そして私はうつ病になった

新しい施設の管理者になり、半年が経とうとした頃の悪夢を、今でも覚えている。一人のご入居者が、発熱したのだ。その方はほぼ寝たきりだったものの、元町長だったこともあり、面会に来られる方は多かった。その数日後、今度は看護職員が発熱で休むようになった。

現在だからこそわかる言葉で表現しよう。施設はインフルエンザのクラスターとなったのだ。当時はそんな言葉などなく「集団感染」ということで、保健所に毎日発熱者の報告を行うこととなった。

10年前も現在も変わらず、介護施設で未だに日常的に使われている機械がある。FAXだ。職員の高齢化は現在も問題となっているのだが、IT化を推し進めようとする行政の言葉に、かなりの現場は耳を傾けようとはしない。ITについていけない職員が多すぎるのだ。当時の保健所とのやり取りも、FAXで行っていた。毎日手書きで、発熱者の推移を報告する。ちなみに、その2年後に新築移転された病院自体も、医師が扱えないとの理由で電子カルテ化は見送られて現在に至っている。

介護業界は、今も昔も人手不足で悩んでいる。そのため経営者側は、必要最小限の人数で現場を回そうとすることがある。逆を言えば必要最小限の人数しか、職員を配置しないのだ。つまり。職員が急に数日間でも出勤できない場合、現場は崩壊を起こす。より上の職員に、休んだ職員の分の負担が回ってくるのだ。そして、私は施設の長、最高責任者であった。後は言うまでもないだろう。


そんなことを乗り越えつつ、職員の入退職を繰り返しながら、施設は荒波を何とか乗り切っていった。時には現場で直接ご利用者に介護を行った。シフト作成を一手に担い、少ない人員のやりくりもこなせた。時には夜勤にも入って、スタッフの信頼を勝ち得てきた。なんなら夜勤後に日勤の仕事をそのまま続けたくらいだ。

施設開設後2年半が経ったときに行われた県の実地指導も、夜を徹して不足している資料作成を行い、施設の整理を改めて行ったおかげで、経営陣の予想をはるかに下回る時間で終わらせたことも自慢の一つだ。


その一方で、私自身の人生は荒波に飲まれていた。

私の妻は、元から精神疾患を抱えていた。付き合った当初は遠距離恋愛だったが、当時からその片鱗を見せていた。駅構内でのパニック障害、スマホを置いたままふらっと行方不明になる、リストカットなど日常茶飯事で、当時住んでいたアパートでは刃物は隠されていたらしい。そのため私は精神疾患について書かれた本を買い、どのように対処したらよいか熟読したものだ。

付き合い始めて数か月で、彼女の親から大暴れしていて手が付けられないとの相談の電話を受け、急いで精神科を受診するよう指示したことも昨日のように覚えている。結局そのまま入院、年末年始を病院の中で過ごすことになったそうだ。

同居、結婚を経て、新たに加わったのがマタニティブルー、産後鬱である。もう精神疾患てんこ盛りだ。なんでも当時は六重人格だったそうで、実際私も三つの人格をこの目で確認している。

仕事では重い責任を負いながら、家庭では時折私の両親に子供を預けながら乳児の世話をする。職員との人間関係が良好だったおかげで、妻の急な鬱で仕事を休む時にも快く受け入れてくれたのがせめてもの救いだった。

ただ、その生活も終焉を迎えることとなる。職員の一人が膝を痛め、急遽出勤できなくなったのだ。管理者として、一職員として、その分のカバーはしなければならない。何より前述したように、職員配置はギリギリだった。その一人の穴を埋めなければ、法的にアウトだったのだ。

結果、私は9連勤を行った。たかが9連勤と侮るなかれ、介護での9連勤は事務職の倍以上の労力がかかる。心身ともに疲弊しながら、休憩時間には職場の近くに借りたアパートに帰り、子どもの世話をして職場に戻る。

そんな生活がうまくいくわけがなかったのだ。連勤の途中、休憩時間で帰った私は、うつ病で寝込んでいた状態の妻に少し強い言葉を投げた。それがきっかけで、1時間としないうちにLINEを私に投げて、妻は幼い子供を残して家を出た。すべてを放棄して、どこかに行ってしまったのだ。

その後、妻は埼玉の僻地から大阪の男性の元に転がり込んだことが発覚した。彼女の親から叱責されたのは、私の方だった。あれよあれよという間に、話は離婚に繋がった。彼女のワンサイドゲームだ。泣きながら頭を下げて彼女の親に謝罪した。何が何だかわからぬままに。


そして、私はうつ病になった。

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