恋の死にぞこない

サブロー

第1話

 

 お向かいさんの犬が死んだ。


 死んだ、というのは、もしかしたら正しくないのかもしれない。ぼくはその犬の最期を見ていないし、誰かから「死んだ」と聞いたわけでもない。

 でもそういうのって、わかってしまう。向かいの古びた平屋からは、さみしさとも悲しみともつかない、冷えて静かな気配がした。


 外飼いの秋田犬だった。

 からだが大きいオスだ。名前は知らない。食パンの焼き目と同じ色をして、真っ直ぐな背中のせいで余計に食パンらしく見えた。真っ赤な首輪はぴかぴかで、人が近づくと顎を上げて誇らしげにしていた。

 つやつやとした毛並みを見るたび、父さんは感心したように「ちゃんと面倒を見てもらっている犬だ」と口にした。父さんは大の犬好きだけれど、うちでは動物を飼ったことがなかった。


 幼稚園に通っていたころ、思いつきでハムスターが欲しいとねだったら、父さんから「好き」と「欲しい」と一緒にしてはいけないとたしなめられた。今思えば父さんは、自分に言い聞かせていたのだろう。もっと言えば、子どものころの自分に。


 お向かいさんの犬は、犬というよりはキツネみたいな細い顔つきで、ぼくはあまり可愛いとは感じなかった。テレビで見る秋田犬の方が、顔がまんまるで愛嬌がある。でも、お向かいさんの犬の方が賢そうだな、とは思っていた。

 その犬が吠えるところを見たことがない。ぼくが学校から帰ってくると、必ず家の前でおすわりをしていた。誰に命じられたわけでもないのに、真っ直ぐな背中をさらに真っ直ぐにして、道行く人間をじっと見つめている。母さんはよく「あなたよりもお利口さんかもね」と冗談めかして言った。


 お向かいさんは、ひとり暮らしの男の人だ。

 父さんよりも歳上で、いつも真っ白なシャツに灰色の作業着を羽織っている。服を着ていても細いのがわかった。

 ちゃんと食べてるのか心配になるわね。

 母さんはたびたびそう言った。


 あいさつをすると、彼は微笑んで頭をぺこりと下げる。だが、ほとんど会話はない。あの犬は飼い主に似たのかもしれない。

 そのくせ彼は、町内会のごみ拾いには欠かさずやってきて、誰よりも熱心に手を動かした。大人たちが話しかけると、彼は困ったように笑ってみせる。近所の人たちは、そんな彼とつかず離れずの距離で付き合っていた。毒にも薬にもならない。ぼくは心の中でそっと呟く。


 夕暮れを過ぎて暗くなると、犬は家の中へと入れられた。

 そうして彼は夜遅くに原付でどこかへ出かけ、日の出とともに戻ってくる。静まり返った家々の間では、エンジンをふかす音は大きく響いた。

 目が覚めるのよね、と母さんは時折ぼやいたが、ぼくにとって、彼のエンジン音は朝を連れてくるものだった。朝が来なくなるのは困る。


 小学校への通学路の途中で、毎朝彼とすれ違った。犬を散歩させて、ちょうど帰ってくる彼と。

 彼はやっぱり白いシャツに灰色の作業着を羽織った格好で、その脇にぴたりと犬が付き従っていた。ふたりを繋ぐ丈夫なリードはだらりと垂れ、たとえリードや首輪がなくても、この犬は今と同じ距離を保って歩くんだろうな、と思わせた。


 薄ピンクの舌とくるりと丸まった尻尾が、歩くたびに揺れていた。あと五歩ですれ違う、というところで、立ち止まってあいさつをする。

 おはようございます。

 彼は小さく「おはよう」と言って微笑む。それからぼくの傍を通っていく。

 大人にはお辞儀だけなのに、彼はなぜか、ぼくには言葉で返す。彼の声は見た目に反して低かった。胸の奥がじんと痺れる。


 ぼくが四年生になったころから、目に見えて犬は年老いていった。焼きたての色をしていた背中には白い毛が目立つようになり、うつ伏せで眠っている時間が増えた。かつて丸まっていた尻尾は、ゆるくほどけて地面に落ちていた。犬はときどき不気味ないびきをかいた。

 朝にすれ違うときの足取りもおぼつかない。彼が犬を両腕で抱えて、よろよろと帰ってくるところにも出くわした。額には汗が光っていた。

 犬が道端に座り込み、その隣に彼がしゃがんで背中を撫でている姿を何度も見た。あいさつはできなかった。彼は老いた犬だけを見つめていた。


 ついこの間までしゃきしゃき歩いていたのにね。

 夕食を取りながら母さんが言った。父さんは黙ったまま唐揚げを口に放り込み、ぼくもそれにならった。父さんは大の犬好きだ。父さんが犬を飼おうとしない理由が、わかった気がした。


 お向かいさんの犬は外に出てこなくなった。

 家の中で過ごすようになったのだろう、時折ドアから顔を出すのを見かけた。色の薄くなった鼻をひくつかせ、吹き込む風に目を細める。犬のくせに、人間みたいな表情だった。真っ赤な首輪が光る。背中は見えなかった。


 そうしてあるときを境に、お向かいさんの犬は姿を見せなくなった。父さんと母さんは、あえてその話題を出さないようにしていた。テレビに犬が出ると、食卓は不自然に静まる。


 夜遅くと朝早く、決まって響く原付のエンジン。ぼくは目を閉じてその唸りを聞く。変わらないものと変わったもの。彼は律儀に朝を連れてくる。


「鍵をなくしたんです」


 ある日の夕方、ぼくは彼の家を訪ねた。

 彼は驚いた顔をして、「お父さんとお母さんは」と聞いてきた。夕方過ぎじゃないと戻らない、と答えると、彼はためらって、けれど家の中へと招き入れてくれた。


「おじゃまします」


 ぺこりと子どもらしく頭を下げて中へと入る。彼がかすかに笑った気配がした。ほんの少しの罪悪感が胸をよぎる。家の鍵は、本当はぼくの背負うランドセルの中にあった。


 家の中は外から見るよりも広かった。物が少ないからかもしれない。部屋の真ん中に使い古したちゃぶ台があって、それが彼の雰囲気にぴったりと合っていた。


 初めて入ったけれど、初めてではない。

 ぼくはランドセルを下ろしてちゃぶ台の脇に正座をした。彼は距離を取ってあぐらを組む。

 部屋のどこにも、犬の姿はなかった。


「一緒に探しにいこうか」

「え?」

「鍵、探しにいこうか」


 心配そうに聞く彼に「大丈夫です」と返した。彼は「そう」と頷き、視線をさまよわせてから頭を掻いた。


「テレビとか、あったらよかったんだけどね」

「大丈夫です」


 ぼくはもう一度言う。

 彼がテレビを好まないことを、ぼくは知っていた。戸棚の上のラジオ。埃も被らず置いてあるそれを見つめていると、彼が静かに言う。


「あ、ラジオ聞いたことある? でもあれね、壊れちゃってるんだ」


 それも知っていた。

 随分前に壊れたそのラジオを、彼が大切にしていることも。インテリアとしておしゃれな感じがする、と楽しそうに口にして、彼はラジオをそこに置いたのだ。


 ぼくがまだ「俺」だったころ。

 彼の恋人として、この家にふたりで住んでいたころ。


 視線を下ろすと、戸棚のガラス戸越しに見覚えのある赤が見えてぎくりとした。それは首輪だった。持ち主を失ってもなお、ぴかぴかにきれいなままの首輪。

 ぼくの目が追うものに気づいたのか、彼は小さく「ああ」と漏らし、それから口元を覆った。筋張った手の甲には、重ねられた年月が滲んでいる。


「もう少し、長生きすると思ってたんだけど」


 口調は淡々としていた。

 彼は悲しいときや寂しいとき、あえて感情を込めない話し方をする。人から同情されるのが苦手なのだ。彼は憐れまれるのを極端に嫌う。憐れみには侮りが含まれているから、と。


「何がだめだったのかな」


 ぼくは答えなかった。ぼくの目から見て、だめなところなんてひとつもなかった。けれどその答えは彼が求めるものではない。だめだった、という結果だけが、彼の心に居座っている。今の僕に、その重しを退けてやる力はない。

 ひとりごとのように、彼は続けた。


「昔ね、動物なんか飼うもんじゃないって言われたんだ」


 彼のことばには主語がない。昔からの癖だ。「話していることを掴みきれなくなるから主語を付けろ」と何度も注意したのに、いまだに直っていないらしい。


 たぶん、直す気がないのだろう。物腰は柔らかいのに、彼には妙に意固地なところがある。正直者は馬鹿を見るんだ、と言えば、正直でいられないなら馬鹿の方がましだ、と返された。たくさんけんかをした。融通のきかない不器用さが、ぼくは好きだった。とてもとても好きだった。誰よりも。


「絶対後悔するから、って」


 彼は疑り深いが、一度信頼した相手をどこまでも大切にする。ぼくはそのことをよく知っている。冬の寒い朝、柔らかな布団にぬくぬくと包まれるような安心感。そんな温もりを与えるのが、彼はとびきり上手かった。 


 けれど大切にすればするほど、失ったときの痛みは強くなる。

 ぼくは彼が深い痛みを味わうことをおそれたのだ。 

 だから、動物を飼いたいという彼の希望を聞かなかった。


 そしてぼくがいなくなってから、彼は望みをかなえた。


「まちがってたよ」


 赤い首輪をちらりと見てから、彼は言った。


「あいつを飼ってよかった」


 彼は少し得意げだった。目を細める仕草は、どこかあの犬に似ていた。吹き込む風の穏やかさを思い出す。飼い主に似ている犬だった。くるんと丸まった尻尾は、ぼくを見るたびぶんぶんと揺れていた。途端に寂しさが押し寄せる。


「仲良くしてくれて、ありがとうね」


 力なく微笑む彼を抱き寄せたいと思った。

 両手を伸ばし、胸に引き寄せて「そうだな、俺が間違ってたよ」と囁いてやりたい。そうしたら彼はきっと、「そうだろ」と笑ってから、声を殺して泣く。やっと泣くことができる。いつもそうだった。彼が悲しみを示せる相手は限られているから。


 でも今のぼくは、彼の恋人じゃない。

 だから、彼はこのままだ。


 伸ばしかけた手を膝に戻した。たとえ今、彼を抱きしめたところで、ぼくは覚えのない感覚に戸惑うだけなのだろう。かつては両腕にすっぽり収めることができた身体は、今のぼくには大きすぎる。


「こちらこそ、ありがとうございます」


 悲しみを含んだ笑顔を彼に向けた。よく見れば、彼の目尻には細かな皺があった。ちゃんと食べてるのかどうか心配になる。母さんの声が耳の奥で鳴った。

 すべてをすっ飛ばして、ぼくが「俺」なのだと伝えたかった。ぼくを受け入れて、もう一度、俺のものになってほしい。


 けれど、彼は受け入れないだろう。

 こんな話、誰も信じるわけがない。


 父さんが言っていた。

 「好き」と「欲しい」を、一緒にしたらいけない。


「かわいかったですね」


 彼はしばし押し黙り、それから頷いた。これまで見たなかで一番嬉しそうな顔だった。しんと心の底が凪いでいく。


 執念深い魂が、彼を求めてこんなところに宿った。住んでいる家が向かいにある。それだけの関係。一番近くて遠いところだ。決して手は届かない。いつか届く日は来るのだろうか。


 こんなことなら、ぼくはあの犬になりたかった。

 彼とともに目覚め、彼の隣を歩き、彼を見送り、彼を出迎える。名前を呼ばれて、温もりのある言葉を向けてもらう。

 でもそれは、かなわなかったことだ。

 ぼくは、ぼくでしかない。


 それからしばらく、ぼくと彼は言葉を交わさなかった。どこか懐かしい沈黙だった。彼がどう感じているかはわからない。でもぼくは、その懐かしさを噛み締めていた。


 外で車が帰ってくる音がした。

 顔を上げる彼を尻目に、ぼくは立ち上がった。母さんの車の音。もうここにいる理由はない。だらだらと居座るのは不自然だった。


「ありがとうございました」

「いえいえ」


 彼は慌てて立ち上がり、ぼくを玄関まで見送った。母さんに変な目で見られるんじゃないか、と焦っているのがわかった。大丈夫です、と先回りするようにまた言ってやると、彼は安堵の息を吐く。


「見つかるといいね」

「はい」


 もう一度お辞儀をして、振り返らずに家へ向かった。

 母さんが車から降りて、不思議そうな顔をした。


 ランドセルの中で、鍵がぶつかる音がする。

 ぼくにしか聞こえない音だ。ぼくだけの秘密。

 後ろでドアが閉まる気配がした。


 ぼくはこれから先、きっと何度も鍵をなくすだろう。


 死にぞこなったこの恋が、いつか形を変えるまで。



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