新規事業は虫もよらない

サービス付き高齢者向け住宅。高齢者向け住宅というからには、元気な高齢者が住んでいるのだろう。実際、厚労省のサイトにもそのように記載されている。自立している高齢者が、介護が必要になった場合でも介護サービスを受けながら住み続けられる住宅だ(意訳)、と。


管理者候補に手を挙げた私が実際にこの新規プロジェクトに参加したのは、ご入居者選考会議の途中からだった。そこで私が見聞きしたのは、驚きの「決定された事実」だったのだ。

入居条件は「要介護」であること。自立でも、介護が必要になり始めた「要支援」でもなく、介護が実際に必要になった「要介護」者が条件だったのだ。そして、施設内の通所介護や訪問介護などで、介護が受けられる上限ぎりぎりまで介護サービスを受けさせる。事業者が自分の介護事業のみを使って利益を得る、「囲い込み」が問題として新聞に取り上げられるようになったのは、ここから数年の時を経ることになるのだが、それはまた別の話。

想像と違うからと言って、「管理者候補」として挙げた手を降ろすことは許されなかった。そして「研修」と称して、病院の病棟介護から、病院と同じくらい老朽化したショートステイの施設に、異動になったのだ。


ケアをする人数は減ったものの、施設が変われば当然利用者も変わる。寝たきりの高齢者ではなく、認知症の激しい高齢者たちの相手をすることとなった。しかも、「ショートステイ」と謳っておきながら、実際には年単位でご利用者がいる、「ロングステイ」が常態化している施設。もうここまでくると何が正しいのか分からなくなってくる。

「動ける認知症患者」ほど、手のかかる高齢者はいない。そこで見たのは、ご利用者がナースコールを引きちぎるためナースコールが無いベッド、ご利用者がベッドから転がり落ちるのを防ぐために四方をベッド柵で囲んだ上に柵が抜けないように布で縛り付けてあるベッド…専門家が見れば一発アウトのオンパレードだった。そんな中、見よう見まねで仕事を覚えていき、ここでも夜勤中心の仕事をこなすことになった。


一方、ショートステイの施設からも同様に「研修」と称して病棟に異動になるスタッフはいた。…いるはずだった。定年を超えて十数年働いているベテランスタッフ2名だ。一度、そのうちの1名と病棟の夜勤で一緒に働いたことがあった。

「こんなにつらい介護は耐えられない」そう言って勤務時間の半分もいかないうちに泣き崩れた。結果その一回だけで、ショートステイから病棟に異動、という「研修」自体が無くなった。どうやら経営者の元に泣いて直訴したらしい。それが通るのだから、この世界は世知辛い。立場的にはこっちの方が上のはずなのに。


そんなこんなで日々の仕事に流されながらも、管理者としてこなさなければならない仕事はある。そう、「候補」という文字は取れていた。どこからかと言えば…手を挙げた、その時点であることを後々知らされた。手を挙げたのは自分一人だけだったのだ。

心身共にいつ壊れてもおかしくはない危機一髪の状態ではあるのだろうが、幸か不幸か夜勤明けだからといって眠くなる体質ではなかった。その体質を利用して、ご利用者の営業回りに一緒に付いていった。もちろん、車の運転は眠くなる可能性があるので営業に一任してある。そもそも、どこに行くのかもわからないのだ。

高速道路を使って市の施設で大会議を行ったこともあった。都内まで出かけてご利用者と面通しも行った。30半ばとはいえ、業界では若い部類に入る。おそらく、あれから10年経った今では行えないだろう。しかし、管理者としてご入居者に直に会わないことには、どんな人が入ってくるのかわからない。書類上ではわからないのが医療介護の世界である。


そうこうしている内にも、新しい施設の建設は進行していた。一度、建設現場に図面を渡されて行ったことがある。「ベッドごと建物を移動することができ、緊急時には隣接することになる病院にベッドのまま連れていける」ことをメリットの一つとして挙げていた。

半ば組みあがっている建設現場で、ふと気になって図面と工事現場を見比べる。建築など理系なことは極力避けていた超文系の私だが、何か引っかかったのだ。

「この居室の扉、図面だとベッドが通ることになっていますが、このまま組みあがるとベッド幅より狭いのではないでしょうか?」「…本当だ。」

工事は何事もなく進んでいった。私の指摘はそんなことがなかったかのようにスルーされた。トイレより狭い男子更衣室が出来上がっていった。


…思い出して泣きたくなったので、一旦ここで中座させていただく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る