第31話 大逆転
バッグを背負って外に出ると、玄関ドアをゆっくりと閉じる。鍵穴に鍵を差し込んで、時計回りに90度回転させれば、施錠されるはずだ。
そっと鍵を回すと、カチャリと小気味良い音を立てた。実に素直だ。
ふわりとした穏やかな風が、どこからともなく桜の花びらを連れてくる。
あのクリスマスライブから数えて、二度目の春。時間にすると、既に一年以上が経過したことになる。
アパートの外階段をゆっくりと下りると、そのまま歩いて川沿いの道へ出る。
春にしては、気温が高い。半袖のシャツでも、こうして歩いていると少し汗ばむくらいだ。
堤防を横切ると、河川敷に小さな公園が見えてきた。
ちょうどいい具合に、住宅街から離れている。騒音の心配をする必要はない。
ときおり散歩にくる老夫婦と、軽く挨拶を交わす程度。人通りも少ない。
週末は仕事があるので、こうして練習に出かけるのは、もっぱら平日の午後。と言っても、月に数回……気が向いたときに訪れる程度だ。
公園のベンチに座り、ケースからアコースティックギターを取り出す。
押入れの機材を一掃したら、それなりの資金が手に入った。その資金がコイツに化けたという訳だ。
ポケットから牛乳瓶を取り出すと、そっと地面に置く。『酪農牛乳 特濃4.0』の文字。
「……フフッ」
あんなに怖い顔で怒っていたくせに、なんだかんだ言って、僕のアドバイスを素直に聞いてくれていたんだと思うと、少しだけうれしい気持ちになる。
まあ、なんとなく雰囲気というか、再出発感を醸し出してくれるアイテムとして、僕はそれを使わせてもらっていた。
もちろん、
もしかしたら……これを持ち歩くことで、遠く離れてしまった鶉娘のことを、近くに感じることができるからなのかもしれない。
収益は……今のところゼロ。もちろん、それが目的ではないので、一向に構わないのだけれど。
ひっそりと練習を開始する。誰かに聞かせるという訳でもない。何かを目標にするという訳でもない。
ただ単純に、純粋にそうやってギターを演奏することが、僕は好きになった。
才能なんて……誰にも無くて、誰にでもある。年の功というのだろうか。大家の爺さんの言葉も胸に響く。
才能のある人と、無い人。そこには、何か目に見えない境界線みたいなものがあって、持つ者と、持たざる者。それが、明確に分かれているのだと、そんなふうに僕は思っていた。
だから、持つ者である鶉娘は、絶対にステージを成功させると信じていたし、ステージに立つことが怖いだなんて、そんな感情は持ち合わせていないのだと、そう勝手に決めつけていた。
電話越しに聞こえてくる、あの鶉娘の震える声は、今でも忘れられない。
その鶉娘はというと、あのクリスマスライブを一度きりとして、活動休止中ということになっている。まあ、表向きの理由なのだけれど。
正式に天界に戻って、ちゃんと高校を卒業したいという鶉娘の想いを、爺さんも含めて、僕も尊重することにした。
「実家の高校を卒業するまで、活動を休止させて下さい」
そう申し出る鶉娘に対して、佐竹さんはとても困惑していた。とても残念がっていたけれど、それでも鶉娘の意見を尊重して、その想いを受け止めてくれていた。
その代わりという訳ではないのだろうけど、僕と佐竹さんは、年の離れた兄弟のような関係になっていた。
あいかわらず、ファミレスでは特大パフェを注文してくる。
「あの人が来たら、できるだけ大声でオーダーを繰り返して!」
そう、バイト仲間には伝えてある。
僕を、ラーメン屋に連れて行ってくれたりもする。
内緒だけれど、
そういった繋がりが、鶉娘がいなくなってしまって寂しいという思いを、少しだけ忘れさせてくれているのだと思う。
実を言うと、不定期ではあるけれど、イベントの音響スタッフの補助として、ライブやコンサートの裏方を手伝っていたりする。
佐竹さんに、どうしてもと頼まれたのだ。おそらく、鶉娘との関係をつなぎとめるための、佐竹さんなりの策略だったのだと思う。
それでも、独学や、専門学校で学んできた知識を、実際に生かせる仕事に携われるのは、嬉しかった。
もちろん、プロ用の機材なんてほとんど触ったことがないから、正直、雑用ばかりである。
でも、それさえも、僕の心を躍らせてくれている。
もしかしたら、共演ではないけれど、どこかで一緒に仕事をする場面が、今後訪れるかもしれない。そんなことを考えると、自然と胸が熱くなる。
僕の生活が……いつもと変わらない平凡な日常が……少しずつ変化している。
そんな毎日が、心の隙間を……埋めてくれている。
いや……もしかしたら、そうやって自分で何か新しいことを見つけて、そこに無理やり目を向けることで、喪失感から目を
立ち止まってしまったら……大きな喪失感が……襲ってくるのかもしれない。
そうやって、ごまかし続けなければ……自分を保つことができないのかもしれない。
それくらい、僕にとって鶉娘という存在は……大きなものだったのだと思う。
ジャリジャリと、砂を踏みしめる音が、僕の後ろから近づいてくる。その音が鳴りやむと、ピーンと何かが弾かれるような音が聞こえた。目の前の牛乳瓶が、チャリリーンと甲高い音を響かせる。
「ねえ、見た!? ナイスコントロール!!」
……え? 僕は、おもわず後ろを振り返ろうとする。
「待って!!」
静止を求めるその聞きなじみのある声に、僕は身動きが取れなくなる。
「私……ちゃんと卒業……したよ……」
そっとささやくような、優しい響き……。
この声は……この声は……。
「……そっか……卒業したのか……お、おめでとう……」
鶉娘だ……鶉娘の声だ……間違いない……。
「それで……最終試験も……通った」
「ホントか? それじゃ、見習いじゃなくて……女神様になれたのか?」
鶉娘がいる……鶉娘がすぐそこにいる……来てくれたのか?
「……うん」
……それを伝えるために……僕に会いに来てくれたのか?
「おめでとう……ウズメ。頑張ったな……」
やったじゃねえか、鶉娘! 女神様になれたんだな……本当の女神様になれたんだな……。
「…………うん、それでね……その……大切なこと、確認しに来た」
「大切なこと……?」
「うん……その…………ショーマと私の……約束のこと……」
約束? ……約束か……。
「……それは……その、すまねぇ……」
応援……してやれなかった。
「やっぱり……やっぱりショーマは、約束……」
悪い予想が的中してしまったとばかりに……小さくささやく鶉娘。
「す、すまん……このとおりだ……」
僕は、ベンチに座ったまま、深々と頭を下げる。
「……やっぱりショーマは……私のこと………………」
鶉娘の声が、少しずつ、少しずつ沈んでいく……。
「ごめんな……ウズメ……」
「……それじゃ……私たち…………さよなら……だね……」
「…………そう……だな……そうなる……な……」
笑顔で送り出すって……そう決めたんだ……。
「……ねぇ……ショーマ……最後に一つだけ……。一つだけでいいから、何でも言うこと聞いてくれる?」
「……そういえば……そんなこと言ってたな……ちょっとだけ、懐かしいや。……そういや、指切りしちまったもんな……」
もう、涙は……絶対に見せない。
「……じゃ、じゃあ言うよ。……私を……私を……ショーマの……ショーマのおよ……およ…………うぅ……」
「な、泣くなよ……ウズメ、僕達の最後は……笑顔で締めくくろう……」
「うぅ……ううぅ……私を……ショーマの…………ショーマのその目に……焼き付けてくださいっ!! 一人前になった私を……ううぅ……しっかりとその目に焼き付けてください……絶対に忘れないように……絶対に……絶対に忘れないでっ! 私のこと、絶対に忘れないで!! ……お願い」
僕はゴシゴシと両目を拭うと、
……
そこには、一人前の……本当の女神様になった鶉娘が、くっそ生意気な顔をして立っていた。
この世のものとは思えないほどの憎たらしさ……それこそ神様レベルの変顔で、両手をほっぺの横でヒラヒラさせている。
「本気にした? ねぇ……本気にしちゃった!?」
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