第2話 降臨2

 素足のままタタッと軽やかに僕の前を横切る少女。

 冷蔵庫の前で立ち止まると、中から牛乳びんを取り出して、飲み始めた。


 ど、どうやら、僕の存在には気づいていないようだ……。


 あれれ? 猫耳ねこみみスリッパ、使わないのね……って、そんなことどうでもいい!

 牛乳びん? いまどきびんの牛乳なんてどこで買うの? ……って、そんなこともどうでもいい!


 目の前で巻き起こる不可解ふかかい現象げんしょうの連続に、僕の思考回路は全く追いついていない。


 どうしよう……声、かける? ……でも、何て声かければいいの?

 うおー、全く思い浮かばない。てか、何を言っても不正解な気がする。

 どうすりゃいいんだー!!

 たぁーっ、落ち着け、落ち着くんだ。


 ……にしても小柄こがらだなぁ……年下?

 ……中学生くらいだよな……?

 あまりにも無防備なその……その……後ろ姿に、視線はくぎづけとなる。


 雪を思い起こさせるような透き通った白い肌。つややかな黒髪。華奢きゃしゃではあるけれど、そこはかとなく肉付にくづきのある姿態したい

 ……だよね。一人暮らし? なら、バスタオルなんて巻かないよね……もちろん、下着も何も身にけてないし。


 腰に手を当てて、真っ裸のまま仁王立ちで牛乳を飲む後ろ姿は、いさましくもある。


「ぎゅるるる~」


 げ、なんてこった。こんな非現実的な状況において、僕の腹の虫は現実的に空腹をうったえてきやがる。


 少女がゆっくりとこちらを振り向く。


 まだおさなさの残る……けれどキリッとしたんだひとみ。学生時代で例えるなら、クラス委員のような、文学少女のような、そんな優等生を思わせる清楚せいそな顔立ち。


 目が合った。


「……ハ、ハハ……腹減ってたんだ……そういや、今日は朝飯あさめしも食ってねぇし……」

 コンビニの袋を、まむように持ち上げて、愛想あいそ笑いを見せる。われながら、間抜まぬけな第一声だ。

 少女は、状況を全く理解していないのか、ぽかんと首をかしげながら、僕の方へ身体からだける。


 完全に真正面から向かい合った。


 たがいの視線が、ぶつかり合う。

 ダメだ、目をそらしちゃダメだ。られる。生存本能が、僕に警鐘けいしょうを鳴らす。絶対に目をそらしちゃダメだ!


 その警鐘けいしょうをあざ笑うかのように、僕の視線は少しだけ下がり一時停止する。しばらくすると、もう一段下がって一時停止。視線を戻すと、再び目が合った。


 生存本能とは違う別の本能に、僕は負けた。


 少女は、見る見る顔を赤くめながら、大きく振りかぶった。

 プレイボールの警鐘サイレンが、僕の頭の中にひびく。

 剛速球ごうそっきゅうよろしく右腕うわんからはなたれた牛乳瓶は、ものすごいスピードで僕の顔に近づいてくる。


 まるで吸い寄せられるように、僕のひたいへ向けて一直線に襲い掛かる。

 ……はずなのに、僕の目にはスローモーションのようにうつっていた。


 あー、これ、当たったら痛いぞ……絶対に気絶きぜつする。こんなにゆっくり見えるのに、いや、ゆっくりだからこそ理解できる。コレはよけられねぇぞ……。


 縦回転と横回転。複雑な回転を見せながら近づいてくる牛乳瓶。

 残り数センチ。眼前がんぜんせまる。絶体絶命の大ピンチ!

 反射的に目をつぶるその直前、『酪農らくのう牛乳 低脂肪』ラベルの文字がくっきりと見えた……ガツーン!


 おでこに衝撃が走る。同時に、グワ〜ンと脳内が揺さぶられる。見事命中!

「ストライーク!」いや、「デッドボール?」どっち? どっちでもイイか……。


 あぁ、意識が遠のく……もしかしたら、このまま目覚めないかもしれない。ひょっとして、異世界転生しちゃうかも……。

 目の前の少女は、僕のことを泥棒どろぼうか何かと勘違かんちがいしてるんだろうなぁ……。

 いや、本当に普通に鍵を開けて入っただけなんですよ。ここ、僕の部屋だと思うんです? 信じてください、お願いします。


 証人だって、ちゃんといます。……アナタですよ? そこのアナタ! とぼけないでください。……こんな小説、読んでる場合じゃないですよ?


 んなこと言っても、もう遅い……意識が次第しだいに薄れて行く。

 二十年、短い人生でした……って大げさですかね?

 でも、最期さいごにイイもの……見せてもらったから……良しとしますか……。


 そう……そうだ。誤解は解けないまでも、あの子に、これだけは伝えなくちゃ……異世界転生しちゃう前に、コレだけは伝えておかなくちゃ。

 彼女のこれからの人生が、豊かであるために。

 僕ができるせめてもの餞別せんべつとして……。


 朦朧もうろうとする意識の中、崩れ落ちそうになるのを必死にこらえて、僕はしぼり出すように口を開いた。


「そ、そこのキミ……うぐっ」


 両腕りょううで身体からだかくすようにあとずさりする少女。


「……な、なんですか?」


「高め、高めだよ……はぁ、くぅっ」

 ダメだ、気絶しそうだ……こらえろ。


「え? ……た、高め?」

 いぶかしむように僕に視線しせんを送る。


「そう、高めだ……低脂肪じゃダメなんだ……キミは、ぐはっ」

 もう少しだ、がんばるんだ。


「低脂肪……?」


にゅう脂肪分……高め……そう……すれば……もっと胸……大き……く……ぐふっ」

 僕はその場に倒れ込んだ。


「なっ……バカーーーーーッ!!」


 薄れ行く意識の中、少女の悲痛な叫び声が、部屋中にこだましていた。

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