。意表を突かれたのか、指の拘束が緩んだ隙をついて身を大きく捩り、裸足も構わず外に転がり出た。

「ッ……カハッ、ゲホ、ゲホ……」

激しく咳込む。息を整える余裕も無い。すぐに起き上がり、脱兎の如く逃げる。

ちらりと肩越しに視線を向ける。割れた硝子戸から人型の影が群れを成してぞろぞろと這い出ていた。軍隊蟻のような大群が、蜘蛛の子のような動きで追ってくる。

住宅街の方向か、坂の上か。

どちらに逃げるか逡巡し、結論が言語化される前にたきは斜面を駆け上がっていた。

一瞬でも足を止めれば追いつかれる。

酸欠でガンガンと痛む頭を無視してひたすらに走る。

視界の先に門が見えた。

ーー開いてる!

更にギアを上げて力を振り絞り、全速力で門をくぐり抜けた。同時に門扉が勢い良く閉まり、一拍遅れて門を叩く夥しい数の音が空気を震わせた。

膝から力が抜けてその場に崩折れたたきは目を見開いて荒い呼吸を繰り返す。

「な、何なんだ……」

自分を追いかけてきたあれは……。

愕然として座り込んでいるたきに答える者が居た。


「あれは、かげむしと呼ばれるものです」





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