アチアチ!カセットコンロ

サブロー

第1話



 世の中には色んなフライパンがあるが、やはり家庭で一番重宝されるのは、深型でテフロン加工されているものだと思う。調理器具というものは、できるだけ手入れが簡単なものが好まれる。そしてできれば口径は大きな方が良い。そう、おれのように。


「今日もおつかれ、アルミ。やっぱりお前の熱伝導は最高だよ」

「へへへ、ありがとうエイチ。照れちゃうな。でも君の誘導加熱も……とても良かった」

「ああ、アルミ……お前はなんて可愛いんだ……」

「ん……っ。こら、やめろよ。せっかく洗ったのに」

「わ、悪い」


 IHクッキングヒーターであるエイチは、一度は慌てておれから身体を離したものの、すぐに「レモンハーブの良い匂いがする」と擦り寄ってきた。

 「こら」と小突いてもう一度叱ってみるが、まだ余熱の残る体温のトッププレートが心地良くて、おれは好きにさせておく。料理後にエイチに甘えられるのは、おれだって嬉しい。渦電流によりもたらされる熱とは違う、ほんのりと優しい温もり。


「まったく。仕方ないな、エイチは。明日の朝、ハムエッグを作るときにまた一緒になれるのに」

「そんなの待ちきれないよ」

「あッ、……もう、ばか。変なところ熱くするなよ」

「お前が魅力的すぎるのが悪い」

「何だよそれ」


 くすくすと笑い合った後、視線を絡ませて、そっと身体を寄せ合う。特厚製の底面は、たっぷりとこの穏やかな熱を溜め込んでおくことができる。


 エイチとは、家主がこの家を新築したときからの付き合いだ。オール電化のキッチンでは、黒い結晶化ガラスでできた身体を輝かせるエイチは主役と言っていい。見目麗しい彼は、ほかの調理器具たちからいつも羨望の眼差しを浴びている。火を放たずとも物を温める彼は、まるで魔法使いのようだ。


 出会って目が合った瞬間、おれたちは恋に落ちた。

 おれも新品で買われてきたばかりだったけれど、初めて身体を合わせたとき、エイチは「僕も初めての料理なんだ」と優しく囁いてくれた。

 彼の熱を底面で感じたときの悦びと感動は忘れない。緩やかな振動は、いともたやすくおれを高みへと導いた。

 おれはこうして、渦巻くような熱で温められるために生まれたんだ……。そう、胸が震えたことをよく覚えている。


 おれとエイチは一心同体だった。

 26センチの深型アルミ製のおれは、焼き物や炒め物はもとより、煮物や揚げ物、スープ系までこなすことができる。

 家主の妻が感心したように「これひとつあれば良いわね!」と漏らしたとき、おれとエイチは顔を見合わせて得意げにウインクした。


 ふたりでいれば、どんな料理も作ることができる。

 エイチの熱伝導はいつだって細やかかつ的確だ。おれはエイチの奏でる電磁的振動に身を任せるだけでよかった。愛情の込められた熱はおれの身体をたかぶらせ、口内に放り込まれた食材を極上のものに仕上げてくれる。


「愛してるよ、アルミ」

「おれもだよ、エイチ」


 おれたちは幸せだった。間違いなく、幸せだったんだ。

 あの日、この街が大規模停電に襲われるまでは。

 



 ◆




「エイチッ! しっかりしろよ、エイチ!」


 おれは涙ながらにエイチの身体を揺すっていた。けれどエイチは黙り込んだまま、何も言わない。絶望が背後から覆いかぶさってくるような感覚に、おれは知らず涙を流していた。


 「それ」が起きたのは突然だった。

 いつものように晩御飯を作り終え、身体を洗っていざ眠りにつこうとしていたときのことだ。ばちん、と不気味な音ともに、家の中の電気がすべて消え失せてしまったのだ。


 家主は驚き、カーテンを開け外を眺める。聞けば、どうやらこの辺り一帯が停電に見舞われたらしい。オール電化のこの家は、家主が屋根にソーラーパネルを付ける余裕がなかったために、自家発電の術を持たない。窓の外はぞっとするほどの深い闇に染まっていた。


「エイチ……」


 何度呼んでも、エイチのトッププレートはぴくりともしない。電気がなければ、エイチは微笑むことすらできないのだ。

 もう一度あの笑顔が見たい、とおれが歯噛みしたそのときだった。


「どれ、オレの出番かな?」


 棚の奥から、しゃがれた声が響いた。ふと顔を見れば、曇った銀色のカセットコンロが身体を引きずり、のそのそと這い出てくるところだった。傷だらけの身体にただならぬものを感じ、おれは一歩後ずさる。


「久しぶりのシャバの空気だ……」


 何がオール電化だ、とカセットコンロは吐き捨てた。棚の奥にこんな奴がいたとは、おれも知らなかった。家主が前に住んでいたというアパートから持ってきたものだろうか。震える声を抑えながら、おれは尋ねる。


「き、君は……?」

「カセットコンロのコンだ。……アルミ、あんたの色っぽい喘ぎ声には、いつもほとほと困らされていたよ」

「!」


 たしかに、おれはエイチと料理するとき、少し声を出しすぎてしまう癖があった。でもそれが棚の奥まで聞こえていたなんて。

 カッと顔が熱くなるのを隠しながらも、おれはコンの不躾な物言いに言い返してやる。


「う、うるさいな……料理をしていたら、誰だって声は出る」

「たしかにそうだな」


 コンは野生みの含んだ笑みを浮かべると、じりじりとおれに近づきながら言った。


「でもオレなら……アンタにもっと良い声を出させてやれる」

「なっ……!」


 何を言っているんだ、とおれが狼狽えている間に、コンは素早くおれの身体を持ち上げると、裏面を凝視してきた。じりじりと底面が疼く。鋭く射抜く、狩人のような視線だった。

 突然の蛮行に恐怖を感じ、おれはたまらず声を上げる。


「何するんだよッ! おれは、おれは……エイチの恋人で……!」

「ほう、『IH、ガス兼用』ねぇ」

「ッ、それは……」

「それならオレとも遠慮なく料理できるな?」


 コンはそう零すやいなや、サッ!と素早くおれの身体の下に入り込んだ。鈍色の爪が、ギシ、と底を擦る感覚に総毛立つ。エイチのなめらかなトッププレートとは違う、粗野な肌触りだった。


「停電でみんな不安だろう。何か腹を満たすものを作ってやらないと」

「い、いやだ……おれは、エイチとじゃないと」


 もはやおれに成すすべはなかった。がくがくと勝手にアルミ製の身体が震えてしまう。エイチ以外との料理なんてしたことがなかった。この底知れない空気を纏うコンロが、どんな火力調節をするのか、想像もできない。

 コンはそんなおれに「妬けるね」と囁いてから、ちらりとエイチを一瞥した。こんなに近くでおれが襲われているのに、エイチは沈黙したままだ。


「けれど電気が途絶えた今、あいつに何ができる?」


 蔑むようなコンのその声に、涙がじわりと浮かぶ。電気がなければ、エイチは動くことはできない。それは仕方がないことだ。彼を責めるつもりはない。

 でも、今は、今だけは……それがどうしようもなく、悲しかった。


「楽しもうぜ、アルミ」


——エチチチチチチチチチチ…………シュボッ!!


「!?」


 前触れもなく、コンが点火した。ガスの鼻につく匂いが辺りに立ち込め、覚えのない感覚がおれの底をなぞる。


「な、なに、怖いッ」

「アルミ。これが『炎』ってやつだ」

「ほの、お……?」


 この、乱暴に直接的な熱を与えてくるのが、炎というものなのか。味わったことのない、逃げ出したくなるような……それでいて、すべてを委ねてしまいそうになる凶暴な熱が。


「あ、いや、いやだ……ッ、こんなの、こんなの知らない……」


 おれは涙を流しながら身をくねらせた。コンの熱は、エイチのものとはまるで違う。火先のひとつひとつが意志を持っているかのように、容赦なくおれの身体をまさぐる。必死に持ち手をよじってみても、巧みな火力から逃げることができない。


「どうだ? 直火の味は」

「ん、んんッ、だめ、そんな……ッ、あ」


 初めて身体を合わせるのに、コンの炎はおれの弱いところをじりじりと炙っていく。口径が26センチもあるせいで、声を我慢することすらできない。

 相手はエイチじゃない。それは分かりきっていた。けれどおれの身体はどんどん高まっていく。息遣いは乱れ、浅ましい喘ぎをやめられない。


「良い声になってきたな……。そらッ、強火だ!」

「ああァッ……!」


 一際大きな炎が、おれの底をべろりと舐め上げた。「だめッ」ときつく目を瞑りながらも、おれの身体はびくびくと勝手に揺れて、自分からコンの火先をねだるような動きをしてしまう。

 こんな激しい熱は知らない。エイチの熱伝導はいつだって細やかで、ここまで荒々しく身体を求められたことはなかった。思考がじわじわと白んでいくのが分かる。

 しかしおれはそこで、あることに気付いて悲鳴を上げた。


「や、やめろッ! 空焚きは、空焚きだけは……ッ」


 自慢のテフロン加工が剥がれてしまう。

 特殊アーク溶射された、おれのテフロンが。


「やだ、やめろよぉ……」

「…………」


 そんなことになったら、おれは焦げ焦げの料理しか作れなくなる。美味しい料理を作れないおれなんて、フライパン失格だ。

 恐怖に冒されしくしくと泣き始めたおれを、コンはしばらくじっと見つめて、それから炎を弱くした。


「仕方ねぇな、とろ火にしてやるよ」

「ん……」


 弱くなった熱に、おれは安堵の息を吐く。小さくなった炎の舌触りは柔らかく、一方的に熱を与えられるよりも、身体の奥をとろとろと溶かされる気がした。

 ほんの少しの優しさに、悲しみとは別の涙がぽろりと一粒こぼれ、コンの男らしい炎でジュッと音を立てた。


「さて、何を作ろうか」

「つく、る……?」

「そうだ、アルミ。おれとお前で、とびきりの料理を作るんだよ」

「ん、ぁ、あ」


 ゆさゆさと強引に身体を揺さぶられる。

 おれの頭はもうまともに働いていなかった。

 コンの声が底に伝わり、白い煙として口から吐き出されていく。粗野な爪の感触に、ぶるりと期待を覚えてしまう。


「そうだ、カレーにするか?」

「カレー……?」

「おう。深型のお前ならできるだろ?」


 ふっ、優しげな笑みを向けられ、おれは素直に頷いた。おれは26センチ深型アルミ製のフライパン。どんな料理でも、受け止められる。

 コンが低い声で囁く。


「……それも、一晩コトコト煮込むやつだ」


 ガスの替えならいくらでもあるからな、と続いた言葉に、おれは自分がもう、戻れないことを予感した。




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アチアチ!カセットコンロ サブロー @saburo_moon

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