第19話 夢
およそ一年半前の話……
ヤバい、頭が痛い。理論的な基礎知識ってのが、どんな分野に
ただ、音楽理論に関するこの授業は、正直チンプンカンプンだった。
こりゃ、先輩に教えてもらった方が手っ取り早いか? 僕は、授業を終えると、ギターケースを背負って、自習室へ向かう。
やっぱり、この背負うタイプにして正解だったな。おかげで、どんなところにも気軽に持ち運ぶことができる。
「
「うーっす、
「え? マジっすか!? ラッキー! あー、この部屋暖かい……暖房助かる」
「女は未知数なほど輝く」という謎の理由で、本当の年齢を教えてくれないんだよね。
音楽の専門学校は、生徒の年齢層がバラバラだ。下は十代前半から上は六〇代まで、バラエティーにとんでいる。そういった意味では、高校卒業して直ぐに入学した僕は、少数派にあたる。
愛莉先輩は、たぶん大卒だと思う。音楽に対する専門的な知識が半端ないから、音大か何かを出てるのかな?
「寒いと指がさ……ホント暖房助かるよ。三神君は、今日も
エナメル系のパンツにピチっとしたシャツ。ショートカットの耳元には、ピアスが並んでいる。正直痛そうだ……。
「はい、なんだかんだ言って、これがレベルアップの、一番の近道かなーって思って」
「あいかわらず、マジメだねぇ~!」
呆れたように首を横に振る愛莉先輩。
「いや、近道したいってのが理由なんで、マジメかって言われると、ちょっと自信ないです……」
「ははっ、たしかに!」
そう言って笑顔を見せる先輩。ちょっとだけドキッとしてしまう。
先輩はどうして、僕みたいなヤツの相手をしてくれるんだろう。この自習室で、声をかけてくれたのも、先輩からだった。無論、僕から声をかけるなんてぜったいにムリだから、声をかけられなかったら、今のこの関係は存在しなかったけど。
「今日は何で少ないんですかね? 何かありましたっけ?」
「三神君、キミはカレンダーを持っていないのかね?」
「カレンダー?」
「……ダメだこりゃ。甘いものと関係があります……さて、何の日でしょーう?」
「え? お彼岸とかまだですよね……ぼた餅?」
「おーい!
「あ……チョコ的なヤツですか、ああ……そうっすか……僕とは無縁の日ですね……ハハハ」
「ま、そうだよね。貰ってれば、何の日か分かるよね……」
「……うぐぅ」
「お! 今、グゥの
「先輩、これくらいで勘弁して下さい……」
バチンとほっぺに何かが飛んできた。四角くて二十円くらいの甘いヤツ。
「おう、わりいわりい、顔に当たっちまった……」
「え? いいんですか? ありがとうございます!」
「まぁ、自分、
「わかってますって、それでも嬉しいです」
「おう、もらっとけもらっとけ」
「ところで先輩は、誰かに渡したんですか? その……義理堅くないヤツ……恋人とかに……」
まあ……いるよね。愛莉先輩ならいるよ。間違いなくいるよ。恋人のひとりやふたり……ふたりいたら、イヤだな……。
「まあ、ベタだけどさ、今はコイツが恋人だから!」
ギュゥウィーンっと、
「先輩、それ言っちゃうと、幸せ逃すヤツじゃないですか?」
「だよねー。そんときゃさぁ、
遠くを見るような目でそうつぶやく。
「いるんですか? だれかイイなって人」
「ばーか、知るか! いたって言うわけないだろってそんなの。ばーか、ばーか」
「な、何ですかそれ……」
……よくわかんない先輩だな。
「先輩は、オーディション……ですか?」
「まぁ、そんなところかな? あんまり時間無いから、正直ちょっと焦ってる……ナイショだよ、キャラじゃないからさ、そういうの」
人差し指を唇に当てて、ウインクを見せる。
「は……はい」
やべえ、たったこれだけで、持っていかれそうになる。思わず視線を逸らしてしまった。
「どしたの? 何かあるなら言ってみなって。お姉さんが聞いてあげるよ」
え? なんでわかるの? 超能力者?
「いや、何でもないです。それに今、大事な時期ですよね? 今はやめときます」
「ってことは、何かあるってことじゃん? 遠慮すんなって。私と三神君の仲じゃん」
えっ? 僕たちってそんな仲? どんな仲? ……あんまりテキトーなこと言われると、勘違いしちゃうから勘弁して欲しい。
「あの、今日の授業、理解不能だったんで、ちょっと教えてもらおうかな……なんて」
「そんなこと!? いいよ、教えてあげる!」
まぁ、愛莉先輩ならそう言うと思ったけど。
「いや、悪いですよ、突然ですし」
「いいって、いいって、じゃ、さっそく行きますか?」
そう言って、先輩はギターをケースに仕舞いはじめる。
「行きますかって、もう教室閉まっちゃいますよ?」
「そっかぁ……もうそんな時間か……ココじゃやかましいしな……」
「向かいのファミレスなら、僕、ドリンクくらいなら頑張れますけど……」
「そうね……じゃあ、三神君
「は? な、なに言ってるんですか? 冗談やめてくださいよ!?」
「本気、本気。さー行くよ!」
え? ええ? ええええ!?
というわけで、本気で僕のアパートについてきてしまっている。
マフラーから、白い息がモクモクと上がる。コートをはおり、手袋もはめた完全防寒仕様に身を包んで歩く。
「あの、先輩。僕の部屋、マジで何もないんで、おもてなしとかできないですよ?」
「あぁ、いいっていいって。三神君の部屋って、どんな感じなのかなーって、ちょっと興味あってさ」
「……興味本位ですか?」
「つべこべ言わない。勉強教えて欲しいんでしょ?」
「はい……あと、暖房無いんで、覚悟してくださいね……」
「大丈夫大丈夫! 私も似たような暮らししてるから。電気毛布! あれイイよ。暖かいわりに電気代安くて助かるんだよね!」
「え? そうなんですか? 僕はコタツくらい何とかしようかなって思ったまま、結局なんにも無いまま、毛布に包まってます」
「椅子にさ、電気毛布掛けるでしょ! そこに座って足を包むわけ。そうすればポカポカなのよ。演奏のジャマにもならないし、マジおすすめ!」
「へぇー。今度電気屋見に行ってみます……って、ココです、僕ん
月明りに照らされたアパートの、二階の一室を指差す。
「へぇ……悪くないじゃん。
「築……築何年だったかな? 三十五年はいってると思います。でも、大家さんはおじいちゃんで、優しいんですよ!」
「それ大事!」
「 「アハハハッ!」 」
外階段をゆっくりと上ると、僕は玄関ドアを開ける。ダイニングの電気を点けて、先輩を室内へ案内する。もちろん、女性をこの部屋に入れるのは、初めてだ。
「へぇー……なにあれ?」
「アレ……ですか?」
「うん、アレ」
「テーブルです。アレの上で、飯食いますし……」
「アレは、ダンボールっていうよね? 普通」
「まぁ、そうですね」
「ダイニングテーブルとイス、頑張って買うか!」
「そ、そうですね……でも、物入りですよね。本気で。一人暮らし始めて、お金の大切さ、身にしみてます。生きてるだけで、お金って劇的に無くなっていくんですね」
「うう、共感。ホントそれだよね……バス、トイレは?」
「こっち……ユニットバスです。稼げるようになったら、まず最初にバス、トイレ別にします」
「わかるー。ウチもいっしょ。一泊くらいならいいけどさ、毎日となると、そこはやっぱり分けたいよね」
「奥の部屋は?」
「寝室です。ほとんどあの部屋にいます、家にいるときは」
「見てもいい?」
「ちょっと恥ずかしいですけど、まぁ、いいですよ?」
「じゃ、失礼するね……」
僕は愛莉先輩のことを、ちょっとイイなって思っていた。ウソです。かなりイイなって思っていました。話題が合うというか、感覚が近いというか。
けれど、姉のような……愛莉先輩の僕に対する接し方が、完全に弟として見ているような気がしていて……。だから、恋愛というか、そういった対象の外側にいる存在として、先輩を見ていた。
「……三神君……足の踏み場、無いね……」
寝室は、敷きっぱなしの布団と、それを取り囲むように散らばったTAB
「僕も、いちおう二年間って決めてます。その間は、本気でやろうと思って。それで、結果が出なかったら、その時はキッパリあきらめようと思ってます。先輩と一緒ですよ」
「そっか……そだね。普通の感覚からしたら、遊んでるように見られても、仕方ないようなことしてるしね。夢を追いかけてるって、聞こえはいいけど、芽が出なかったらホントに何にも残らないかもしれないからね」
「そんなにたくさんは無いですけど、機材関係は置くところ無いんで、押し入れ使ってます」
そっと押し入れを開けて、少しずつ買い足している機材を紹介する。
「高校時代からバイト代やお年玉で買った、アンプやエフェクター類を中心に入れてます。ステレオって金額的にも音量的にもムリじゃないすか。だから、小さなCDプレーヤーと、ヘッドホンで。ヘッドホンはちょっと頑張ってAKCのモニターを使ってますよ」
「いや、イイ意味で必要最低限を揃えたね……」
先輩は、しゃがみ込んで押し入れの中を真剣に観察していた。
「CDって、渋いね。好きなの?」
「あ、いや、それはその、ジャケットが好きで……」
「
「……はい。や、でも、歌とか一つ抜けてるな……と思って。アイドルとして売ってますけど。もちろんビジュアル的にもそうですけど、音楽的にも好きですよ。だから、もしその辺に潜り込めたら……夢ですね。完全に」
「いや、可能性は絶対にゼロじゃないからさ……全然ありえるよ」
僕は、いつもここで練習している様子を先輩に見て欲しくて、壁に寄りかかってギターをかき鳴らすフリをしてみせる。
「こんな感じです。華やかな舞台とは程遠いですね……はは」
「ゴメン……私、なんか、恥ずかしくなってきちゃった……」
「え?」
愛莉先輩は、バッと両手で顔を覆う。
「なんか、キモいね……私。うわ、キモ……キモキモキモ、キッモ。最悪だ。ごめんね、私、ホント最悪!」
「え?」
二の腕をさすって、
「帰るね……」
「え?」
愛莉先輩は、僕の部屋を飛び出すように、帰ってしまった。
え? ええ? えええええええ!?
まったく全然、これっぽっちも期待していなかったとか、それはさすがにウソになる。だけど、そんな雰囲気には絶対ならないような気がしていたし、もしなったらなったで、それは……そのときは……。
ただ、これは予想外の展開だった。正直へこんだし、かなり落ち込んだ。
その後の一か月間、愛莉先輩はひたすらに練習を続けている印象だった。
この業界内では、という前置きが必要となってしまうが、それなりに名前が通ったバンドグループの、サポートメンバーとしてのオーディションを控えていたからだ。
先輩は、補欠扱いということらしいけれど、合格を射止めていた。
「サポートの補欠なんて、完全な雑用だよ!」
そう言って苦笑いしていた先輩だったけれど、心の底から喜んでいるということは、すぐに伝わってきた。
「先輩、おめでとうございます」
「三神君のおかげだよ。ホントだからね、マジだからね。だから、三神くんもがんばりなよ」
そう言ってくれた愛莉先輩は、表向きは中退扱いとして、専門学校を卒業していった。
先輩が学校からいなくなって少ししたころ、僕のアパートに小さなダイニングセットが宅配便として届いたのだった。
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